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《続・「真説古代史」拾遺篇》(6)



「狗奴国」は何処?(1)
基本事項の確認


向井さんのコメント(2011年5月19日)より
「狗奴国の位置」について古田さんの最新の研究成果についてご存知でしたら教えて下さい。
 東京古田会から発行されている『古田武彦と「百問百答」』の「8(1)」(pp.116-118)に『「狗奴国の位置」に関する記事は、三国志の魏志倭人伝には、ない。』と書かれていますが、私は魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」の記事から狗奴國は女王国の南にあると(里程記事はないが)書かれていると思っていました。確かに後漢書には「自女王國東度海千餘里至拘奴國」とあります。
 魏志と後漢書の「狗奴國」記事についてトータルとしてどう理解すればよいのでしょうか。私としては「9(1)」(p129)の質問者のように范曄が魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」と「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」を混同していると考える方がすっきりと分かるのですが。

――――――――――――

 私は「狗奴国」について表面的なことしか知らないので、今回のテーマも何よりもまず私自身の学習のためのものである。まどろっこしいと思われる方もいるかも知れないが、共通の土俵を設けて問題のありかを整理することから始めよう。まず、向井さんが原文で提示している魏志倭人伝と後漢書倭伝の該当記事を読み下し文で読んでおこう。(岩波文庫版による)。

魏志倭人伝
……次に奴国有り。これ女王の境界の尽くる所なり。其の南に狗奴国あり、男子を王となす。其の官に狗古智卑狗あり。女王に屬せず

後漢書倭伝
女王国より東、海を度(わた)ること千余里、拘奴国に至る。皆倭種なりといえども、女王に屬せず。

 この二つの記事をどう解読するかがこれからの議論の中心課題となる。

 次に「狗奴国」の読み方について確認しておく。

 上に見るように、後漢書では「狗奴」を「拘奴」と表記している。これを「定説」では「クナコク」と読んでいるようだ。

 手元の漢和辞典によると「狗・拘」の音はともに「コウ ク」である。「奴」の音は「ヌ ド」である。『「邪馬台国」はなかった』の「奴国をどう読むか」という項に
『「奴」は「ド」または「ヌ」「ノ」(農都切、『集韻』)であって、三世紀において「ナ」という音であったという確認は存在しないのである。』
とあった。「農都切」というのが私にはさっぱり分らないが、「奴」には「ノ」という音もあったようだ。しかし「ナ」という音はない。「クナコク」という読みは成り立たない。(その後、「反切(はんせつ)」を学習しました。「農都切」の意味が分るようになりましたりました。)

 古田さんは「狗奴国」に関わる論文では「コノコク」と読んでいる場合と「コウヌコク」あるいは「コヌコク」と読んでいる場合がある。この使い分けは後に取り上げることになると思うが、さし当たって私は「狗奴国」を「こうぬこく」と読むことにする。

 次に、議論のとっかかりとして向井さんが取り上げている『古田武彦と「百問百答」』の8(1)と9(1)を読んでおこう。

8(1)
質問(「三国志」の狗奴国の位地)
 初期第一書では不注意に邪馬壱国南、第二書ではそれを訂正のあとがき、その後「60の証言」では邪馬壱国の防衛線を筑後川におき、その南に敵を想定する。現在の考えはどうか、その根拠は。


 質問中の「第一書」とは『「邪馬台国」はなかった』であり、「第二書」とは『失われた九州王朝』を指している。この質問に対する古田さんの答は次の通りである。

 わたしの「狗奴国」に関する説は、次のような「変遷」をとげました。


 不注意に「邪馬壱国の南」とする文章あり。(『「邪馬台国」はなかった』)


 読者からの注意によって訂正。後漢書倭伝の情報によれば、倭国(糸島・博多湾岸中心)の〝東″にあり。瀬戸内海領域と考えた。(「東、千余里」を「短里」によって理解。)


 「邪馬壱国の防衛線を筑後川におく」(「60の証言」) ― これは「中部・南部九州を敵国と見たもの」ではありません。東には瀬戸内海(及び山口県)、西には長崎県、北には玄界灘、いずれも[外敵が侵入してくる]さいの[行路]として、首都圏(太宰府と筑後川流域)を、これらの「外」からの〝侵入″を防ごうとしたものです。
 従って「筑後川以南に〝狗奴国″あり。」の立場ではありません。


 第三の(最近の)立場、これは「千余里=長里」の理解に立つものです。合田洋一さん(古田史学の会)との会話(tel)の途中に気づきました。

(a)
 後漢書倭伝には
  ィ、三国志の魏志倭人伝の「引用」部分、
  ロ、後漢書独自の史料(後漢代の史料にもとづく)。 ― たとえば、有名な「(志賀島の)金印授与(光武帝)」の記事。
の「二種」がある。

(b)
 「狗奴国の位置」に関する記事は,三国志の魏志倭人伝には、ない。

(c)
 従ってこれは、あの金印の記事と同じく、「後漢代の史料」にもとづく「追記」と見るべきである。

(d)
 とすると、「長里の一里=短里の(約)六里」であるから、「糸島・博多湾岸」から東へ「千里」というのは、近畿の一端、大阪府の茨木市・高槻市あたりとなろう。すなわち、当時の「銅鐸圏の中枢部」(東奈良遺跡等)となる。

(e)
 「狗奴」は「この」です。茨木市の東側、枚方市には「高野(この)山」があり、京都府の舞鶴湾近辺には「籠(この)神社」があります。これらとの関係が考えられます。

 古田説の「変遷」の各段階説の出典(初出年)(③は「狗奴国」についての発言ではないので除外して番号を④→③と繰り上げる。)は次のようである。


 『「邪馬台国」はなかった』(1971年)
 (以下、『なかった』と略記する。)

 『失われた九州王朝』(1973年)
 (以下、『失われた』と略記する。)

 「古代に真実を求めて第六集」所収の講演記録『神話実験と倭人伝の全貌』中の「五 魏志倭人伝の全貌」(講演日 2002年7月28日)
 (以下、「講演1」と略記する。)

 『講演1』はHP「新・古代学の扉」で読むことができるが、そこには
「この講演記録は、現在の古田氏の考えと違っております。現在の考えを理解する一助で公開します。」
という断り書きが付けられている。講演の内容は多岐にわたっているので、そのうちのどれが「現在の古田氏の考えと違って」いるのか判然としないが、一応心して取り扱うことにしよう。

 なお、『古田武彦と「百問百答」』が編纂されたのは2004年である。その後、もしも上の回答に変更があったとすれば、次の2資料にその変更が反映されていると考えてよいだろう。


 「古代に真実を求めて第九集」所収の講演記録『「釈迦三尊」はなかった』中の「四 沈黙の論理 - 銅鐸王朝(拘奴国)」(講演日 2005年1月15日)
 (以下、「講演2」と略記する。)
 「講演2」は「講演1」の続編で、九州王朝(邪馬壹国)と銅鐸王朝(拘奴国)との不和の淵源に触れている。

 ミネルヴァ書房による復刊版「古田武彦・古代史コレクション」の巻末に書き下ろしの論文「日本の生きた歴史」が連載されているが、『古田武彦・古代史コレクション2失われた九州王朝』(2010年2月)の「日本の生きた歴史2」には「第六 拘奴国論」がある。「講演1」「講演2」のまとめと言ってよいだろう。短文ながら新たな問題提起も含まれている。私の知る範囲では、これが「狗奴国」についての最新の文章ということになる。もしかすると必要になるかも知れないので、これも資料として追加しておく。


 「日本の生きた歴史2 第六、拘奴国論」(2010年)
(以下、「拘奴国論」と略記する。)

 最後に、8(1)と重複する部分もあるが、9(1)を読んでおこう。

9(1)
質問(「後漢書」の狗奴国について)
 女王国の東千里を長里とすると、侏儒国はその南ではなくなる。短里と見、范曄の「三国志」の女王の東千里倭種の誤読と見るべきではないか。


 これに対する古田さんの回答は次のようだ。

 次のように考えます。


 後漢書倭伝には、
  A 魏志倭人伝よりの「引用」部分、
  B 後漢書倭伝の独自資料、部分、
の二つの部分があります。たとえば、有名な「光武帝の金印授与」の記事はBです。


 同じく、「狗奴国」の記事もBに属する。 - そう考えたのです。


 ですから、後漢書の著者、范曄(はんよう)は
  A-短里
  B一長里
を「混用」していたことになります。


 この点、本質的には、史記も同じです。   A 周代の記事-短里
  B 秦・前漢代の記事-長里
が「混在」しています。


 今の問題としては、「狗奴国」の記事をBと見なすことによって、その国の中心領域を、近畿地域と見なすことが可能となったのです。

(原文では⑤で「…記事をAと見なす…」となっているが、「A」は明らかに「B」の誤りだと思われるので、私の判断で訂正した。)

 8(1)・9(1)の回答によって古田説のおおよそのところはつかめたが、詳しく確認をすべき点が多々ある。次回からそれらの検討をしていこう。
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 コメント
この記事へのコメント
ありがとうございます
「大化の改新」と「乙巳の変」が一段落して、私の質問に対応下さっておりまして誠にありがとうございます。
本日のブログでは「狗奴国の位置」についての変遷の経緯を整理して頂いており、とても参考になります。このように整理して頂くと、狗奴国の位置は女王国の南ではなく、奴国の南であることがすっきりと理解できます。私も先日、今年10月発刊の「俾弥呼」で最新情報であろう内容を知りましたが、このブログではこれまでの思考経過を楽しみにしています。
これからもブログの方、頑張って下さい。

滋賀県野洲市吉地1468
向井 藤司
2011/09/17(土) 04:36 | URL | 向井 藤司 #-[ 編集]
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