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《続・「真説古代史」拾遺篇》(21)

狗奴国の滅亡(2)
「東鯷国」問題(2)


 『〝呼び名″の「原点」が別々だったのです。』を次のように解釈した。

 「燕地」を原点としたときの「倭人」という〝呼び名″と、「呉地」を原点としたときの「東鯷人」という〝呼び名″は無関係であり、二つの文(A)(B)を関連づけて読むのは間違いである。つまり〝東のはしっこの人″の在地は「倭人」の在地とは無関係に比定すべきであった。

 この改めた「認識の方法」によって、古田さんは東鯷人の在地を新たに次のように比定した。

 では、本当の「東鯷人」はどこにいたのか。

 わたしはそれを「南九州」だと考えています。鹿児島県を中心とする「縄文文明のメッカ」です。

 かつては「東高西低」と言われ、縄文文明は東日本に多く、西日本は少ない、と考えられていました。

 しかし、近年、上野原をはじめ、鹿児島県西岸部一帯から次々と縄文土器が「発見」されてきました。しかもそれは
(一)
 時期が早いこと(縄文早期、前期から中期に至る)。
(二)
 単独の分散型ではなく、質量とも一群の〝拡がり″をもつ出土であり、すでに縄文文明の〝豊かな結実期″が、長期間にわたってつづいていたこと。
いずれから見ても、従来の「縄文観」を一変させるものでした。

 このような「長期」かつ「部厚い層」をもつ縄文文明の存在、それはまさに〝画期的″です。そのような〝華(はな)やかな先進文明″の存在を、対岸の「呉・越の人々」が一切知らずに何百年もすごしていた。そんな事態は、わたしには考えることができません。

 彼等(呉の人々)はそれを「東鯷人」と呼んだ。わたしは改めて、そう考えたのです。

 以上が古田さんの新説だ。私はこれを読みながらいくつかの疑問を持った。

(その一)

 漢書から引用された(A)と(B)はまったく同質の文章であり、このような文章は他にはないということから、古田さんは(A)(B)は同一の原資料による叙述だと指摘している。その通りだと思う。

 また、古田さんは筑紫の弥生王墓群を根拠に、天孫降臨の年代を「弥生前期末」に比定している。今のところ、私は紀元前200年頃ではないかと推定している。

 ところで、朝鮮半島に楽浪郡が置かれたのは紀元前108年~107年だから、漢書の記事(A)はそれ以後の中国(漢)側の認識を示していることになる。同一の原資料からの引用なのだから、このことは(B)についても適用される。天孫降臨から100年以上も後のことだから、倭国の権力基盤も相当確立されていたことだろう。九州の勢力地図は次の図と大差ないと考えてよいだろう。

銅矛分布図

 「橿日宮の女王による筑紫統一」はもとより、さらには「前つ君による九州一円の平定」も終わっていたのではないだろうか。

 南九州は確かに「縄文文明のメッカ」だった。しかし、『「神代紀」再論:考古学が指し差すところ』で取り上げたように、南九州の縄文文明は硫黄島の一大火山噴火により壊滅状態に陥っている。そのため弥生文明のメッカは筑紫・出雲に譲ることになった。上の図が示す通りである。

 私には南九州が「分かれて二十余国を為す」ほどの倭国とは独立した政治勢力を持っていたとはとても思えない。私は、南九州は「分かれて百余国を為す」という倭国の勢力範囲内にあった、と考えたい。

(その二)

 魏志倭人伝の「投馬(ツマ)国」は鹿児島に比定されている。この比定と「東鯷国=南九州」説がともに正しいとすれば、「投馬国」は東鯷人の国の一つということになる。しかし、魏志倭人伝では「投馬国」は「使訳通ずる所三十国」のうちの一国であり、倭人の国の一つとされている。矛盾しないか。

 一方、「東鯷国=南九州」説が正しいとすると、東鯷国は「前つ君による九州一円の平定」時に滅亡したことになる。「前つ君による九州一円の平定」の時期も特定できないが、イワレヒコの東侵などを勘案すれば紀元前1世紀前後だろう。このことは(B)が楽浪郡設置以後の資料という事実と合わない。さらに、次の資料事実とは決定的に相容れない。

 古田さんによる旧説の概略には省かれているが、『日本列島の大王たち』では(A)(B)の他に左思『三都賦』の「魏都賦」から

時に東鯷、序に即(つ)き、西傾、軌に順(したが)う。

を引用して、
「漢末にこの東鯷人が貢献していたことが知られる。」
と論じている。つまり3世紀初頭までは東鯷国は存在していた。

(その三)

 古田さんは、東鯷人の在地比定のために、(A)(B)以外にもう一つ資料を引用している。唐代(660年)に成立した張楚金の『翰苑』である。

境は鯷壑(ていがく)に連なり、地は鼇波(ごうは)に接す。南、倭人に届き…。(『翰苑』三韓)

〈註・雍公叡〉鯷壑は東鯷人の居、海中の州なり。鼇波は海を倶(とも)にするなり。(海を)有するなり。


 古田さんこれを次のように訳している。

(本文)
 三韓の地は、東の海に接し、その向こうは、東鯷人の地(地下住居)に連なっている。南は倭人の国に届き…

(註)
「鯷壑」とは、東鯷人の居であり、彼等は海中の州に住んでいる。「鼇波」というのは、三韓の地と東鯷人の地と、両者の間にこの海があり、両者この海を共有しているのである。

 (A)と(B)関連させる方法を「否」としているので(A)を除外して、(B)と上の『翰苑』の資料だけで東鯷人の在地を考えてみよう。「東の海」は日本海であろう。「会稽海外」で三韓と日本海を共有している所。

会稽の東

 「日本海を共有している」のだから南九州ではあり得ない。また、紀元前108年(楽浪郡設置)~紀元8年(前漢の滅亡)頃の倭国の範囲や倭国からの情報による中国(漢)側の日本列島についての地理的認識をも考慮しよう。その当時の倭人の在地でない地域を上の図の範囲で探すとすれば、やはり銅鐸圏しか考えられない。(A)を除外しても「東鯷国=銅鐸国家」としかならない。私は「東鯷国=銅鐸国」説の方が信憑性が高いと思う。

さっそく「 Authorの論旨からして「私は『東鯷国=南九州』説の方が信憑性が高いと思う」というのは誤記ではないのでしょうか?」というコメントを頂きました。ありがとうございます。訂正します。 )
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2011/10/26(水) 17:23 | | #[ 編集]
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