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542 新新宗教批判(9)
普遍宗教
2006年7月3日(月)


 教祖が語るバカばなしにかかわらず、『超常的な宗教体験を信用する』人たちを 引き付けるける要素を、吉本さんはもう一つ抽出している。それは超常的な宗教体験 のなかに普遍的な心的体験が潜在しているからだ、と言う。
 それは仏教でいう輪廻転生(生れかわりの無限循環)ということだ。これは 偶然に瀕死の体験をして蘇生した人や、修練によって人工的に瀕死体験を造れ た人(ヨーガ・瞑想・座禅・台密)が、じぶんがじぶんの肉体を離れた幻覚を 造ることができるところに根拠をもっている。そして高橋信次の『心の発見― 神理篇』をみると、度重なる心臓停止の体験からこの幻覚をみて、そこから新 宗教をはじめたことがわかるし、大川隆法は瀕死体験ではないが、憑依のもう ろうとした入眼状態で高橋信次から語りかけてくる幻聴を聞いて死後の神霊の 存在と、肉体とは分離している神霊の独在を信じ、そこから宗教活動に入った ことがわかる。この体験から大川隆法は独特な神(仏)観に到っている。

「神とは、私たち以外の別のところにある他者ではなく、私たちを存在せしめ ているところのひとつの高次の意識体なのです」

「私たちは、自分自身が神の一部であり、神の自己表現の一端をになっている ことに、誇りと自信をもつべきなのです」

 こういうまともに取り扱うに値する高橋―大川系統の独特の神(仏)観に到 達している。この神(仏)観は仏教の通俗化にはちがいないが、輪廻転生を実 体化している新興宗教のすべての教義に共通する神(仏)観としては、もっと も高度な表現になっている。その鍵は、あるひとつの次元の存在は、それより 高次元の霊に統御されて存在するという大川隆法の理念にあるとおもう。


 ここで吉本さんが取り上げている「まともに取り扱うに値する」神(仏)観に 至るのに「輪廻転生」や「あるひとつの次元の存在は、それより高次元の霊に統 御されて存在する」という理念は無関係だと、私は思う。

 大川隆法の神(仏)観の「神」を「自然」と置き換えて少し言い直してみる。

「自然とは、私たち以外の別のところにある他者ではなく、私たちを存在せしめ ているところのひとつの高次の摂理なのです」

「私たちは、自分自身が自然の一部であり、自然の自己表現の一端をになってい ることに、生き方や思想の根拠を置くべきなのです」

 これはもう宗教的な理念ではなく科学的な理念だ。全ての宗教を包含する「普遍 宗教」というものがあるとすれば、その宗教の神は自然にほかならないのではない か。地上から浮遊してさまよい続けた挙句、霊(こころ)は本来のあるべきとこ ろ、この地上に戻ってくる。神秘めかした言説を一片なりとも必要としない。

 私には信仰すべき宗教はないが、宗教的な感性はある。自然の一部として大自 然と感応する「こころ」と言ったらよいだろうか。日本語には適当な言葉がな い。仏教でいう「仏性」?宗教のたなごころの中で思考を停止するわけにはい かない。あるいは「もののあわれ」?本居宣長の手垢がつきすぎている。
 まだよく熟していない理念なので、極私的にそれを「ポエジー」と呼んでい る。「ポエム」が生まれるみなもとと言う意味合いで「ポエジー」。

 古田武彦さんの著書「わたしひとり親鸞」(明石書店)に書名と同名の論考があ る。その最終章『わたしの「信仰告白」』に、私の理念は共鳴する。私がいう「ポ エジー」と同じことを語っていると思う。

 最後に、わたしの「信仰告白」をのべさせていただきます。

 わたしはどこから生まれてきたか。むろん直接には父母からです。祖先から えんえんと血統をうけついでわたしに至ったわけですから、また未来も子孫に 血統を伝えてゆくことでしょう。
 その上、〝血を同じゅうする″親戚・縁者をたぐつてゆけば、それだけ〝血 をついだ〟祖先の数もふえ、従って〝血を伝える″子孫も多いことでしょう。 (わたしたちが普通、「祖先」と言っているのは、いわゆる男系に限られ、真 に生物学的な意味で、つまり「すべての血の上の祖先」ではないことは、ご承 知の通りです。)

 さらに目を拡げれば、アジア・モンゴリアン全体、いや人類全体が「親戚・縁 者」であることは、〝他の動物の視点″から見れば、自明の事実です。

 けれども、今の視点は、こんなせせこましい話ではありません。もっと巨視 的なものです。
 なぜなら、人間は自己を成り立たせるのに、水や植物や他の動物、それらを 〝使って″います。すなわちそれらもわたしたちと同根なのです。そしてその 水や植物は大自然の中から生い出でたものにまちがいありません。従ってわた したちは正確に見つめれば見つめるほど、大自然と同根であることを疑うこと はできません。この「大自然」とは、生物か無生物か。そのいずれでもない、 それらを生み出した淵源です。ですからわたしたちは、やがてそれに再び帰し 去ってゆく。これは自明のことです。

 この帰しゆく先の大自然を何と呼びましょうか。それは〝名づけがたいもの″ なのですから、逆に言えば、何と呼ぼうと各自の自由です。  〝大いなるもの″〝真実なるもの″〝母なるもの″ こういったイメージが わたしにあります。

 そこで「大真実」とか、「大母(たいも)」とか、という名前を〝作って″み ました。
 これは〝名を作った″だけであって、わたしが大自然、すなわちこの大宇宙を 作ったものでないことは明白です。
 大宇宙がわたしを作ったのです。いったんわたしを作った以上、誰かが ―  たとえば地上の権力者が ― わたしを〝気に入らない″といって消してみたと しても、大宇宙は何たびでも〝わたし″を作るでしょう。この〝わたし″の存 在に一片の真実がふくまれている限り。
 悪罵も、嘲笑も、無視も、大母の描いた、この〝筋書き″を消すわけにはいか ないでしょう。

 わたしは自分を何もたいそうな者だとは思いません。うわべは平凡、内面は 愚劣。無恥において無上の者です。
 といっても幸いに、案ずることはないようです。このようにどうしようもない わたしでさえ、やがてある日、大母のもとへ帰り至れること、それは他の何ごと よりも確実、疑いようもないことなのですから。

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この記事へのコメント
> 私には信仰すべき宗教はないが、宗教的な感性はある。自然の一部として大自然と感応する「こころ」と言ったらよいだろうか。日本語には適当な言葉がない。

?これこそまさに、普通は鈴木大拙が使った「霊性」とか言うんじゃないの?
2006/07/03(月) 16:25 | URL | 透ける豚 #-[ 編集]
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