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《続・「真説古代史」拾遺篇》(4)



「白村江の戦い」は何年?(1)


 だいぶ前になりますが、向井藤司さんから二件問題提起のコメントを頂いていました。私も関心がある問題なので頭に残っていました。その問題を取り上げます。第一番目の問題は次の通りです。

2011年2月22日のコメント
 白村江の戦いが書紀では663年、旧唐書では662年と1年のくい違いがあります。この理由として納得できる説明を見たことがありません。歴史の大きな流れには影響しないと思いますが、何となく気になります。何かご存知でしたらご教示下さい。

 この問題を靑木英利という方が論じていました。中国山東省曲阜市に在住の方です。ちなみに、曲阜市は孔子の生地として知られていますが、994年にユネスコの世界遺産に登録されたそうです。
 靑木さんの論文名は
「白村江の会戦の年代の違いを検討する」(古代史学会報No.102 2011年2月5日)
です。
 論理的で手堅い論文です。この論文を紹介します。

――――――――――――

 靑木さんは、日本書紀・旧唐書の他に新唐書・資冶通鑑・三国史記を「古い順番から漏れなく原文を読む」という方法を採っている。各史書に対する靑木さんの史料批判は追々紹介することにして、とりあえずそれぞれの史書が「白村江の戦い」(以下、「白村江」と略す)を何年にしているのかを列記しておく。

〈日本書紀 720年〉
 天智紀 663年

〈旧唐書 945年〉
本紀 「白村江」の記述なし。
百済伝・劉仁軌列伝 662年

〈新唐書 1060年〉
本紀 663年
百済伝・劉仁軌列伝 662年

〈資冶通鑑 1084年〉
 663年

〈三国史記 1145年〉
百済本紀 662年
新羅本紀 663年

 旧唐書本紀に「白村江」の記述がないのはどうしてだろうか。唐にとっては、660年に百済併合が終わっているので、660年までが本紀に記録されるべき百済関係の記事ということになる。なんの不審もない。

 問題は新唐書である。百済伝・劉仁軌列伝では622年になっているが、本紀の記述が新唐書の立場を示していることになろう。事実学者たちの間ではそのように扱われている。ではなぜ本紀だけ663年なのだろうか。靑木さんは次のように分析している。(以下、靑木さんの論文からの引用文には、読みやすくするため適当に段落を設けた。また明らかに誤植と思われる字句は私の判断で訂正した。)

 このように本紀以外は662年である。しかし、ここで、重要なことは、何故、本紀が663年なのか、その根拠が何かである。

 新唐書の日本伝に根拠がある。ここに原因がある。日本伝で、日本書紀を日本の正式の「史書」として認定したのである。これも、新唐書の史書としての役割である。旧唐書とここが違う。日本書紀のどの部分を認定したのか?

 全部である。神武天皇以来、58代光孝天皇・唐朝僖宗光啓元年(885年)までの日本の歴史を認定したのである。この事は決定的に重要である。新唐書以後、日本書紀を、信頼できる第一次歴史資料として、日本史の基準文献として、「日本の史書」として認定したのである。これは、旧唐書での不採用を百八十度変更したのであり、中国歴史「学会」の一大事件であり、新唐書の旧唐書に対する批判と共に、日本書紀に市民権が与えられたのだ。

 諸史書の間ばかりでなく、同じ新唐書の中でも662年と663年という齟齬があるにもかかわらず、現代の日本と中国の学者たちは全て663年を採用していて、その齟齬には何の疑問も出されていない。

 次の資冶通鑑も663年を採用しているが、この場合の根拠は何だろうか。靑木さんの分析は次のようである。

 司馬光「資冶通鑑」の白江は663年である。結論を言うと、「唐書」の「劉仁軌列伝」を662年と663年に振り分けて、他の史実の記載の間に挿入したのである。「白江」の文字の有る文章は663年に、その前の文章は662年に挿入した。

 つまり新唐書本紀の663年に一致するように「劉仁軌列伝」の662年の記事を二ヶ所に振り分けるという造作をしたというわけだ。靑木さんはその振り分け方を原文に沿って具体的に分析しているが、それは割愛する。ここでは「資冶通鑑」はなぜ「劉仁軌列伝」を用いて二ヶ所に振り分けるなどという手の込んだことを行ったのか、という問題を取り上げよう。靑木さんは次のように分析している。

 資冶通鑑の立場は新唐書の見解の表現である。先行する歴史史料の中で663年と記載しているのは日本書紀以外は存在しない。663年が真実なのか、662年が真実なのかの問題ではない。此の時点で考古資料が有って、年代問題が検討されている事実は無いし、となれば、新唐書の見解を取る以外ない。663年の採用は当然で、日本書紀の史料採用は当然である。何故、それでは、劉仁軌列伝を基本文書としているかの問題がある。全部、日本書紀の文書で書き換えたら良いのに、列伝を基準文書にしたかの問題がある。

 それは、劉仁軌の偉大さにある。かの662年の高宗の撤退命令にかかわらず、戦線を維持し、百済の残党掃討に成功し、以後も高句麗戦線で奮闘して、ついに、高句麗征伐の歴史的偉業を成し遂げた唐朝の勲臣である。諸侯に列せられ、死に当たり、歴代皇帝の陪臣墓を与えられ、墓守三百戸を与えられている。彼の列伝を非採用にする事は冒涜である。中華民族に唾することになる。

 全く不可解である。学問ではなく、別の問題であった。白村江は663年とするが、文章は劉仁軌列伝を使わなければならない、それならば、二箇所に振り分ける以外に方法はない。

 新唐書は本紀の663年との齟齬にもかかわらず、「白村江」を662年と記録している劉仁軌列伝をそのまま掲載してすましていた。資冶通鑑がその齟齬を解消してあげたというわけだ。
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