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《続・「真説古代史」拾遺篇》(5)



「白村江の戦い」は何年?(2)


 三国史記では百済本紀が662年であった。木さんは次のように解説している。

 百済本紀の文章は全く旧唐書百済伝と同じである。百済は滅亡したので、百済記・百済本記・百済遺記にとってはこの時代の記録は最後の部分で、後代の意図的な改作余地が無い。ましてや、唐朝の圧倒する影響を受けていて、日本書紀の影響を受けていない。大和王朝は倭国の纂奪者、百済にとっては仇敵も同様である。日本書紀は糞同様の代物である。662年である。

 新羅本紀では663年だった。これはどうしてだろう。木さんの分析は次の通りである。

 新羅本紀は663年であった。しかし、662年3月から無意味な記述が有ってその年は終わり、663年の記述も660年の百済併合と、扶余豊の逃亡、王子の投降が一緒に書かれていて、さらに白村江の合戦の記述は無い。つまり、混乱の代物である。

 ただ混乱していない記述があった。新羅第30代文武王の671年の回想である。回想とは640年以来の、数十年の回想の中に、663年の記述がある。この記述は出物である。全体に、この回想は新羅の状況を赤裸々に描いていて信頼が置ける。その中の663年の一節である。

「龍朔3年になると、総管の孫仁師が兵を率いて熊津府城を救援にきました。新羅軍もまたこれに同行して、出陣し、両軍が周留城にきたとき、倭国の兵船が百済を救援にきました。倭船は千艘もいて、白沙に停泊し、百済の精鋭な騎馬隊が、その岸辺で船団を守っていました。新羅の強力な騎馬隊が、唐軍の先鋒となって、まず、岸辺の陣地を撃破しました。これを聞いた周留城の百済軍は落胆して、ついに降伏しました。」(平凡社、三国史記、井上秀雄訳注)

 木さんは文武王の回想は「信頼が置ける」として663年の回想を引用しているので、木さんは663年説を受け入れたように読めるが、さにあらず。663年まで信頼しているわけではない。木さんはそのことについては何も書いていないので、私の推測を述べておこう。

 文武王の上の回想は正しく龍朔2年条に書かれていた。それを新羅本紀の編纂者が本文に合わせるため、その部分の記事を龍朔3年条に移動したのだろう。旧唐書劉仁軌列伝の「白村江」が662年であることを論証している文章で、木さんは劉仁軌列伝の該当記事を次のように分析している。

 旧唐書劉仁軌列伝は全120行約4800字12段落の長文である。内3段落が関係個所である。総32行。

 初段は659年の劉仁軌の青州刺史就任で直ぐ660年、661年の夏までの記載で終わり、次の段は「尋而」で始まる。ほどなく、長時間の経過が無い事を示している。661年の7月の蘇定方の平壌討伐が失敗して、662年の2月に撤退するのだが、劉仁軌は熊津に留まり、2月中に新羅親征郡が到着して合流、新羅からの兵站が繋がることで唐軍が意気盛んになる3月でこの二段目は終わる。

 そして、第3段目は「俄而」で始まる。ほどなくの意味である。扶余豊が福信を殺して、高句麗と、倭国に援軍を要請する。(つづいて)孫仁師の水軍が到着するのである。

 つまり、孫仁師の到着は、文武王の回想とは違い、662年である。662年の何月かは明記されていないが、新唐書の本紀では662年7月と明記されているという。第3段はこのあと662年8月の「白村江」を記録している。

 文武王の回想文の引用の後、木さんは「その他の関係書」と題して、次のように述べている。

 蘇定方列伝、通典、冊府元亀、には白村江の記載はない。現代の中国の歴史書、論文は全て663年で揃っていて、年代の問題にふれている著書は皆無である。また、663年にかかわらず、唐・百済戦の記述には大量に日本書紀の記述が採用されていて、むしろ、日本書紀の内容が圧倒している。日本書紀には、年月日朝昼午後などの記載が詳細にあり、かなり、物語性が有るので、競って採用引用されている。文献主義の方法論を重視するので、この日本書紀の引用文を根拠にして各論が発展している。笑える状態ではない。深刻な状態である。一流の学者がこの状況に有る。もはや、年代問題は単に年代問題に終わらない状況となっている。

 私は、確かな根拠は持たなかったが、以前から旧唐書の662年が正しく、日本書紀の663年の方が間違いだと考えていた。偽装だらけの日本書紀の成立事情を考えればそう判断するほか無かった。木さんは「旧唐書の662年を疑う理由は一切無い」と、次のように論じている。

 大都督府は万単位の兵士に多くの文官・官僚を含めて行軍し、占領地にはさらに行政官が大量に派遣される。百済・高句麗の占領併合地には4万4千人の野戦司令部が増設されているので前後合せると九都督府に相当する陣容になり、文官の人数は1500余人となる、占領が危うくなってくると、この大量の行政官も早々に撤退する。

 日本書紀にも劉仁願の派遣した朝散大夫柱国郭務悰の名がある。大夫は従五品下以上の文官の身分を示し、朝散大夫はその従五品下である。職務名として柱国は勲臣の意味で、皇帝の代理として来日した全権大使である。つまり、当時の軍には文官が同行して軍の事務と、占領地の行政を行うのである。彼等は文字文書で仕事をする。周王朝が戸籍の作成から国事を始めたが、これは、識字官僚の存在を証明している。将軍や大臣が文書事務をしているのではない、大量の文官が文書事務をしている。彼等の持ち帰った、あるいは現地からの報告書で、暦に合わせて、文書は整理される。皇帝の年号に合わせて、暦年史料は整理される。絶対年号の意識もある。

 この中国で、此の時期戦乱で、文書が消失したり、政争で文書が改作された事件はない。旧唐書の662年を疑う理由は一切無い。

 問題は、大和王朝と唐朝の間で、暦に対して認識の違いが有ったのではないかという、問題である。七世紀を遠く離れた時期の日本と中国の間で、同一の事件について年代の認識の違いが発生していることは承知している。だが、此のことをこの七世紀の日本書紀の編者大和と中国の編者の間に、適用することは出来ない。できるなら、この時代の他の事実で異なる事例を挙げる必要がある。私は、知らない。

 以上から、日本書紀の663年が間違っており、中国の学者もそれを採用してしまったということになる。では日本書紀の編纂者はなぜ間違ってしまったのか。あるいは故意に間違えたのか。これが最後の問題になる。木さんの解答は次のようである。

 日本書紀は唐朝に提出をすることを前提に作られている。唐朝に提出する必要がなければ、卑弥呼の事跡も、倭の五王の事跡も全部大和の天皇の事跡に書き換えることができる。全ての先行する史書は手に入っている。倭国の文書は全て没収、禁書も徹底している。簡単だ。ところが、先にも言ったとおり、唐朝に提出する事を前提に作ったのだ。私は、独自の仮説として、唐からの要求で作ったと考えている。

 古事記も唐からの要求であった。古事記が提出されなかったのは、書き直しを要求されたからである。此の問題は、日本書紀の記載の仕方に、特別の書き方の峻別を与えている。7世紀に限って言えば、大和天皇家と隋・唐との交流の事跡は正確に書く、倭国と隋・唐との交流は一切書かない。大和の国内での活動は真偽取り混ぜて国内向けに書く。此の書き方の峻別を行っている。

 唐と倭国の戦闘は、これは唐と倭国の外交の延長線上の問題である。大和は参戦せず、逆に大和の遣使は中国で戦後処理で密約を行っていたのである。となると、唐は、百済のこの白村江の海戦に、大和は関わっていないことを百も承知である。

 しかも、細かいことは、当事者でなかった大和に分かりようがない。倭国から権力を纂奪した大和に、百済の遺臣が状況を細かく話して、気持ちを分かち合う姿勢は期待できない。一般に伝わっていた、日本人の英雄譚を中心に、再構成したのがこの白村江の合戦である。従って、旧唐書に先立つ225年前に唐朝に提出した際、この部分は唐の当代の認識と大きく異なることは承知である。本来は、大和と唐朝の間の事件でないわけで、書く必要がないのだが、720年の段階では過去の歴史、誰もが広く知っている事なので、齟齬の無いように適当に書いたのだ。662年なのは百も承知だが、故意に663年に書き換えて、唐朝に大和の無関与を暗に訴えたのである。

 木さんは日本書紀の「白村江」を「日本人の英雄譚を中心に、再構成した」と推測しているが、私は九州王朝の文官が記録を残したと考えている。柿本人麿が残した『万葉集』199番~201番などから、人麿が倭国遠征軍に随行していたことをうかがい知ることができる。他にも何人かの文官が随行していただろう。帰国できた文官が記録したのではないか。それを日本書紀が1年ずらして盗用したのだ。「大和の無関与を暗に訴え」る目的もあったかも知れないが、辛酉年(662年)に天智称制元年を偽装した事が原因だったのではないだろうか。讖緯説の辛酉革命を採用した故の天智称制元年なのに、「革命」早々に大敗戦では格好がつかない。そのための1年のズレであろう。

 木論文の続きを読もう。

 それと、唐朝側の態度も事を明確に証明している。この事のほうが重大である。日本書紀が成立したのは720年であるが、先行する古事記は日本語で書かれ、推古朝までであって、当代の所謂現代史が書かれていなかった。古事記は712年の成立であるが、713年の遣唐使の時、閲覧した唐側が史書に成っていないと批判をしたのは確実だ。

 だから、日本書紀の作成を始めたのだ。仲麻呂の在唐期間の早い時期に、再度の提出がされたが、これは、「倭国書」の提出に成っていない、「大和天皇家の年紀」である。中国の伝統の前王朝史を提出すべきなのに、「大和書」を提出したのである。

 唐朝は、650年間、倭国が日本の朝廷で有ったことを知っている。大和は、720年の段階では紛れも無く日本の朝廷だが紀元前660年から引き続き日本の朝廷で有った事実はない。夢物語に付き合うほど、唐朝の朝廷は愚かではない。不快感と警戒を大和に感じたはずである。中国の中華思想が判断の基準である。

 事実、仲麻呂の努力にかかわらず、この常識はずれの史書は日本の「史書」として、提出されてからも一度も評価される事はなかった。その何よりの証拠が、旧唐書の日本伝の内容で有る。提出されてから200年も経過しているのに、日本書紀の四文字の表記も存在しない。日本書紀を最後まで「偽史書」としていた時代精紳が旧唐書の精神である。

 これは、新唐書が旧唐書を自大主義・大唐主義・排外蔑視主義と批判した事が全体的には正解であったとしても、こと日本書紀に対する唐朝の判断には、この批判は当てはまらない。この事が、最大の回答である。

 事実は、簡単な事情であるが、この662年が、後代、新唐書の登場によって、663年に変更され、普及して、今日に至っている。この事が、同時に、古代日本史の秘密を解明する鍵になった。年代問題は難しい前提の議論を必要としない、大衆承知の事実である。いつでも、誰でも、この年代の違いに検討を開始することが出来るし、また、私たちは、この問題を大いに提起できるし、きっと、私以上にこの問題を旨く説明できるだろう。

 以後、663年説を採る人は木理論を真っ正面に反論し論駁しなければならない。有効な論駁ができなければ、その説は破綻していることを肝に銘じるべきだ。また、改めて662年説を論じる人は木さんのこの論文をスタートラインにして、木理論を深化あるいは修正していくことになるだろう。木さんとともに、木論文「以上にこの問題を旨く説明」する後続論文を期待したい。
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