2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(27)

狗奴国の滅亡(8)
「倭の五王」は大和の王?(2)


 偶然本屋で古田さんの著作が目にとまった。一読してその見事な論証に感服した。それまで疑問に思っていた事柄が次々に解消していった。まだ古田史学のほんの一端を知ったばかりであったが、私自身の学習を兼ねて、多くの人と古田史学を共有したいと思い、古田史学をブログで紹介することに思い至った。それから6年も経過した。

 ブログを始めたときは古代史を取り上げることになろうとは想像もしていなかった。ブログで取り上げた話題は多岐にわたるが、私が取り上げる話題に関心を持たれる人はあまりいないだろうな、と思っていた。ところがなんと、今日アクセス数が50万を超えた。古代史以外の記事でも多くの拍手やコメントを頂いている。ありがとうございます。大きな励みになっています。

 さて、古田さんは文献解読に際しては一貫して「一切の先入観を排し、まず原文全体の表記のルールを見出す。つぎにそのルールによって問題の一つ一つの部分を解読する。」という研究方法を自らに厳しく課している。今回の「平西将軍」問題でもその方法が貫かれている。

(古田さんの「平西将軍」論は『邪馬一国への道標』(角川文庫)や『古代史の宝庫』(朝日新聞社)に所収されているようだが、両方とも私の手元にはない。近くの図書館にもない。幸い両書所収の該当論文がHP「新・古代史の扉」に公開されていたので、それをを利用させていただきます。「平西将軍の謎」「倭の五王論争」です。)

 ところで、石渡氏が引用した文中にはなかったが、武田氏は「平西」を「西を平らげる」という意味にとって、近畿の天皇が九州の熊襲などを征伐したという説話があることからも「平西将軍」は大和にふさわしい、と論じているそうだ。

 熊襲征伐が九州王朝の史書からの盗用記事であることはすでに論証済みだ。(「熊襲征伐」を参照してください。)このことからも既に上のような武田説が意味をなさない議論であることが明らかなのだが、当面の問題(平西将軍)に限って、古田さんによる反論を聞いてみよう。

 武田説に対して、古田さんは「平西」とは“西を安定した領域として維持する”という意味だと言う。その論拠として次の『晋書』張駿伝(管理人注:張駿は前涼の王)の一文を引用して論証を進めている。(以下は、「倭の五王論争」が教科書です。)

駿、又、護羌参軍陳寓、従事徐虓(こう)、華馭等を遣わし、京師に至らしむ。征西大将軍亮、上疏して言う。『陳寓等、険を冒し、遠く至る。宜しく銓叙を蒙る可し』と。詔して寓を西平の相に除し、虓等を県令と為す。

 「征西大将軍」というのは、建康から西のほうを討伐に行く遠征軍の将という意味ですが、同時に張駿の部下の陳寓を「西平の相に除し」と、つまり「西平の相」という名前を与えたというわけです。この場合は、張駿のいる涼州を「西」といっているわけです。

 涼州から見て、もっと西の彼方のどこかを、平げる宰相などというわけはないですね。“涼州自身を安定した領域に保ち、北朝系の支配に入らない”という意味を持った「西平」です。だから「西」自身が「前涼の王の都の領域」を指しているわけですね。こういう実例がちゃんと出ています。ですから、武田さんの論のように、倭の五王を近畿の王者と考えるのはやはり具合が悪いというわけです。

 さらに、問題になっている「平西将軍」そのものを考えてみよう。「平西将軍」が出てくる記事は宋書倭国伝(岩波文庫版)元嘉2(425)年条である。

太祖の元嘉二年、讃、また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍・倭国王に除す。珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴(ゆる)す。

 古田さんは平西将軍が「どの地域を任地とする人物に対して任命されていたか」という視点を持って、宋書全体から任地の分る平西将軍を調べ上げている。次はその一例である。(以下は「平西将軍の謎」が教科書です。)

前の鎮軍将軍、司馬休之を以(もつ)て平西将軍、荊(けい)州刺史(しし)と為す」(武帝紀中)

 次はその全例の集計である。

〈刺史〉
荊州(7) 郢(えい)州(6) 予州(5) 雍(よう)州(2) 南予州(1) 益州(1) 益・寧二州(1)
都官尚書(1) 吐谷潭(とこくこん)(7) 氐胡(ていこ)(1)
(都官尚書は地名ではなく、役所名のようです。)

南朝宋の地図

(全地名を確認することはできないが、ウィキペディアから拝借した。)

この調査結果を古田さんは次のように分析している。

 これによって一目瞭然です。都(建康。今の南京)から見て“西方に当る地域”の刺史にこの称号が与えられています。ことに南予州(管理人注:揚子江の対岸)などは、都のすぐ西側のお隣、といった感じです。

 夷蛮に当る吐谷潭、氐胡の場合も、もちろん西方です。ただ一つの例外として都官尚書があります。これは当然都の任地ですが、これは“兼任”のようです。この点、倭国の場合は「東夷(とうい)」ですから、いささか異なっています。中国の都から見て倭国自体が「西」のはずはありませんから、これは明らかに“倭国内部”の視点です。いわば「メイド・イン・ジャパンの平西将軍」なのです。それに対し、中国の天子からの“追認”を求めているわけです。ですから、その「平西将軍の任地」は、「倭国の都から見て西方に当る地域」だということになります。

 これを今、具体的に考えてみましょう。博多湾岸の太宰府(だざいふ)あたりを都としますと、例の、かつて「一大率」のおかれていた伊都(いと)国。そこは都の西に当りますから、この地の軍事司令官はまさに「平西将軍」の称号にふさわしいものとなりましょう。もちろん、「平西」という言葉自体からなら、末廬(まつろ)国の故地、唐津(からつ)でも、いいわけです。壱岐あたりでも、不可能ではないかもしれません。

 だが、この「平西将軍」について、二つのヒントが倭国伝の文面に秘められています。

 第一。将軍号が「平西(へいせい)・征虜(せいりょ)・冠軍・輔国(ほこく)」と四つあげられていますが、その筆頭ですから、倭国内の臣下中では、最高位だと考えられます(「征虜」の「虜」については、『宋書』では北朝側を「索虜(さくりょ)」と呼んでいることとの関連が注目されます。また「冠軍」は“武官の一種”、「輔国」は“国をたすける”の義です)。

 第二。これらの官号をもらった人について、「倭隋等十三人」と書かれています。その筆頭は「倭隋」です。この「倭」が“倭王の姓”であることは、すでに『失われた九州王朝』の中で論証しました(「倭王倭済」〈宋書、文帝紀〉という表現があります)。従ってここの「倭隋」も当然倭王の王族だ、ということになります(高句麗(こうくり)王は高璉〉、百済王は余映。夫余の余)。でも、「高翼」「余紀」といった人物〈王族の臣下〉が国交の使者となったり、将軍号を与えられたりしています)。

 倭王の一族の「倭隋」が「平西将軍」だったとすると、いよいよ倭国内部での、この称号の高さが分ります。以上の二点から見ると、「平西将軍」の拠点は、“都の西”に当るだけでなく、“倭国内第一の拠点”という性格を帯びてくるのです。

 倭王珍を大和の王とした場合、“都の西”にある“倭国内第一の拠点”とは一体どこだろうか。大和論者が「平西」が“西を安定した領域として維持する”という意味だということを受け入れたとして、難波でも挙げるほかないだろう。何処にしようとも九州の伊都国ほどの説得力は持たない。

 古田さんの議論は、この後、魏志倭人伝にある伊都国の官名「爾支」をどう読むかという問題に続く。(詳しい論証は省く。「平西将軍の謎」を参照してください。)

 「爾支」は「ニシ」と読むという結論を得て、古田さんは次のように続けている。

 「爾支」は「ニシ」です。博多湾岸の都の中心域(博多駅ー太宰府)から見ての“西の拠点”を意味する言葉となります。
 伊都国には「一大率」がいます。これがこの「ニシ」と深い関係をもつことは当然です。長官「ニシ」自身が「一大率」の軍事権力をもつ。そういう可能性も十分ありましょう。倭王が“東夷の国”としては風変りな「平西将軍」の称号を第一の臣下に対して承認するよう、中国側に求めた、その背景には、この「ニシ=西」の称号があった、こう考えるのは、うがちすぎでしょうか。

 しかし、このような、いささか不確定要素をふくむ推定(たとえば「爾」にも、他に「ジ」「ディ」「ナイ」の音があります)は一応別としても、いま確認できること ― それは、九州に「都」がある場合も、その西方に拠点をもつ軍事司令官(長官)がこの「平西将軍」の号をもつこと、それは中国本土における用例から見て、何の不思議もない。 ― この一点です。

 以上のような古田さんの反論に対して、武田氏からの再反論はないということだ。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1696-dd2d22f7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック