2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(8)



「狗奴国」は何処?(3)
「女王の境界の尽くる所」(1)


 「女王の境界の尽くる所」は魏志倭人伝(以下、「倭人伝」と略す)の記述からは「分らない」というのが正解だった。残る手掛かりは後漢書倭伝(以下、「倭伝」と略す)しかない。その後漢書の史料性格の確認から始めよう。(資料①『なかった』第1章が教科書です。)

 陳寿(233年 - 297年)により書かれた三国志は陳寿にとってはいわば「同時代史」である。多くは自分が実際に見聞した事件である。また陳寿は晋の吏官である。晋は魏から政権を禅譲された魏の後継国である。魏についての史料も豊富だったはずだ。『三国志』は信憑性がきわめて高い史料である。

 『漢書』と『三国志』の間にあるべき後漢時代(25年 - 220年)の史書が欠けていた。范曄(398年 - 445年)はそれを埋めるべく『後漢書』を執筆した。200年以上の後のことである。しかも匈奴に追われて揚子江の南に逃れた東晋が倒れ宋(南朝)が起こったのが220年であり、范曄はそうした激動のさなかに生きた人だ。『後漢書』の編纂はたいへんな難事業だったろう。先行の史書や残存した諸史料を取捨選択しつつ構成するほかなかった。とりわけ「倭伝」は「倭人伝」に頼るほかなかった。

 さて、古田さんは「倭人伝」と「倭伝」の記事の対比表をつくっている。そして次のように述べている。

 これ以外にも、産物・風俗等の記事も、ほとんど『三国志』の文面の換骨奪胎だ。まさに「公然たる盗作」である。だが、むろん、『三国志』は一般周知の史書である。だから〝前代の史書を継承して記述した″というべきかもしれぬ。事実、唐・宋代の史書にもこの方法は一般化している。

 しかし、問題はその継承した記述の中身である。さすがに達文の士として定評のある范曄だけに、『三国志』の原文を要約して、達意の章句に仕上げている。

 しかし、その造文、変句のさいに、しばしば歴史事実の実態がすりかえられている場合があるのである。

 さて、「倭人伝」と「倭伝」の記事の対比表の8番目があの狗奴国の位置を示す記事である。繰り返しになるが、再度掲載する。

(八)(倭人伝)
(a)女王国の東、海を渡ること千余里。復た国有り、皆倭種。
(b)其の南、狗奴国有り、男子王為り。其の官に狗古智卑狗有り、女王に属せず。
(八')(倭伝)
女王国より東、海を渡ること千余里、拘奴国に至る。皆倭種なりと難も、女王に属せず。


 資料①『なかった』ではこれについて次のように述べている。

『(八)については、明らかに(a)(b)を合成して(八')の文を造文している。これが范曄の五世紀における、なんらかの「知聞」もしくは史料にもとづくものか、否か、明らかでない』。

 つまり資料①『なかった』では「倭伝」の「拘奴国」記事が新史料によるものか否か、判断を下していない。これを資料②『失われた』では『五世紀の范曄時点の、「新しい倭国の知識」によって』書かれたと判定している。②『失われた』の「序論」中の「『後漢書』の立場」がその判定に到る史料批判の要をなしているので、少し長いが全文読んでおこう。

 このこと(管理人注:倭国の中心王朝は同じ)は、5世紀前半の史家、范曄によっても裏づけられる。先に范曄の倭国観が「三十余国を統合した中心王朝」であることを指摘した。だが、実はこの構図は単にその記述の対象である前2、1世紀乃至3世紀のものであるだけではない。范曄の同時代(5世紀)を「認識の基点」にしている、と見られるのだ。なぜなら、当然のことながら、『後漢書』の読者は記述の対象となっている後漢の人々ではない。執筆時点の五世紀の南朝劉宋の人々だ。したがって、倭国伝(ママ)のはじめに倭の位置を示すときにも、「楽浪の海中」(漢書)とか「帯方の東南」(三国志)とかいわず、「韓の東南」といういい方をしている。

 後漢の人班固(はんこ)の『漢書』では、楽浪郡は現存していた。だから、その楽浪郡を基点にして倭の位置が示された。『三国志』の場合は楽浪郡の南部が帯方郡となっていた。だから、その帯方郡を基点として倭国の位置が示されたのは当然だった。

 しかし、5世紀南朝劉宋の段階はちがう。もはや楽浪郡も帯方郡も滅亡して、存在しなかった。だから、5世紀の読者に対して、いきなり1、2世紀のそれらの郡の所在地を基点とした説明を展開することは不自然である。ところが、『後漢書』中、倭伝の直前は韓伝だ。そこで、范曄はその韓を基準にして倭の位置を示す、という記述方法をとったのである。このように『後漢書』は、対象としては1、2世紀の後漢を描きながら「5世紀当時の事実」を間接に反映している。つまり、当時の読者 - 当然南朝劉宋の天子を第一の読者とする - の立場に立っているのである。

 このように『後漢書』は5世紀現在という范曄の時代の知識に立って書かれた。

 その動かぬ証拠は、『後漢書』の中のつぎのような記事だ。

(1)
 漢書中、誤りて云う、「西夜(せいや)、子合(しごう)は是れ一国なり」と。今、各自、王有り。(注 前書・〈漢書〉云う、「西夜国王、子合王と号す」と)〈後漢書、西域伝〉
(2)
 漢書云う、「条支より西行三百余日、日の入る所に近し」と。則ち今の書と異なる。前世・漢使皆烏弋(うよく)より以て還る。条支(じょうし)に至る有る者なきなり。〈後漢書、西域伝〉
(3)
 (高附国)漢書、五[合羽]矦(きふこう)の数と為す。其の実に非ざるなり。〈後漢書、西域伝〉


 これらの記述において、范曄は『漢書』の権威に挑戦し、勇敢に『漢書』の「誤謬」を指摘している。その根拠は、「今の事実」や「今の書」(いずれも五世紀范曄の執筆当時)の認識である。(2)の場合など、漢代は漢使が烏弋までしか実際に行っていないからこのような誤った記事になったのだという。「現代」(五世紀)の知識の方がすぐれている、とハッキリいっているのである。

 このような彼であってみれば、倭国の記事についても、〝范曄は『三国志』の記事をそのままひきうつしただけだ″と見ることはできない。前の本(『「邪馬台国」はなかった』)でのべたように、范曄は『三国志』倭人伝の記事のいくつかを誤解し、それに「改悪」の手を加えている。倭国には「女子多し」としたり、「会稽東治(かいけいとうち)」を「会稽東冶(とうや)」と改めたことなど、その一例だ。

 しかし、このことを逆に考えてみよう。范曄が『三国志』を無批判に継承せず、これに対し自分の識見(五世紀の「今」の認識)をもって〝書き改めた″という事実は動かせないのである。

 これが『後漢書』の史料性格だ。だから、范曄が倭国を「きら星のような三十余国を統合した中心王朝」として描いたとき、ただ前2、1世紀~3世紀という過去の事実を書いたというだけではない。同時に5世紀の「今」や「今の書」に照らしてもそうなのだ、と范曄はいっていることになるのである。ことに『宋書』倭国伝に、

(1)
 高祖の永初二年(421)、詔して曰く「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授(じょじゅ)を賜う可し」と。
(2)
 太祖の元嘉二年(425)、讃、又司馬曹達(しばそうたつ)を遣わして表を奉り方物を献ず。讃死して弟珍立つ。使を遣わして貢献す。
(3)
 二十年(443)、倭国王済、使を遣わして奉献す。


とあるのは、元嘉22年(445)に死んだ范曄にとっていずれも生存中の事件だ。ことに(1)(2)の事件は、当然『後漢書』執筆中の范曄は知っていたはずだ。とすると、范曄がこれらの「今」の事件、ことに(1)のような「今」の天子の詔書中の倭国についてのべた内実を無視して、『後漢書』中の倭国伝を書き、その中の倭国観を記したとは到底思われない。だから、もし過去の倭国と「今」(5世紀)の倭国の間に王朝の変動、交替等が存在したとしたならば、范曄がそれに全く言及しない、ということはありえない。なぜなら、5世紀倭の五王の時代は倭国側から貢献使節が頻繁に往来していた。つまり、范曄の重んじた「今」の知識の情報量が、倭国に関して、きわめて豊富な時代だったからだ。その范曄の証言では、前2、1世紀~5世紀間の倭国の歴史の中に〝中心王朝の変動″は生じていない。そういうのである。

 さて、このような史料性格を下敷きに、「倭伝」の拘奴国」記事を検討しているのが次の引用文である。(資料②『失われた』第5章3節「九州王朝の領域」より。)

 これ(管理人注:「倭伝」の「拘奴国」記事)は明白に『三国志』魏志倭人伝の記事に対し、范曄が「修正」をほどこした箇所だ。『三国志』だけからは、どうしてもこのような記事にはならないからである。

 ところで、范曄が『三国志』を訂正する場合のルールはこうだ(序章の中の「『後漢書』の立場」参照)。

(一)
 『漢書』の場合と異なり、『三国志』という書名も出さず、訂正根拠も示さない。
(二)
 しかし、『漢書』の場合と同じく、「今の書」「今の知識」の目から、間違っている、と判断すれば、果敢に訂正する。

 このような范曄の手法から見ると、
(A)
 狗奴国(拘奴国)の位置は、『三国志』では不明確だが、五世紀の范曄時点の、「新しい倭国の知識」によって、知ることができた。
(B)
 それは、女王国の「東」に当り、海路で「千余里」へだたっている。

 つまり古田さんは、記事対応表の(八')は(八)を単純に合成した記事ではなく、「新しい倭国の知識」により書かれたものと判断したわけである。では范曄はこの「新しい倭国の知識」をどこから得たのか。もちろん、あの金印の記事と同じく、後漢時代に残された史料からだ。「倭伝」の拘奴国記事はそれにもとづく「追記」だった。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1677-3a4ab32e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック