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《続・「真説古代史」拾遺篇》(26)

狗奴国の滅亡(7)
「倭の五王」は大和の王?(1)


 「狗奴国の滅亡」という本題に入るためには「井の中」や「騎馬民族説」修正論などで「定説」になっている「崇神・応神=ヤマト王権の始祖王」説が虚妄であることをはっきりさせなければならない。石渡説にもう少しこだわってみたい。

 石渡氏が架空の天皇として切り捨てたのは景行・成務・仲哀・功だけではない。驚いたことに仁徳~武烈の10名も全て架空の天皇なのだ。こんなに大量に切り捨ててしまったら「倭の五王」をヤマト王権の中には置けなくなるだろう、と心配したが、無用の心配だった。

 「井の中」で行われている議論の中で、最も空想的な議論の一つが「倭の五王」についての議論だ。『「倭の五王」とはだれか』で取り上げた。とても学者の議論とは思えない。彼らは学者のお面を被った空想家だ。空想家には古田理論を無視しているために起こる悲喜劇が見えない。

 石渡氏の「倭の五王」説はさらに輪をかけて空想的だ。そのあらましを紹介しよう。

 まず、『古事記』に登場する天皇の中で石渡氏によって実在の天皇という栄誉を与えられた人物を確認しよう。(架空の天皇とされた人物を打ち消し線で示した。)

神武~開化
崇神(古始祖王と呼んでいる。)
垂仁
景行~仲哀・功
応神(新始祖王と呼んでいる。)
仁徳~武烈
継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明
崇峻・推古

 騎馬民族説(江上説)では崇神は邪馬台国を滅ぼして北九州に王朝を創設したとしている。石渡説での崇神は大和まで侵攻して、そこで王朝を創建している。また、石渡説では、応神は百済の王子昆支で、崇神王朝の入り婿となり新王朝を樹立したとしている。

 架空の人物を大量生産した石渡氏も、さすがに「倭の五王」と新肖古王から七支刀を送られた倭王旨を抹消することはできなきい。中国の正史あるいは金石文に残された史実なのだから。しかし、生き残った天皇に中に6人の王をみいだすことはできない。そこでまず考え出したのは崇神・応神の時代をくだんの6王と同じ時代に繰り下げることだ。主に天皇陵(前方後円墳)の築造年代・大きさ・埴輪などの出土品を根拠に、それぞれ340~400年・440~550年と推定している。キチンとした科学的検証(発掘調査)が行われていない天皇陵を根拠にする危うさを論じるのは今は置く。

 そして、「崇神=倭王旨」とし、垂仁~応神間の新たな天皇継承譜を作り上げて、「倭の五王」としている。「倭の五王」を何が何でも大和に持ってこようとしているのだ。石渡氏は「はじめに」で、古代史学会を支配している「大和中心史観」を排除する、と揚言しているが、何のことはない、「井の中」の住人であった。

 石渡説を読みながら、氏はまったく古田理論を知らないのだな、と推測していたが、さにあらず。「井の中」の学者たちと同じく、知っていて無視しているのだった。「井に中」の「倭の五王」説(大和説)に反対する論者(九州説)として奥野正男と古田武彦を挙げている。(三角縁神獣鏡を論じているくだりにも色々の説を並べている中に古田説も加えている。)

 「倭の五王」を大和に拉致するためには古田説を否定しなければならない。石渡氏は次のように古田説を否定している。

 前述のように、418年ごろまで新羅の王子末斯欣(みしきん)を人質としていた倭国は、崇神王朝が支配する倭国であり、その都は大和にあった。倭王讃が宋に朝貢したのは、末斯欣の脱出事件よりわずか数年後の421年のことであるから、讃が崇神王朝の王であることはいうまでもない。

讃・珍が、北部九州の王ではなかったことは、宋から与えられたかれらの将軍号からも知ることができる。『宋書』倭国伝によると元嘉(げんか)15年(438)珍が安東将軍・倭国王に任ぜられたとき、同時に珍の部下の倭隋(わずい)ら13人も平西(ヘいせい)・征虜(せいりょ)・冠軍(かんぐん)・輔国(ほこく)の将軍号を授けられている。

 「安東将軍」や「平成将軍」などのように、東・西・南・北の方位が入っている、中国南朝の将軍号を検討した武田幸男(たけだゆきお)(「平西将軍・倭隋の解釈」『朝鮮学報』77)は、倭隋に授けられた「平西将軍」という将軍号について、つぎのような見解を発表している。

 倭王などの諸王に与えられた方位を含む将軍号は、南朝歴代の首都建康(南京)を起点とする方位によって選ばれている。倭の五王の将軍号がすべて東方を指すのはそのためである。ところが、諸王の部下の将軍号の方位は、諸王の王都を起点として表記されている。珍の部下に与えられた「平西将軍」の号が、倭王の将軍号とまったく正反対の方位を示しているのは、倭国の王都を起点として表記されたからである。したがって、倭国の王都を畿内としてはじめて「平西将軍」の意味が具体的に理解できるのであって、もし倭国の王都を北部九州とすれば、その西方とは、はたしてどの地方を指すことができようか。

 この武田説は、讃・珍の王都が北部九州にはなかったことを明確にしたといっていい。

 宋の官制においては、平西将軍は安東将軍のすぐ下の地位であり、定員一人の官であるから、珍の臣下として将軍号を与えられた三人の中で一人だけ名が記されている倭隋が平西将軍に任ぜられたとみられている。また、『宋書』は、讃を「倭讃」、清を「倭王倭済」と書いているので、「倭」が国王の姓とされているが、倭隋は、国王と同じ「倭」の姓を名乗っていることから、王族とみなされている。讃・珍の王都を大和とすれば、崇神王家の一族である平西将軍倭隋が担当した地方は、大和からみて西方にあり、加羅地域と最も近く、軍事的にも重要な位置を占める九州地方とみるのが最も自然である。

(中略)

 『宋書』には、珍と済の続き柄が記されていないが、前述のように、済は讃と同じく「倭」を姓としているから、崇神王家の一族であることは間違いない。そして、興と武は済の子であるから、倭の五王はすべて崇神王朝の王とみていい。また、珍のあとの済・興・武の在位年代である、五世紀後半から六世紀初頭までの間も、「大王墓」とみられる巨大古墳は畿内に集中しており、北部九州の勢力と比べて畿内の勢力がはるかに強大であったことを示している。これらのことから、済・興・武の時代にも王都は畿内にあったことがわかる。したがって、倭の五王を「九州王朝」の王とする古田説も成立しない。

 前段と最後の段(中略の後の段)では「崇神は倭王でその都は大和にある」という論証抜きの大前提のもとで、「倭の五王」は「倭」を名乗っているから全て崇神王家の王であると言っている。前回の神武架空説の論証と同様、一種のトートロジーである。これは全く論証の体をなしていない。巨大古墳を論拠にする誤りは前回に指摘済みである。

 一応論証という体をなしているのは石渡氏が引用している武田説である。こういうまともな論証にはまともに応えなければいけない。しかし、私にはその力量はない。だが、幸いにもこの武田説に対しては古田さんの反論があることを知った。それを次回に紹介しよう。
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奈良・中西遺跡:弥生前期最大の水田跡 高い計画性と技術
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mainichi.jp/enta/art/news/20111109k0000m040162000c.html
>奈良県立橿原考古学研究所は8日、同県御所市條の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)としては国内最大の水田跡(約2万平方メートル)を発見したと発表した。
2011/11/11(金) 20:35 | URL | ゴンベイ #eBcs6aYE[ 編集]
【私見】「倭の五王
(旧)『魏志倭人伝(通称)』は、実に巧妙に、「(新旧)二重式読法」で以って、
(新)『隋書』~「壬申の乱」当時とと対応させている。「欠史八代」や「倭の五王」も利用して。

『魏志倭人伝』の(旧)「帯方郡太守・弓遵」は、(新)【高句麗の淵蓋蘇文(大海人皇子)】。
「弓」繋がりの、(旧)「卑弥弓呼」は、(新)【(復活倭国)天武天皇】
★弓遵(倭王・讃)は、死んでいない。我が国に渡来している。

●【私見】「倭の五王(いずれも九州の王)」比定

仮に「【新】(旧)二重式読法」と呼ぶ 

『梁書』を採用【全て、九州の王朝】

【▲孝徳と▼天武の母は、▲皇極太上天皇】
  (▲倭国)   (▼復活倭国)  
【▲孝徳天皇(弟)】【(孝徳の年上の皇太弟)▼天武天皇】
    弥(珍)ーーーーー★讃(天武。后は、鵜野★讃良皇女)
     |
     |
【●推古の母父は、●斉明太上天皇と◆藤原鎌足(舒明天皇)】
 (●臺国)済【推古太上天皇(額田王)】
     | 
     |
   ーーーーー
   |       |
   武     興
【雄略天皇】 【有間皇子】兄・五瀬命
 母は●推古  母は●推古
 父は■弘文  父は▲孝徳
(■日本国)  (▲倭国)
【有間と雄略は、同母異父】


「(新旧)二重式読法」に依る、「第4代 懿徳天皇」・「欠史八代」は、
「(旧)公孫淵・文懿(燕)」……『魏志倭人伝(通称)』の東[魚是]人の銅鐸族・司馬懿に滅ぼされた
【(新)▲統治者・孝徳天皇・倭国(物部氏)】……「白村江(はくすきのえ)の戦い」の敗者

「(旧)卑弥呼」・『魏志倭人伝(通称)』……
【(新)倭皇●君臨者・小野妹子(推古太上天皇・臺国)】・『隋書』

「(旧)卑弥弓呼(帯方郡太守・弓遵)」・『魏志倭人伝(通称)』……
【(新)▼倭王・多利思比孤(高句麗の淵蓋蘇文=大海人皇子)】・『隋書』
2011/12/02(金) 03:24 | URL | 銀河+秋彩 #3Rrase9Q[ 編集]
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