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《続・「真説古代史」拾遺篇》(28)

狗奴国の滅亡(9)
「倭の五王」は大和の王?(3)


 石渡氏の「倭の五王」九州説否定の論拠は崩れた。従って石渡氏が比定する「倭の五王」を検討する必要は全くなくなったわけだが、石渡説を空想的と決めつけた手前、石渡氏の「倭の五王」を紹介しなくてはならないだろう。「倭の五王」大和説という虚妄の仮説をどこまでも押し通そうとすると、どんな珍説を考え出さなければならなくなるか、そのよい見本と言える。

 石渡氏が崇神・応神の年代を4世紀・5世紀に繰り下げたことは前回紹介した。それはひとえに「崇神=倭王旨」・「応神=倭王武」を主張するための下ごしらえだったように思える。あとは崇神・応神の間に讃・珍・済・興を割り振ればよい。宋書倭国伝が記録している「倭の五王」の続柄だけを論拠に次のような系図を考え出した。


「│」「―」「‖」はそれぞれ親子関係、兄弟姉妹、婚姻関係を示している。
   旨(崇神)
    │
    垂仁
    │
 讃(イニシキイリヒコ)―珍(ワカキニイリヒコ)
    │
  イホキイリヒコ
    │
  済(ホムダマワカ)
    │
    興―ナカツヒメ―メノコヒメ
       ‖     ‖
       武(応神) 継体


 以下、《 》内の文章は石渡説から引用文です。

 石渡氏は「応神=倭王武」からさかのぼっての比定を試みるがうまく行かないので方針を変える。まず讃・珍の比定について次のように述べている。

《そこで、わたしは、武からさかのぼって比定することをやめ、在位年代からみて、讃をイニシキイリヒコに比定する。イニシキイリヒコは、崇神の孫にあたるから、420年ごろには即位していたと思われるので、イニシキイリヒコと421年に宋に朝貢した讃の在位年代が一致するからである。》

 宋書倭国伝に合わせるために「崇神の孫」の即位年を推定しているのだから「在位年代が一致」するのは当たり前である。全く論証になっていない。

《そして、『宋書』には、讃の死後、弟の珍が倭王となったと書いてあるので、『記紀』 にイニシキイリヒコの弟と記されているワカキニイリヒコは珍に比定される。ワカキニイリヒコは、垂仁の大后ヒバスヒメが生んだ皇子で、称号にキ・イリがあるから、兄弟相続制が残っていた当時、イニシキイリヒコの後継者として即位したとみていい。》

垂仁の子供は男13人・女3人いる。男の中で「命」という称号が付いているのは①ホムツワケ、②イニシキイリヒコ、③オホタラヒコオシロワケ、④オホナカツヒコ、⑤ワカキイリヒコ、⑥ヌタラシワケ、⑦イガタラシヒコ、⑧イコバヤワケの8名。他の5人は「王」という称号。「命」の中から②⑤を選んだ根拠はキ・イリという共通の称号があるからだという。このような根拠で選べるのなら、オホが共通だから③④を選ぶこともできる。「オホ=大」だからこの方がふさわしいとも言えよう。いやいや、③は架空の天皇景行だから都合がわるいか。

《『宋書』が珍と済の続き柄を記載しなかったのは、済=ホムダマワカが、珍=ワカキニイリヒコの甥イホキイリヒコの子であって、済が珍からみてかなり遠い関係にあったからであろう。》

 讃の後を継いだとされているイホキイリヒコは架空の天皇景行の子である。つまりオホタラヒコオシロワケ(景行)に代わってイニシキイリヒコを景行の代役にしている。

 次にイホキイリヒコの子とされている済=ホムダマワカとは応神に三人の娘を嫁がせている王である。その三人の娘の名は高木之入日賣命・中日賣命・弟日賣命。応神が婿入りしたとしているナカツヒメは二女。ホムダマワカについては分注に〈此女王等の父、品陀眞若王は、五百木之入日子命、尾張連の祖、建伊那陀宿禰の女、志理都紀斗賣を娶して、生める子なり〉とある。確かにイホキイリヒコの子である。

 また、継体の妃となっているメノコヒメは上の三人の中にはいない。継体記に出てくる目子郎女のことだろう。「又尾張連等の祖、凡連(おほしのむらじ)の妹、目子郎女を娶して…」とある。中日賣命と目子郎女を姉妹にしているのだから恐れ入る。しかし、石渡氏にとっては十分な理由がある。「仁徳~武烈」を架空の天皇にしてしまったのだから、継体を応神の義兄弟にしないわけにはいかないのだった。

 このようにいろいろと人探しをしているが、興に当たる人物が見つからない。「武の兄の興は、『古事記』が隠しているので、系図には出ていない」と苦しまぎれの言い訳をしている。興だけ隠して、他の四王はどうして隠さなかったのだろう? メノコヒメが目子郎女のことなら、その兄の凡連が興ということになるが、さすがに「連」を天皇にするわけにはいかないか。

 イホキイリヒコを五王の一人にしていない理由は次のようだ。

《済=ホムダマワカの父イホキイリヒコは、珍=ワカキニイリヒコの太子の地位にいたが、何らかの事情で即位できなかったのであろう。そこで、イホキイリヒコの子の済(ホムダマワカ)が珍の死後、倭国王となったと推測される。》

 そうではないだろう。イホキイリヒコ=済、ホムダマワカ=興としてしまうと、崇神が入り婿であるという自説と自己撞着(婿入りの相手がいない)するからだろう。

 以上のように石渡説は論拠なしの推測に始終している。「井の中」の定説以上に空想的だ、という私の断定を分ってもらえただろうか。

 最後に「倭の五王」大和説が虚妄である証左の駄目押しをしておこう。『旧唐書』倭国伝の「日本国は倭国の別種なり」は有名だが、「倭の五王」と同時代の史書にも証言があるのだった。

(以下は『邪馬一国の証明』所収論文『「謎の四世紀」の史料批判』が教科書です。)



 古田さんは『南斉書』倭国伝を取り上げている。

南朝は宋(420~479)・斉(~502)・梁(~557)・珍(~589)と続く。『南斉書』の著者・簫子顕(しょうしけん~537)は南朝の官僚で、宋・斉・梁の三朝に仕えている。「給事中」という官職であった。「給事中」は「天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る」官職である。従って時の天子の側にあって倭王武の使者たちに直接対面し、応答していた人物である。「倭の五王」と同時代の人が『南斉書』倭国伝に次のような記録を残している。

倭国。
(A)
帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗巳(すで)に前史に見ゆ。
(B)
建元元年、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・〔慕韓〕六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ。
((古田さんによる注:「慕韓」は脱落。(A)・(B)は古田)


 古田さんは(A)を次のように解読している。

 この冒頭の一句「帯方の東南大海の島中に在り」が、同じく「倭人伝」の冒頭の左の句を下敷きとしていることは明白だ。

倭人は帯方の東南、大海の中に在り、川島に依りて国邑(こくゆう)を為す。(魏志倭人伝)

 この先文を一句に圧縮しているのである。従って次の「漢末以来、女王を立つ」とは、卑弥呼・壱与のこと、「土俗已に前史に見ゆ」とは、直接には『三国志』の倭人伝を指すこと、一点の疑いもない。


 つまり、“この倭王武の王朝は、『三国志』の魏志倭人伝に記せられた女王たち(卑弥呼・壱与)の後継王朝である”とハッキリと記述しているのだ。「騎馬民族説」や「応神東征説」など、三世紀あるいは五世紀の倭国の政治権力に大きな断絶・移行があったことを大前提にしている全ての論説は成り立つはずがないのだった。

 さらに、古田さんは『翰苑』が引用している『広志』(4世紀前後の晋代の書)の記録を取り上げて
「その頃の倭国の首都圏は、筑紫(博多湾岸と筑後川流域)であり、「八女」付近は、その圏内南辺の中枢地となっていた。」
ことを論証しているが割愛する。詳しくは『「謎の四世紀」の史料批判』をご覧下さい。
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