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《続・「真説古代史」拾遺篇》(22)

狗奴国の滅亡(3)
騎馬民族征服王朝説


 前回に述べてたように、私は「東鯷人の在地は銅鐸圏」という説の方を支持するが、「東鯷国」という言葉は用いず、銅鐸圏国家と言うことにする。

 邪馬壹国が倭国の盟主であったのに対して、狗奴国は「分かれて二十余国を為す」銅鐸圏国家の盟主であった。この狗奴国を滅亡させたのはヤマト王権の10代王・ミマキイリビコイヱニ(崇神しうじん)と11代王・イクメイリビコイサチ(垂仁すいにん)」であった。そのあらましは『ヤマト王権の近畿侵略史』と題して学習済みだ。今回は別の観点を加味して『ヤマト王権の近畿侵略史』を補充したいと考えている。その「別の観点」を説明しよう。

 「むらかみからむ」さんから度々コメントを頂いていた。そのコメントは次のようでした。


11/02/24
古代史は石渡信一郎ぬきでは語れない

古代真実追究しましょう。
そのためには石渡信一郎をぬいてはまとまりがつかなくなると思います倭韓交差論なるものお読みになりその感想を聞かせてください。倭韓2度通過論が本当の名前かも。
ぜひ、一度 石渡論を論じてください。

11/4/17
古代史は石渡信一郎ぬきでは語れない

真説古代史の追求頭が下がる思いで読ましてもらっています。
で、お願いがあります。石渡信一郎&林順治氏の倭韓交差王朝説についての見解をぜひ教えてください。

11/6/12
たっさんの古代史も研究素晴らしいとおもいます。ですが、私は古代史を理論的に論ずるには石渡信一郎説が基本になるべきと信じています。ぜひ 石渡論を論じてください。

11/7/13
ぜひ 石渡信一郎説も検討してください。お願いします。

11/7/26
日本古代史の中で石渡信一郎&林順治氏の『倭韓交差王朝説』はきわめて理論的な説であると思いますが、どうして、異端説扱いなのでしょうか?
(注:私は石渡教授&林先生と呼びます)
(注:私は 倭は韓(=百済)を通ってきたと考えたいので 倭百済通過説のほうがいいかもしれないと思いますが。)

『倭韓交差王朝説=倭百済通過説』とは
①崇神は加羅から渡来し、九州のヤマタイ国を滅ぼし、350頃、纏向に第1倭国『加羅(南加羅))』を建て、箸墓に眠る。
②5世紀の中国に遣使した倭国王『讃珍済興』は崇神の子孫になる。大きな前方後円噴に眠る。
③昆支と余紀は百済の蓋鹵王の弟。ともに崇神王家の済(ホムタマワカ)に入婿。昆支は応神になる。余紀は継体になる。
④応神は倭国王武として宋に遣使。491年に第2倭国『大東加羅(あすから=飛鳥ら)」を建てた。八幡大名神になった。
⑤継体は仁徳陵に眠る。仁徳から武烈の間は架空天皇。継体の息子の娘の石姫は欽明との間に敏達を生む。
⑥欽明は応神の息子で531年継体の息子を討つ(辛亥の役)。ワカタケル大王となる。蘇我稲目と同一人物。
⑦蘇我馬子と用明と聖徳太子の3名は同一人物で、欽明の息子。隋に遣使したアメノタリシホコのこと。
⑧蘇我蝦夷はアメノタリシホコと敏達の娘の貝蛸(フツ)姫との息子。子の入鹿とともに天皇。崇峻、推古、舒明、皇極は架空天皇。
⑨馬子に殺された物部守屋は敏達の息子の押坂彦人大兄と同一人物。その息子が天皇になれなかった田村皇子。
⑩天智も天武も田村皇子の息子。但し、異母兄弟。天武の母は馬子(聖徳天皇)の娘で天武は古人大兄と同一人物。

以上 10個は私の子供(小5)はウソだウソだと言っており、確かに、驚くべき説で、内容も難しく、すぐには理解できないもの(特に記紀信者には)ですが、石渡教授が論理的に証明された真実です。

ただちに、石渡教授は東大か京大の日本古代史の教授に推挙されるべきです。そしてこの『倭韓交差王朝説=倭百済通過説』で3から8世紀の日本史の教科書は書きかえられるべきです。

私の子供もウソをマークシートしなければいけない不幸をだれか救ってください。どうして、当たり前のことが、できないのでしょうか??

 私がまったくご返事をしないことに業を煮やされたのかと思います。このブログを熱心に読んでくださっているようなので、熱心に薦められている石渡信一郎氏の著作から『百済から渡来した応神天皇』を選んで読んでみました。副題に「騎馬民族王朝の成立」とあるように江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説(以下、騎馬民族説と略す)を下敷きにした論説だった。いわば騎馬民族説修正論の一つである。

 私が直接読んだ騎馬民族説修正論は石渡説が初めてだが、もちろんそうした修正論者は石渡氏に限らない。例えば、古田さんは「邪馬壹国と冢」(『邪馬一国の証明』所収)で藪田嘉一郎氏(1976年に亡くなられている)の騎馬民族説修正論を取り上げ、その論の大略を次のようにまとめている。

(1)
 耶馬台国は九州にあり、ヤマトと称した。
(2)
 近畿天皇家の始祖は応神天皇であり、騎馬民族が侵入して設立したものである(この点、江上波夫説を継承)。
(3)
 ただし、右の騎馬民族は九州上陸でなく、日本海沿岸地方(多分、越前の敦賀)上陸である(天日槍に注目する)。
(4)
 応神こそ倭王讃である(前田直典説による)。
(5)
 近畿の応神(讃)は九州の邪馬台国を滅ぼし、その名(倭 ― ヤマト)を伝襲して、その後継王朝であるかによそおった。
(6)
 「讃の計画は図に中(あた)った」中国側は彼の言い分を信じて倭の五王に次々と授号するに至った(『宋書』倭国伝)。
(7)
 やがて推古天皇朝に至って、「日出づる処の天子・・・」の対等の国書を隋帝におくった(『隋書』倭国伝)。

 これらの修正論の元にになっている騎馬民族説とはどのような説なのだろうか。実は私は江上氏の著作を読んだことがない。いろいろな論説の中での説明を通して断片的に知っていただけだ。この機会に直接読んでみようと図書館検索をしたら、該当本は貸し出し中だった。いずれ直接読んで確認しようと思うが、とりあえず、ネット内の資料を用いることにした。江上説のあらましをきちんと解説している資料としては「日本古代史をとりまく謎」さんの「騎馬民族は日本を征服したか」という論文の解説が一番簡潔で正確だと思われるので、それを拝借する。

 その解説の底本は江上説の集大成とも言うべき『騎馬民族国家 -日本古代史へのアプローチ-』(中公新書、1965年)である。次のように述べている。

 3世紀末にツングース系騎馬民族(夫余族)の高句麗が、朝鮮半島を南下して南朝鮮を支配する。百済王はこの騎馬民族の首長ではないかと江上氏は示唆している。この騎馬民族はやがて4世紀になって北九州に上陸しこの地を征服する。その時朝鮮からやってきて、後100年ほど続く「九州王朝」の開祖となった者が、後に「崇神天皇」と呼ばれるようになったと言うのである。現天皇家の始祖はここにあるとする。江上氏によればこれが「第一回の建国」ということになる。

 「九州王朝」はやがて「応神天皇」を戴いて近畿征服を果たす。この北九州から近畿への遠征が「神武東征」として日本神話に反映している。「第二回目の建国」である。ちなみに、崇神の渡来はニニギノミコトによる高千穂峰への降臨として説話に残っている、と言う。

 ここで疑問が一つ。「九州王朝」という用語が使われている。私はこの用語を始めて創り用いたのは古田さんだと理解している。その使用開始は『失われた九州王朝』(1975年)だろうか。それを1965年段階で江上氏が用いていたとは思われない。「日本古代史をとりまく謎」さんが挿入したものと思われる。しかし「日本古代史をとりまく謎」さんの他の論文も少し読んでみたが、古田説の影はない。「九州王朝」という用語は古田さんの著作から独立して流布しているということだろうか。

 江上説解説に戻る。

 前述の「騎馬民族国家」のなかで江上氏は、こういう考えに至った理由を8つ挙げている。そのまま抜き出してみよう。

(1)
 前期古墳文化と後期古墳文化とは、互いに根本的に異質なこと。
(2)
 その変化がかなり急激で、その間に自然な推移を認めがたいこと。
(3)
 一般的に農耕民族は、自己の伝統的な文化に固執する性向が強く、急激に、他国あるいは他民族の文化を受け入れて自己の伝統的な文化の性格を変容させるような傾向は極めて少なく、農耕民であった倭人の場合でも同様であったと思われること。
(4)
 我が国の、後期古墳文化における大陸北方系騎馬民族文化複合体は、大陸及び半島におけるそれと、全く共通し、その複合体の、あるものが部分的に、あるいは選択的に日本に受け入れられたとは認められないこと。言い換えれば、大陸北方系騎馬民族文化複合体が、一体として、そっくりそのまま、何人かによって、日本に持ち込これたものであろうと解されること。
(5)
 弥生式文化ないし前期古墳文化の時代に、馬牛の少なかった日本が、後期古墳文化の時代になって、急に多数の馬匹を飼育するようになったが、これは馬だけが大陸から渡来して、人が来なかったとは解しがたく、どうしても騎馬を常習とした民族が馬を伴って、かなり多数の人間が、大陸から日本に渡来したと考えなければ不自然なこと。
(6)
 後期古墳文化が王侯貴族的・騎馬民族的な文化で、その弘布が、武力による日本の征服・支配を暗示させること。
(7)
 後期古墳の濃厚な分布地域が軍事的要地と認められる所に多いこと。
(8)
 一般に騎馬民族は陸上の征服活動だけでなく、海上を渡っても征服欲を満足せしめようとする例が少なくないこと。(たとえばアラブ・ノルマン・蒙古など)。したがって南朝鮮まで騎馬民族の征服活動がおよんだ場合には、日本への侵入もあり得ないことではないこと。

と述べて、次のように結論づける。

「私は、前期古墳文化人なる倭人が、自主的な立場で、騎馬民族的大陸北方文化を受け入れて、その農耕民族的文化を変質させたのではなく、大陸から朝鮮半島を経由し直接日本に侵入し、倭人を征服・支配したある有力な騎馬民族があり、その征服民族が、以上のような大陸北方系文化複合体をみずから帯同してきて、日本に普及させたと解釈する方が、より自然であろうと考えるのである。」

 さて、初めに「別の観点を加味して『ヤマト王権の近畿侵略史』を補充したい」と書いたが、その観点とは騎馬民族説(修正論を含む)と多元史観との対比である。ネット内で見ることができる騎馬民族説への批判には多元史観からのものがないので、このようなテーマを設定することにも何ほどかの意義があるだろうと思った。
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この記事へのコメント
多元史観による騎馬民族説批判について
9月にミネルヴァ書房から発売された古田氏の「俾弥呼」に江上氏の騎馬民族説批判が書かれています。
古田氏は江上説の古代史研究に与えた画期的な衝撃に敬意を表しつつも①江上氏は崇神侵入は4世紀末とするが、高句麗好太王の碑文(414)に一切その片鱗も見られない②倭語に高句麗語による大変化は見られない、③崇神に騎馬民族としての自称名がない、ほか佐原真氏の「馬」に関する論証も挙げ「成立しえない」としています。(最近復刊された『よみがえる卑弥呼』の方が詳しいようです)
2011/10/30(日) 19:45 | URL | 一愛読者 #k9mFTwXo[ 編集]
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