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《続・「真説古代史」拾遺篇》(15)

番外編:「矛」か「弟」か?(5)


 「矛」が「弟」となっている真福寺本を「最も古い写本」ということだけで「最も信頼できる写本」としてよいのだろうか。これが最後の問題だが、この問題を解くことなど、資料も力量もなく、私にはとてもなしえない。ただ、〈大系〉の「解説」という2次資料だけを頼りに門外漢の素朴な疑問を述べるだけである。

 古事記は検定不合格史書として抹殺されていた。それが南北朝時代になって始めて世に現れたと言われている。私は古田さんの『盗まれた神話』を読むまでは、このとき現れた古事記は太安万侶の筆になる原本だと思い込んでいた。しかしそれは真福寺本と呼ばれている写本だった。古田さんはその出現の経緯を次のように推測している。

 『古事記』が南北朝期になって〝突如として″出現したのは、近畿天皇家内の公的なルートではなく、一種〝秘密のルート″つまり、私的なルートから〝流れ出た″ものと見られる。おそらく、太安万侶自身の家の系列にながらく「秘蔵」されており、その線から、長き時間の暗闇を経過して、やっと「浮上」した写本。それが真福寺本なのではあるまいか。

 この文章によると真福寺本が現れたのは南北朝時代だが、それが書写されたのは南北朝時代よりずっと以前だったと読める。しかし〈大系〉の解説には次のように書かれている。(以下、全て複製刊行記事は略す。また西暦年数を付け加えた。)

①真福寺本
 上中下三帖。応安4(1371)年・5(1372)年の書写。現存最古の写本。但し中巻は上・下巻と系統を異にしている。

 ここで素朴な疑問。1371・1372年に書写されたというのだからこの時に用いた底本があったはずだ。その底本が太安万侶が書いたおおもとの原本だったとしたら、真福寺本を信頼してよいと言える。あるいはその底本も写本だったのだろうか。真福寺本はいわば孫写本だった? いずれにしてもその底本については何も分らないのだから何の判断もできない。

 また「中巻は上・下巻と系統を異にしている」とはどういう意味だろうか。古事記の写本は真福寺本系統と卜部家本系統の2系統があるというから、「中巻」は卜部家本系統だというのだろうか。そうだとすると2種類の底本が使われたことになる。もしもそうなら真福寺本は孫写本ということになり、「最も古いから最も信頼できる」とは言えなくなるだろう。

 〈大系〉の解説を読んでいて、疑問がもう一つ出てきた。真福寺本系統の中に真福寺本とほとんど同時代の写本があるのだった。

②道果本
 上巻の前半のみ。永徳元(1381)年書写。
③道祥本(伊勢本)
 上巻一冊のみ。応永31(1424)年書写。
④ 春瑜本(伊勢一本)
 上巻一冊のみ。応永33(1426)年に道祥本を書写したもの。

 ④の底本は③であると明記されている。②と③の底本は明記されていないので「不明」と考えるほかない。あるいは「真福寺本系統」とひとくくりにされているから、真福寺本が底本とも考えられる。「矛」や「沼」の影印を調べればはっきりするけど、資料がないので私にはお手上げ。

 「卜部家本系統」の書写本は次のようだ。

⑤前田家本
 上中下三冊。大永2(1522)年の奥書及び慶長12年(1607)に勅本で校合した旨の奥書がある。
⑥猪熊本
 上中下三冊。室町時代の書写と言われている。
⑦寛永版本
 上中下三冊。寛永21(1644)年開板。古事記最初の板本。

 いずれもなにを底本にしたのか不明。また、⑤の「勅本」って何だろう。天皇家所蔵の写本があったということがろうか。「そんなバカな」と思ってしまう。

 ところで、本居宣長は享保15(1730)年生まれだから、②③あるいは⑤⑥⑦の「矛」の影印が「弟」でなく「矛」そのものであれば、宣長が真福寺本の「弟」を「矛」と原文改定したという古田さんの説は誤認と言うことになる。ちなみに、古田さんは、宣長は真福寺本によって「古事記伝」を書いたとも言っているが、〈大系〉の解説では
「古事記伝の本文は、宣長が苦心して入手した古写本、寛永版本、鼇頭古事記、延佳の校本の写し、村井敬義所蔵本、真福寺本の転写本、真淵の書入本を以って校訂したものと思われる。」
と書いている。これによれば、宣長は複数の資料を用いて「古事記伝」本文を校訂していたことになる。相当信頼してよいのではないだろうか。

 学者たちは諸写本をどのように評価しているだろうか。小野田という学者の底本(古訓本と略称している)に対する資料批判を紹介した上で、次のように述べている。

 以上のような事実から小野田氏は、

1 古訓本の本文は古事記伝の本文より数歩後退している。
2 古訓本の上巻は記伝の字体と一致し、中下巻は通則的に見て延佳本の字体と一致する。
3 古訓本の上巻は、宣長自身選定した改正本に依って松坂で書かれ、それは記伝に極めて近いものである。
4 中下巻は、延佳本を底本とし、記伝の説によって訂正された改正本を藍本として、京都で書かれている。
5 従って古訓本は、上巻と中下巻と成立の過程を異にする合本と見られる。

と推定している。

 古訓本にはこのような欠点があると共に、周知のように記伝にならって、みだりに文字を補ったり、また削ったりしていて、首肯しがたい箇所も散見している。しかし真福寺本をはじめ他の諸伝本には、一層多くの誤脱があるから、現状は古事記伝の本文か古訓本の本文を底本とするのが、最も穏やかなように思われるのである。

 学者さんの文章は難しい。「藍本(らんぼん)」なんて言葉には初めてであった。広辞苑の説明は
「絵画の下書き。粉本。転じて、原本。原典。底本。」
「底本」と同じ意味だ。「底本」と「藍本」をどう使い分けているのだろうか。

 それはさておき、「真福寺本をはじめ他の諸伝本には、一層多くの誤脱がある」と判定しているが、何を基準に「誤脱」の判定をしているのだろうか。どうやら「古事記伝」の本文を基準にしていると読める。「古事記伝」の本文が最も信頼に足りると評価しているようだ。

 〈大系〉の解説を読んでみたが、結局疑問点だらけだった。諸写本の影印比べができれば解ける疑問もあるが、そのための資料がないのだから仕方ない。いや、一つ手はある。複製本がなくとも〈大系〉の脚注を丹念に調べれば諸写本の違いがある程度つかめるかも知れない。と思ったが、真福寺本の「矛→弟」をまったく取り上げていないぐらいだから、正確さは期待できない。止めることにした。ただ一つだけ取り上げておきたい脚注がある。

 真福寺本には立て続けて出てくる「沼(あるいは治)」の一つだけを「詔」と書く信じがたい誤記があった。まるで文章の意味など考えずに、字の形だけを写しているみたいな誤記だ。この誤記に関連して「天詔琴」という言葉に出会った。これに対する脚注は次のような指摘をしている。

底本と⑤・⑥・⑦・鼇頭古事記…「詔」
①…「治」
③・④…「沼」

 〈大系〉は底本通り「詔」を選んだ。⑤・⑥・⑦が「詔」なのだから、この場合も決して宣長による原文改定ではなかった。

 また、①では私と同じく「治」と読んでいる。③・④は「治」ではなく「沼」だ。③の底本は①ではないかもしれない。

 断定的なことは何も言えず、ただ疑問点を述べることに始終してしまったが、以上で「番外編」を終わることにする。
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