2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(16)

「狗奴国」は何処?(6)
「交野山」と「高地性集落」


 本道に戻ろう。これまでに分ったことをまとめると次のようになる。

 「女王国より東、海を度(わた)ること千余里」地点にある拘奴国は「銅鐸圏の中枢部」(東奈良遺跡等)となった。そこは「女王の境界の尽くる所」にある奴国(能登半島)の南に当たっている。

 次に問題になるのは地名比定である。果して「銅鐸圏の中枢部」に「コウヌ」「コヌ」あるいは「コウノ」「コノ」と呼ばれる地名があるだろうか。ある。ここで
「地名奪還大作戦(14)」

「地名奪還大作戦(15)」
を思い出して欲しい。そこで古田さんは『万葉集』巻一の2番歌で歌われている「香具山」は実は「交野(コウノ)山」であることを論証している。また、山と言うより丘のような香具山と違って、交野山は「わずか3・400メートルの高さで、絶景で三都を見下ろせる、そんな見晴らしのよいところ」と、古田さんは述べている。(「HIRO'S DIARY vo2登山 その5 交野山~国見山」
というサイトが写真をたくさん掲載していて交野山の雰囲気をよく伝えてくれている。)

 交野山は交野(かたの)市に所属する。同じ文字を用いてるのになぜ読み方が異なるのか。古田さんは次のように説明している。(資料④より引用)

 交野(かたの)市といっても、これは関西以外の普通の人には、これはほとんど、そうは読めません。交野(こうの)市と言ってしまう。しかし、これは交野(かたの)市です。それで、その「カタ」ですが、枚方もそうですが、ほんらい潟(かた)のあるところという地形名詞の日本語ですが、なぜか「交かた」と字を当てます。これは古いこの地名の呼び方。それは、譲りたくない。ですから交野(かたの)と、読めなくとも読ませれば良いのだ。そのような強引な字で、コウノまたはコノという読み方が残ったものと考えています。それで、あの山や平地は、神野と呼ばれる一大地帯です。この神野と呼ばれる地帯の一画に、銅鐸の鋳型の出るところ東奈良遺跡(茨木市)もあります。ですから拘奴(コノ)国と呼ばれる地帯は、簡単に言えば兵庫県南部・大阪府北部・京都府南部の地帯を、そう呼んだのではないか。

 「兵庫県南部・大阪府北部・京都府南部の地帯」が「狗奴国(こうの)=神野国」という説には影響はないが、「かたの=潟野」に疑問がある。地図で見る限り交野市一帯に「潟」があるとは思えない。私は現地を実際に見ていないのだから確言はできないが、次のような説明の方が合っているように思う。

かたの[交野】
 『日後紀』延暦24 年(805)に河内国の「交野郡」、『続紀』和銅4年(711)に「交野郡」で初見する。大阪府交野市、枚方市を中心とする地域で、「かたの(片野)」の意。川と岡に囲まれ、独立した原野を「片野」という。(吉田茂樹編著『日本古代地名事典』)

【追記】(2012・2・13)
 古冢(弥生)時代には大阪湾とつながった湖があり、その湖は交野市・枚方市辺りまで広がっていたことを失念していました。「かた=潟」という古田説の方が正しいようです。『神武東侵』で用いた地図を再掲載しておきます。


大阪古代地図

 次の問題。では狗奴国と女王国はどうして戦火を交えるほど敵対的な関係にあったのだろうか。

 1983年、荒神谷遺跡で銅矛358本、筑紫矛16本、銅鐸6個が出土した。また、1996年には荒神谷遺跡とは山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れていない加茂岩倉遺跡から日本最多39個の銅鐸が出土した。「井の中」では無視し続けているが、古田さんが「九州王朝」に先行する「出雲王朝」を唱道していた。まさに「王朝」と呼ぶにふさわしい出土品である。

 ここで最も注目されるのは銅鐸の多量出土であろう。すなわち、狗奴国(「銅鐸圏の中枢域」)は九州王朝に簒奪された出雲王朝の中の一国だった。狗奴国は九州王朝に帰属することを拒否し、独自の文明を発展させた出雲王朝の後継国家だったのだ。九州王朝とは不倶戴天の敵であった。

 女王国と狗奴国が敵対し続けていたことを裏付ける遺跡がある。高地性集落である。資料④から引用する。

 高地性集落、これはその山のかなり高いところに集落を作っている。森浩一さんが、うまいことを言われる。
「かなり登って行って、ふうふうと息切れがする。もうたくさんだと思ったところが、だいたい高地性集落にたどり着いたころである」と。

 このように、かなり高いところにある。これはたいへん不便な話で二重生活。普段は田を耕しているのは平地である。水があるのも平地である。弥生時代の主たる生活の基盤は平地にある。ところがこんな高いところに集落を作っても、水はないし、ふだんは住めない。簡単に言えば逃げ城である。神護石山城のようなもので、敵が攻めてきたときに逃げ込む、第二の集落です。いつも二重生活を強いられる。たいへん不便です。

 ところが、このような高地性集落が、瀬戸内海の北岸部、広島県・岡山県・兵庫県のところに、点々とあることはご存じのとおりだ。それが一番密度が濃いのは、兵庫県西南部・大阪府北部・京都府南部・奈良県北部。この地帯の人は、恐怖すべき敵が目の前にいた証拠である。現実の敵が目の前にいないのなら、あんな不便なものは、わざわざ作りはしない。そこに拘奴国が存在すれば、考古学的見地から兵庫県東南部・大阪府北部・京都府南部・奈良県北部の地帯であることが言える。

高地性集落分布図

 上の図は「高地性集落」というサイトから借用しました。このサイトの制作者は次のように解説している。

 研究者によっては、この第Ⅴ期の前半の出現期を3世紀中葉の狗奴国との争乱や卑弥呼没後の男王時代の内乱にあて、第Ⅴ期終末期の出現を3世紀末のいわゆる欠史時代に比定するものや、前半の出現期を2世紀後半に位置づけて倭国大乱とし、終末の出現期が3世紀前半の狗奴国の乱に比定しようとするものがある。

 私としては、狗奴国は球磨地方から熊本付近にあったとする立場から、前半の出現期を卑弥呼没後の瀬戸内海の覇権を争う東西勢力の争乱とし、終末期においては畿内大和国の勢力拡大によるものと考える。

 私(たち)は狗奴国は銅鐸圏中枢部と比定してので「第Ⅴ期の前半の出現期を3世紀中葉の狗奴国との争乱」と捉えたい。

 最後に資料④から、公演後の「質問」に対する古田さんの「回答」を読んで、このシリーズを終わることにする。

 邪馬壱国と狗奴国の戦闘状況を説明しろという、たいへんおもしろすぎる問題です。

 一つ言えることは、高地性集落の分布図が示唆を与えています。これは動かないで残っている。それから見ると一番の激戦地だと想定されるのが、兵庫県東南部・大阪府北部・京都府南部・奈良県北部の地帯です。

 それについで存在しますのが、瀬戸内海の広島県南部から岡山県南部・兵庫県東南部に高地性集落がたくさん連なっています。それで敵が攻めてこないのに趣味道楽では城は作りませんから、やはり抗戦地になっていたのではないか。

(中略)

 もう一つある。これはそんなことを言われても困ると言われそうだが、戦いの結果は、おそらく瀬戸内海の海の底に沈んでいるのでは。わたしは海底考古学にひじょうに期待をしています。イタリアなどは、地中海で考古学調査のために潜水艇を作った。日本でつくれない理由はない。それでぜひ瀬戸内海あたりを潜水艇で探索してもらえば、思わぬ交戦のあとが出てくるのではないか。

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 コメント
この記事へのコメント
“矛”を収めて本道に戻るって。
【『古事記』写本の件について。】

結局,自ら解決すべき方途が見出せないまま“矛”を収められるのですね。

このような状況で,どうして,
「ここは正しい。ここは間違っている。」などといった判断が下せるのでしょう。その時の根拠は何なのですか。何を根拠に正邪の判断をなさるのでしょう。

結局,「~ではないか。」という憶測や思い付きを幾重に積み重ねた結果得た古田氏の結論とやらを受け入れて,不十分ながら納得されるのですね。

このあり方は,学問研究とは言えません。信仰と言った方が正しいと思います。

信仰というのは,まず第一に疑わないという前提があるのです。そのような構図なのです。
したがって,あなた様のように古田説の一部であれ疑い始め,検討するなどというのは,信仰ではありません。
現時点では自覚は無いかもしれませんが,後で振り返ればお分かりになると思います。既に棄教への第一歩を踏み出していらっしゃるのです。

“天正遣欧少年使節”の四人の少年の一人,千々石ミゲルが帰国後他の少年ほかの強い慰留にもかかわらず結局棄教してしまったのは,長い往復の船旅の間,これまで自らが得たキリスト教についての様々な知識や情報と現実のあり方との間に強い違和感を抱いたからに他なりません。

ミゲルは,近代的な自我意識に目覚めた文字通り考える人だったのだと思います。小生は彼に,信仰(宗教)から覚醒する人間を見たように思います。

彼は,間違いなく“自分の目でモノ(物・者)を見,そして自分の頭で考えた”近代的な人間の先駆けだったのです。

あなた様の今の状況は,古田氏の言うことを,完全に納得はしないものの,【あの古田サン】が言うんだから,たぶん大筋において間違いはないのではないかという学問信仰に生きていらっしゃるという事です。

一番分かり易い例をお話しましょう。

それは,『隋書』倭国伝の「利歌彌多弗利」という言葉をめぐっての解釈に現れています。

古田氏は,「上塔の利」などという,とんでもない説を出していますが,ここは『隋書』倭国伝を引用した唐の張楚金撰の『翰苑』を見れば明らかです。

「利歌彌多弗利」の部分は,
「和歌彌多弗利(ワカミタフリ)」の誤写だと思われます。

『源氏物語』『宇津保物語』『落窪物語』といった物語に登場する「わかむどほり」という語と同じ内容を指していると考えられます。

『隋書』倭国伝には他にもいくつか誤写(誤字)の可能性がありますが,今それらには触れません。

実は,【古代の日本語にはラ行音で始まる言葉は存在しない】のです。そのことは『国語辞典』を見れば明らかです。

ラ行の箇所に収録されている語彙はすべて外来語であって,日本固有の大和言葉は一語もありません。氏は,そのような事をご存知なかったようです。ご存知であったなら,あんなに恥ずかしい説は,いくら間違っても出せません。

この件は国語を教える教員が,等しく共有していなければならない日本語についての基礎知識の一つです。氏は,どうもそのようなことをご存知なく,長年高校の教壇に立たれていたようです。

そのような教員を採用する教育委員会の方にも問題がありますが,氏もそのような日本語必須の知識を持たない教員に教わった被害者なのかもしれません。しかし,だからと言ってこの状況許されるものではありません。

小生が,以前【学問研究には言葉(日本語)についての素養と厳密さが求められる。】と言ったのは,ご理解いただけなかったようですが,以上のようなことが念頭にあったからです。

http://adat.blog3.fc2.com/?mode=m&no=1647&m2=res&cr=11f522cb8f19d57992fb7fb507517905
日本語についての素養というものが,いかに大事かという例は中小路駿逸氏の画期的な「『日本書紀』の書名の「書」の字について」(『追手門学院大学文学部紀要』)の論考に見られます。

氏は『日本書紀』の書名の「書」というたった一字の漢字に注目し,世界で初めて大変な結果を導き出されました。

その何がすばらしいかは,野口義廣氏の(「“防長学”事始~『大内盛衰記』に見る大内氏の古代伝承をめぐって」正・続『山口県立大学国際文化学部紀要』)に余す所なく説かれています。

氏によれば,中小路氏の論考は,古田武彦氏の九州王朝説を通説(中小路氏の言葉で言えば,日本史一元通念)論者に納得させる際になくてはならない唯一絶対のものであるとの事。

以前,九州の会で氏の話を聞きながら,本当にそうなのだろうかと半信半疑でしたが,あらためてお二人の論文を読むと,深く納得されました。

中小路氏の論考は,これまで間違っていた日本王権史の枠組みを正され,結果日本の人文科学界にパラダイム・シフトが起きたという事を世界で初めて論文という形で指摘したものであるとの野口氏の主張は十分首肯されます。

そして,この事は,人々には知られないながらも,ちょうどヨーロッパ中・近世のキリスト教社会に起きた天動説と地動説の切り替えに似た事柄が,19世紀末日本の人文科学界に起き,静かに進行しているとの事。

以上については野口氏の論考以外に,中小路氏の「古田言説が出現してから~中小路言説とのかかわり」特集「九州王朝説の現在」季報『唯物論研究』No.87(2004)大阪唯物論研究会が大変参考になります。

これは,ご自身の手でこれまでの中小路日本学の歩みを非常に簡潔にまとめられたもので,氏の研究のエッセンスが凝縮された貴重なものです。

『大阪唯物論研究会』
http://www.infonia.ne.jp/~l-cosmos/Link/kihoYuiken.html

どうやら,私たちは大変な時代に生きているようです。
2011/10/10(月) 09:15 | URL | #hvIICHmQ[ 編集]
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