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《続・「真説古代史」拾遺篇》(17)

番外編:『「矛」か「弟」か?』の補充
丸山林平「定本古事記」を読む(1)


 〈大系〉は「訂正古訓古事記」を底本に選んでいるが、その理由を
「真福寺本をはじめ他の諸伝本には、一層多くの誤脱があるから、現状は古事記伝の本文か古訓本の本文を底本とするのが、最も穏やかなように思われるのである。」
としている。つまり諸写本は「誤脱」が多く信じられないので、宣長の校訂を信じようというわけだった。太安万侶が記録した原本がないのだからこのように判断するほかないのだろうが、宣長一辺倒でよいのだろうかという疑念が残る。宣長一辺倒に対して異論はないのだろうか。そのような疑念を持ちながらネット検索をしていたら、『丸山林平「定本古事記」』というサイトに出会った。

 私には丸山林平という学者は未知の人である。略歴を知りたいと思ったが、ネットにはないようだ。ただ、静岡英和女学院短期大学研究紀要にその名があった。静岡英和女学院短期大学の教授を務められた方のようだ。その紀要には
「送りがな法」
「上代語音の甲類・乙類に関する疑点」
「上代語音の清濁に関する研究」
などの論文を寄稿している。「上代語音」の研究者のようだ。

 上で「務められた方」と言ったのはすでに亡くなられた方だからだ。上記のサイトには
「以下の丸山林平「定本古事記」は、同氏の相続人より、SSI Corporationが著作権の譲渡を受けたものである。」
と記されている。全文が公開されている。一段落毎に「原文―読み下し文―丸山氏による解説」がある。丸山説は正しいかどうかは安易にすべきではないのでそれは置いて、検索機能もありとても充実したサイトである。

 「序説 三 古事記の伝本」には〈大系〉の解説にはない事実や異なる説もあるので紹介しよう。まず、真福寺本に次のように述べている。

真福寺本 三巻(真本)
 現存の古事記伝本のうち最も古いものであり、尾張国、今の愛知県名古屋市の真福寺の僧賢瑜(当時27~8歳)が、応安4~5年(1371~1372)に書写したものであり、国宝に指定されている。足利義満の時代であるが、室町時代というよりは、むしろ吉野時代の末期に当たる。

 この若い僧は、全然古事記が読めなかったらしく、ただ祖本を盲目的に書写したにすぎず、その際に、おびただしい誤写を犯し、そのうえに脱字・衍字などがきわめて多く、まことに天下の最大悪本たる観を呈している。


 真福寺本の誤記について私は
「まるで文章の意味など考えずに、字の形だけを写しているみたいな誤記だ。」
と書いたが、あながち間違った推定ではなかったようだ。

 このあとその誤記の例をいくつか挙げている。しかし、「弟」はその中には見られない。次のようである。

 一、二の例をあげると、序文では「皇帝階下」などと誤写している。明治ごろなら、さしずめ不敬呼ばわりをされたことであろう。

 本文では、「須」を「鋼」に、「裳」を「禹」に、「鬘」を「縵」に、「靫」を「靱」に、「劔」を「釼」などに誤写し、その他、脱字・衍字の類は枚挙にいとまなく、中には何のことかさっぱり見当もつかないような部分が、すこぶる多く混じている。ただ、古い写本であるということで、国宝になっているまでのことである。

 しかし、古い写本であるだけに、参考になる点がなくはない。わたくしは、真本の用字のうち「豐」などは、古写本や延佳本や書紀などの用字と同じであるから、記伝の「毘」には従わず、真本の「豐」に従うことにしている。

 丸山「定本古事記」も「訂正古訓古事記」を底本としている。しかし、宣長一辺倒ではなく批判的に使用している。上の「記伝に…従わず」はその一例にすぎない。

訂正古訓古事記 三巻(底本) 本居宣長著、寛政11年(1799)刊。

 わたくしは、この書を底本としたので、略称を用いずに「底本」と呼ぶ。この書は、宣長が30余年の歳月を費して完成した「古事記伝」に基づき、さらに本居太平の厳密なる校正によって刻せられたものである。記伝の完成したのは寛政10年であるから、その翌年に刊行されたものである。

 文字も訓も、ほとんど記伝のままであるが、まれに記伝と違うところもある。たとえば、記伝で「建内宿斑」と訓じているものを、この書では、初めのうちは記伝と同じく訓じているが、のちには「タケシウチノスクネ」と訓じている。なるほど、記の「建」(健の省字)も、紀の「武」も、「タケシ」「タケル」などと読むべき文字ではあろうが、その語幹をとって「タケ」と読んでよく、記の「倭建命」、紀の「日本武尊」などの「建」「武」も、「タケ」と読みならわされているし、その御名代なども「建部」「武部」と称している。そのほかにも、記中「建」を「タケ」と訓じている箇所が多いから、やはり記伝の訓のごとく「タケウチノスクネ」がよいであろう。また、文字では、この書は例外なく「无」を「旡」に、「刺」を「剌」に、「肖」を「揩」に、「橋・梯」を「椅」に誤るなど、旧来の誤写をそのまま踏襲している。しかし、これらのことは、ごく些細な問題であるが、記伝に基づくこの書は、記伝の誤訓をそのまま用いているので、実におびただしい誤訓を生じている。

 そして、その主なるものは、実に字音仮名の訓法にある。このことは、項を改めて述べるが、記伝以後、多くの人びとは、記伝の誤訓に盲従して今日に至っている。

 字訓にしても、「野」「角」「篠」「楽」などを、この書はすべて「ぬ」「つぬ」「しぬ」「たぬし」などと誤訓しているが、これらは、橋本進吉氏らによって訂正されている。この点では、かえって延本の方が正しく訓じていること、上にも述べてあるとおりである。が、とにかく、宣長の畢生の大研究たる記伝に基づくこの書は、何といっても、最も権威とさるべきものであること、言をまたぬ。

 記伝と比較されている「延本」とは宣長が校正に利用した一冊「鼇頭古事記」のことである。丸山氏はこの校正本を高く評価している。

延佳本 三巻(延本)

 くわしくは「延佳神主校正、鼇頭古事記」といい、伊勢外宮の権斑宜、度会延佳が校注を施して、貞享4年(1687)に刊行した書である。この書において、はじめて古事記の善本を見るに至った。

 延佳は、ある意味においては、宣長にも匹敵すべき国語学者であり、諸本を校合して本文を定め、片かなで訓を施しているが、延佳は、まだ、宣長のころの国学者の悪風には染まっていず、「豐古」「豐売」などを「ヒコ」「ヒメ」と訓じ、「角」「野」「楽」などを「ツノ」「ノ」「タノシ」などと正しく訓じている。また、頭注には、「開疑聞之誤」とか「弘仁私記序云」とか「旧事紀云」、「日本紀云」、「万葉集云」、「神名帳云」、「姓氏録云」、「和名鈔云」、「延喜式云」、「諸陵式云」などとしるし、その学殖の深さを示している。

 しかるに、宣長は同郷の先学延佳を、どういうものか蔑視して、記伝で次のように述べている。
 今一つは、其の後に伊勢の神宮なる、度会延佳てふ人の、古本など校へて改め正して彫らせたるなり。此はかの脱ちたる字をも誤れるをも、大かた直して、訓もことわり聞ゆるさまに附けたり。されど又まれには、己がさかしらをも加へて、字をも改めつと見えて、中々なることもあり。此の人すべて古語をしらず、ただ事の趣をのみ、一わたり思ひて訓めれば、其の訓は、言も意も、いたく古にたがひて、後の世なると漢なるとのみなり。さらに用ふべきにあらず。云々。

 この批評は酷にすぎる。もちろん、今日から見れば、延本にも誤りがないとは言わぬが、わたくしは、むしろ延本にこそ拠るべき点が多いと信じている。その具体的な例は、本書の校異の箇所において述べることとする。

 この延本などをもとにして、丸山氏は「毘」→「豐」のように独自の校訂を行っている。この校訂に関わる具体的な文言の例をあげると、あのおなじみの「伊波禮毘古」である。「伊波禮毘古」は正しくは「伊波禮豐古」だという説である。「豐」に「ヒ」という音があるとは私には信じがたい説だが、「序説 五.古事記の字音仮名遣」で次のように説明している。


 「卑」(甲類)、「肥」「斐」(乙類)の三字である。記伝・奥山路とも清音に「比」、濁音に「毘」を掲げているが、「比」「毘」は清濁両用である。この点は記伝の根本的な誤りであり、後世に及ぼした悪影響は、きわめて大きく、今日の古事記研究書のほとんどすべては、記伝の誤訓に従っている。なお、「毘」は真本・延本・書紀等すべて「豐」の字形を用いているから、本書はそれに従う。清濁両用「ヒ」「ビ」参照。

 『清濁両用「ヒ」「ビ」』を参照すると、次のようである。(出典のページ数などを示していると思われる数字・記号は煩わしいので削除した。)

ヒ・ビ
 「比」「豐」(甲類)の二字である。「豐」が最も多く誤訓されている。


 清│阿佐比(朝日) 阿志比紀能(あしひきの、枕)

 濁│建日向日豐久士比泥別(肥の国の神格化、「久士比」は霊び) 比比久(ひびく、同音連呼のための濁音)

(ママ)
 清│沙本豐古(紀、狭穂彦。記は沙本比古にも作る。) 海佐知豐古(紀、海幸彦) 久豐(鵠) 都豐邇(遂に)(以上、漢音)
 濁│曽豐良(背平の転濁、せなか) 怒豐流(「野蒜」の連濁) 大豐豐命(同音連呼による濁音、天皇名。紀、大日日天皇)(以上、漢音) 阿蘇豐久流(游び来る) 志豐(人名、鮪)(以上、呉音)

 これだけ例を挙げられたら「豐(ヒ・ビ)」を認めざるを得ない。

 上記以外の諸写本に対しては丸山氏はまったく評価していない。

道果本 上巻(道本)
 僧道果が永徳元年(1381)に書写したもの。これまた、真福寺本とひとしく、誤字・脱字・衍字などが、はなはだしく、全く信をおけない写本である。

道詳本=伊勢本 上巻(詳本) 応永31年(1424)

春瑜本=伊勢一本 上巻(春本) 応永33年(1426)

猪熊本 上巻(猪本) 室町末期か。

兼永自筆本 大永2年(1522)=童範写=前田家本 三巻(前本)慶長12年(1607)

寛永板本 三巻(寛本) 寛永21一年(1644)刊。
 板本であるだけに、最も広く流布されているが、記伝に、「字の脱ちたる誤れるなど、いと多く、又訓も誤れる字のままに附けたる所は、さらにもいはず、さらぬ所も、凡ていとわろし。」とあるごとく、かなりの悪本である。

山田本(山本) 山田以文校訂、天保六年(一八三五)刊。
 古訓古事記と大同小異。とりたてて言うほどのものではない。

 以下、江戸時代末期から明治・大正・昭和にかけて、旧京都学習院の「学習院本」、三国幽眠の校注本、田中頼庸の校訂本、本居豊頴・井上頼圀・上田万年共編の校定本、田中嘉藤次の校異集成本その他、すこぶる多く出ているが、すべては古訓古事記と大同小異であり、字音仮名・字訓仮名など、ほとんどすべて古訓古事記の誤りを踏襲しているにすぎない。

 ところが、近来、最も誤りの多い真本を底本とする傾向が生じている。たとえば、「新訂増補国史大系」の「古事記」や倉野憲司氏編「校本古事記」などがそれであるが、これらの書は、底本のおもかげを残そうとしてか、多くの誤字や偽字、衍字や脱字等を、ほとんどそのまま転載している。われわれは、すでに、古事記の正しい本文を決定すべき時機に到達していることを痛感する。

 「古事記の正しい本文を決定すべき時機に到達していることを痛感する」と書いているが、原本がないのだから、方法としては全体の構成や該当部分の文脈によりよく合致するものを選んでいくほかないだろう。と、前回の結論に付け加えるものは得られなかった。ただし、真福寺本が信頼しがたい写本であるという思いがいよいよ深まった。
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