2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
不定期便1608 《続・「真説古代史」拾遺篇》(7)



「狗奴国」は何処?(2)
九州王朝の領域


 九州王朝の終焉は701年だが、では始まりは何時なのだろうか。遅くとも漢から金印を授与された委奴国王の時には王朝と呼んでよい制度は整えられていたと考えてよいだろう。参考までに、以前作った「古代史略年表」から壱与の朝貢までを切り取って再録しよう。(一部修正している。)

古代史年表

 史料・金石文などで年代を確認できるものについてはそれを ( )で示した。
年代記載のないものは推定です。


年代 中国 朝鮮 銅矛文化圏
九州王朝
銅鐸文化圏
ヤマト王権
BC4th 戦国時代 青銅器文化始
BC3th 秦(221-206) 鋳造鉄器伝播    
BC2th 前漢(202-)   国ゆずり・天孫降臨「天国→筑前」  
  漢・朝鮮に4郡設置(BC108-107) 錬鉄鍛造品 朝鮮からの渡来者多数  
BC2th   高句麗国成立 橿日宮の女王の筑紫統一「筑前→筑後」  
BC2th-BC1th     前つ君の九州一円統一  
BC1th     「九州→淡路島以西」平定  
BC1TH-AD1th 後漢(25-)   漢から委奴(ゐど)の国王に金印授与される(AD57)  
AD1th-AD2th     倭の国王帥升漢に請見(AD107)  イワレヒコ東侵開始
AD3th 三国時代
魏(220-265)
  邪馬壱国卑弥呼・魏に朝貢(240) イワレヒコの末裔AD3th末ごろまでヤマト盆地の一豪族として地歩を固める(216)
  西晋(265-316)
この頃、三国志成る
三韓時代 壱与・西晋に朝貢(266) ミマキイリビコ(崇神)、ヤマト盆地より出撃・銅鐸国簒奪開始
AD3th-AD4th     イクメイリビコ(垂仁)沙本城の戦い・銅鐸国滅亡


 さて、魏志では狗奴国は「女王の境界の尽くる所」の南にあると書かれている。この記述から狗奴国の位置を熊本県内部とした説がある。まず、この説の検討をしておこう。(以下は、?『失われた』の第5章の「三 九州王朝の領域」を教科書としています。)

 「百問百答」8(1)の回答に、『なかった』で「不注意に邪馬壱国の南」と記したことに対して、読者からの注意があったと記されていた。その読者からの意見はおよそ次のようである。

『「狗奴国」が熊本県付近だというのは不審である。北に邪馬壹国(戸数七万)、南に投馬国(戸数五万 - 鹿児島を中心とする)にはさまれていて、邪馬壹国を脅威しうるとは考えにくい。』

 もっともな指摘である。

 では狗奴国熊本説はどのような議論によって生まれたのだろうか。 古田さんは三品彰英『邪馬台国研究総覧』からその説の論拠を次のように抽出している。

(1)
 この地は、わが古代史料の中で、強猛な異民族と伝えられている熊襲の占拠地であったこと。
(2)
 クマはクナに音通すると思われること。
(3)
 狗奴国の官、狗古智卑狗(クコチヒコ)は菊池彦に通じ、肥後国菊池郡にちなんだ官名、もしくは人名と思われること。

 私(たち)は
景行の熊襲大遠征説話(景行紀)
日本武尊の熊襲暗殺説話(景行記・景行紀)
仲哀・?功の熊襲遠征説話(仲哀記・仲哀紀)
の古田さんによる解読によって、(1)は「井に中」だけで通用する誤読であることを知っている。上の年表の「橿日宮の女王の筑紫統一」・「前つ君の九州一円統一」は古田さんの解読で判明した成果だ。(詳しくは「九州王朝の形成」を参照してください。)

 また(2)(3)はどうだろう。倭の五王の比定と同じような語呂合わせの「地名比定」「官名比定」であり、論証とは言えない。「ク~ク」「クコチ-キクチ」という対応する発音の矛盾には目をつぶって議論を打ち切ってしまう。謬論としか言いようがない。狗奴国熊本県内説には文献上の根拠は何もないことになる。

 「女王の境界の尽くる所」が分らない限り、魏志の情報からだけでは狗奴国の位置は比定できない。

 では「女王の境界の尽くる所」は分らずじまいなのだろうか。この問題の突破口は女王国に属する30カ国の領域を定めることにある。古田さんの議論を追ってみよう。

 手掛かりの一つはあの倭王武の上表文である。すでに何度も読んできた文だけど、煩をいとわず再録する。

封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を脱すること六十六国、渡りで海北を平ぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を靡(ひら)き畿(き)を遐(はるか)にす。累葉朝宗して歳に愆(あやま)らず。(以下略)

 古田さんは「衆夷六十六国」とは九州を指し、「毛人五十五国」とは?中国地方と四国の各西半部を中心とする領域″と解釈している。そして次のような但し書きを付している。

『「東半部に属するもの」の中にも、あるいは海岸沿いで、飛石状に分布する可能性があるから、「西半部を中心とする」と表現した』。

 上の年表では私はちょっと大胆に『「九州→淡路島以西」平定』と書いた。国生み神話を念頭に置いての判断だった。この判断が正しいかどうかはこの後の議論にゆだねよう。

 この上表文は九州王朝の内部で記されたものである。つまり第一史料である。その第一史料が「倭国の範囲は日本列島内、121国にまたがる」と書き残している。これは次のように中国側の史料にも書き継がれている。

楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。(『漢書』地理志)

倭人は……旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。〈三国志、魏志倭人伝)

倭は……凡そ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり。(後漢書、倭伝)

 これはもちろん偶然の一致ではない。倭王武は「累葉朝宗して歳に愆らず(代々朝貢し、歳を違えたことはない)」といっている。これは漢書・三国志の朝貢記事を意識したものである。古田さんはズバリ、次のように断言する。

?漢代初頭の「百余国」と倭王武の示す「百二十一国」の領域は同一だ″。

 言い換えると漢代初頭の倭国から倭王武時代の倭国まで、一貫して一つの王朝が継続されていた。すなわちこれが九州王朝にほかならない。以下、古田さんの文章を直接引用する。

 右の?漢代初頭″という時期を、さらに限定しよう。

 『後漢書』によれば、「武帝、朝鮮を滅ぼしてより」「百余国」から「三十許国」(「許」は?ばかり″)への変化がおこった、と記してある。

(元封二年、前109)朝鮮王、遼東都尉を攻め殺す。……朝鮮を撃つ。(漢書、武帝紀)

武帝、朝鮮を滅ぼし、高句麗を以て県と為す。(後漢書、高句麗伝)

元封三年(前108)に至り、楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を分置す。(後漢書、濊伝)


 すなわち、前2世紀末(前109)以前は、百余国だった、というのである。

 ここで読者は前ページの地図を見ていただきたい。(管理人注:以前使った同種の地図を再利用する。)

青銅器圏図

多くの教科書類にのせられ、今は国民的常識といってもいい、「銅剣・銅鉾、銅戈(か)文化圏」だ。「百余国」は、まさにこの文化圏そのものに当っているのである。この場合、重要なのはつぎの点だ。

 わたしは?考古学上の知識にあわせよう″として、文献をひきよせたのではない。その逆である。前著にものべたように(『「邪馬台国」はなかった』第四章五の中の「考古学との関係」)、考古学上の知見とは、キッパリ切りはなし、純粋に史料批判の論理と実証に従って、文献を解読してきたのだ。そしてその最終の帰結として、考古学上もっとも著名な「文化圏」と相会うこととなったのである。

 この考古学上の「文化圏」を、史料上の基礎に立つ、一つの「政治領域」として論証すること - それは、従来のすべての古代史学説には不可能なことだったのである。

 右の「百余国」の統合されたものが「三十許国」だ。一方では、『後漢書』倭伝冒頭の叙述、他方では、倭王武の叙述、両者とも直截にそれを裏づけている。とすると、この事実は当然、つぎの二点の帰結へと進む。

(一)
 一世紀、志賀島の金印は、三十(許)国代表の王者としての九州王朝に与えられた。

(二)
 三世紀、卑弥呼もまた、この三十国を基盤とする、統合の女王であった。

 右の(二)の帰結は、さらにつぎの地点へとすすむ。『三国志』魏志倭人伝内には、その三十国の国名が記せられている。すなわち、「狗邪(こや)韓国 - 邪馬壹国」間の9国が方角や距離とともに明記されたあと、「其の余の旁国は遠絶にして得て詳かにす可からず」として列記されているのが、つぎの21国だ。

次に斯馬国有り、次に己百支国有り、次に伊邪国有り、次に都支国有り、次に弥奴国有り、次に好古都国有り、次に不呼国有り、次に姐奴国有り、次に対蘇国有り、次に蘇奴国有り、次に呼邑国有り、次に華奴蘇奴国有り、次に鬼国有り、次に為吾国有り、次に鬼奴国有り、次に邪馬国有り、次に躬臣国有り、次に巴利国有り、次に支惟国有り、次に烏奴国有り、次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

右の「9国プラス21国」の合計が、魏志倭人伝冒頭の「三十国」だ、と見られる。すなわち、この中の21国は、?九州から中国地方と四国の各西半部を中心にした領域″に分布している、というのが、上述来の論証が必然的にさし示すところだ。いいかえれば、銅剣・銅鉾・銅戈文化圏内の国々の「3世紀現在」の国名にほかならぬ。 - これが結論である。

 このような帰結は、わたし自身にとっても、意想外のものであった。従来、この21国の「地名比定」は、「邪馬台国」論争の、いわば花形だった。近畿説論者(内藤湖南以下)は、これを近畿大和を中心とする東西の領域にあて、九州論者(牧健二や宮崎康平)らは、九州内部に求めてきた。しかし、地名個々の比定地を求める以前に、まず、「21国全体の領域範囲」に対し、厳密な論証を加えることがなかったのである。今、それは従来と全く異なる領域、すなわち?銅剣・銅鉾・銅戈文化圏の全域″に対して、求められねばならぬことが判明した(『三国志』魏志倭人伝において、中国地方や四国の方向の領域は、「倭種」として記されている。「女王国の東、海を渡る千余里、復た国有り。皆倭種なり」。倭王武の上表にいう「毛人」は、この「倭種」の中に属しているのである)。

 女王国に属する30カ国の領域が分った。次はいよいよ「女王の境界の尽くる所」を検討することになる。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1676-65211d8f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック