2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(20)

狗奴国の滅亡(1)
「東鯷国」問題(1)


 今回のテーマは4年ほど前に取り上げた『ヤマト王権の近畿侵略史』の補充編である。『ヤマト王権の近畿侵略史』は次の5編からなる。

『ヤマト王権の近畿侵略史』:イワレヒコから第九代まで
『ヤマト王権の近畿侵略史』:木津川の決戦
『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(1)
『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(2)
『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(3)

 この時の教科書は『日本列島の大王たち』(朝日文庫版)だった。ここでは古田さんは「東鯷国=銅鐸国家」という説をもとに論究していた。その後、古田さんはこの自説を撤回し、「東鯷国=南九州」説に訂正している。

 『ヤマト王権の近畿侵略史』はヤマト王権による銅鐸国家への侵略だから、東鯷国の比定が変わってもその本筋には変更の必要はない。現在の私(たち)の到達点を加味するとすれば、「東鯷国」を「狗奴国」と読み替えればそのまま通用することになる。

 しかし、「東鯷国=南九州」という新しい古田説をそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。その根拠を知りたいと思っていた。その説は『邪馬壹国の論理』(ミネルヴァ版)の『日本の生きた歴史(4)第4「誤認」論』で論じられていた。それを検討してみよう。

 まず旧説を復習しておこう。「誤認」論には古田さん自身による旧説の概略が述べられている。それを転載するが、詳しくは「会稽海外、東鯷人有り!」
を参照してください。

 わたしの理路は次のようでした。

 漢書には次の二文があります。

(A)
 楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。(燕地)
(B)
 会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。(呉地)

 右の(A)は有名です。教科書などにも、必ず、と言っていいくらい「引用」されています。

 しかし、この漢書には、もう一つ、全く同じスタイルの文章があります。それが(B)です。

 会稽郡の外、つまり東シナ海に「東鯷人」と呼ばれる住民がいて、あの「倭人」と同じように、年々、きまった時に、中国へやって来る、というのです。この「東鯷人」とは、何者でしょうか。

 辞書で引けば「鯷」は〝なまず″です。しかし〝東の「なまず」の人″では、何のことかわかりません。

 そこで「魚へん」を〝取って″みました。「倭人」の「倭」が志賀島出土とされていた金印では「イべん」がなく、「委」とされているのは、有名です。(第一回「日本の生きた歴史」参照)

 三国志の魏志倭人伝でも
 ①狗邪韓国→対海国(度)
 ②対海国→一大国(渡)
 ③一大国→末盧国(渡)
となっています。「度」と「渡」と「共用」もしくは「混用」です。

 ですから「鯷」も「魚へん」を〝取り除き″、「是」で見ますと、〝はしっこ″の意味です。音は「ティ」です。例の「土堤(どて)」の「是」だったのです。

 とすると、「東鯷人」とは、〝東のはしっこの人″という意味となります。

 わたしはそのように考えたのです。

 『日本列島の大王たち』で始めてこの理路を読んだとき、「是」に「テイ」という音があり、その場合は「はしっこ」という意味になることを知らなかったので、「へえ、そうなんだ!」と感心するばかりだった。今回は自分でも確認しようと手元の『漢語林』で調べたが、そのような読みも意味も全くない。音は漢音「シ」・呉音「ジ」・慣用音「ゼ」だけで、意味は「①これ。この。ここ。(指示代名詞)②これ。(助字)③ただしい。よい。」だけである。念のため『広辞苑』で「テイ」を調べたが「是」はない。

 古田さんが根拠のないことを書くとは思えないので、図書館へ行って諸橋『大漢和辞典』を調べた。ありました。

「是」の読み方
 驚いたことに「一 シジ」の方には16通りもの意味がある。それに対して「二 テイ」の方は「ふち。さかひ。はし。」だけである。

 確かに「是」には「テイ」という音があり、意味は〝はしっこ″であることが確認できた。古田さんはここまでは訂正の必要はないとしている。続きを読もう。

 〝まちがった″のは、その次でした。

「〝東のはしっこの人″だから、『倭人』より、もっと東にいる人々だろう。」

 そう思ったのです。とすると
「倭人は、九州の北部、筑紫を中心とする地帯にいる。銅矛・銅戈・銅剣の分布地帯だ。従って、そのさらに『東』に当るのは、近畿を中心とする〝銅鐸圏の人々″である。」 と、論をすすめたのです。その結果が右の二篇となったわけです。(管理人注:右の二篇とは『邪馬壹国の論理』Ⅲ節中の「「銅鐸人の発見」と「金印の『倭人』と銅鐸の『東鯷人』」)

 しかし、このような「論のすすめ方」はまちがっていました。なぜなら
 (A)は「燕地」(北京付近)
 (B)は「呉地」(会稽山付近)
というように、〝呼び名″の「原点」が別々だったのです。

 それなのに、この「史料事実」の〝ちがい″を無視して「東鯷人は、倭人よりもつと東(はしっこ)にいる。」と「速断」したのです。〝あやまり″でした。「認識の方法」がまちがっていたのです。

 旧説を誤りとする根本の理由は『〝呼び名″の「原点」が別々だったのです。』というくだりに込められていると思う。しかし、このくだりが私にはよく分らない。(次回に続く。)
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