2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(3)



「乙巳の変」の真相(3)
「入鹿暗殺」の舞台(2)


 644(皇極)年正月1日条は中大兄(天智)と中臣鎌子(鎌足)の出会いを記録している。この条について〈大系〉の頭注は「三年春正月朔とあるが、事実は、かなり以前からのことをまとめて書いたものである」と珍しく断言しているが、その通りの内容である。さらに付け加えると、一日だけの事件ではなく、何日かにわたる事件を掻き集めた記事のようだ。キーワードを含む部分だけ転載する。

三年の春正月の乙亥の朔に、中臣鎌子連を以て神祇伯(かむつかさのかみ)に拝す。再三に固辭(いな)びて親(つかへまつ)らず。疾(やまひ)を稱(まう)して過(まかりい)でて三嶋に居(はべ)り。
……
偶(たまたま)中大兄の法興寺の槻の樹の下に打毱(まりく)うるる侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱の隨(まま)脱け落つるを候(まも)りて、掌中(たなうら)に取り置(も)ちて、前(すす)みて跪(ひざまづ)きて恭(つつし)みて奉る。中大兄、對(むか)ひ跪きて敬(ゐや)びて執りたまふ。並(これ)より、相(むつ)び善(よ)みして、倶に懐ふ所を述ぶ。


 要点をまとめると次のようである。
 三嶋に蟄居していた鎌子が中大兄が飛鳥の法興寺(飛鳥寺)で蹴鞠(けまり)をすることを知った。中大兄とまみえるよい機会と考え駆けつけ、蹴鞠に加わった。

 蹴鞠は飛鳥で行われている。それでは博多の「難波長柄豊碕」の近くにも、「飛鳥」があるだろうか。これについては、私(たち)は「飛鳥浄御原宮の謎(8)」で既に学習済みである。いま教科書にしている「大化改新と九州王朝」でも古田さんは筑紫の「飛鳥」をかなり詳しく論じているが、ここでは繰り返さない。上座(かみつあさくら 福岡県小郡市井上)に「飛鳥」の地があることだけを確認しておこう。あの明日香皇子ゆかりの地である。そこは斉明の九州での居宮であった朝倉宮にも近い。

 次に古田さんが取り上げるのが「蹴鞠」である。「蹴鞠」は「曲水の宴」や「鷹狩り」と同様、中国から伝わった天子や貴族の「遊び」である。古田さんは、筑後国府跡に「曲水の宴」の遺構があるが、「大和の飛鳥」には「曲水の宴」の痕跡すらないことを指摘した上で、筑後の正倉院のこと、大和の正倉院文書(筑後からの献上品)のこと、などを取り上げている。これらの事々も私は既に何度か取り上げている。最初に取り上げたのは『「倭の五王」補論(4)』でであった。またこのときの記事が一番詳しい。それを参照していただくことにして、この問題もここでは繰り返さないが、ここで古田さんが言いたかったことは次のことのようだ。

 「蹴鞠」の「まり」も、「鷹狩り」の道具類(笛など)もまた、この「正倉院」に保存されていたのではあるまいか。そして「曲水の宴の酒盃」類も。

 つまり、その頃大和にはまだ蹴鞠の「まり」はなかった。九州王朝の財産である「まり」を借りて、蹴鞠に興じていたのだ。その時中大兄が靴を落として、それを鎌子が拾ったのが、二人が近づくきっかけだった。靴をわざと落としたわけではないだろう。蹴鞠をやりなれていなかったのだろう。

 次は鎌子が蟄居していた「三嶋」だ。これも博多の「難波長柄豊碕」の近くにある。古田さんは次のように述べている。

 この三嶋は、従来「大阪府三島郡」と解されてきた。現在の高槻市近辺である。わたしの家(向日市)からも、遠くはない。

 それなのに、その同じ頃(三年正月乙亥の朔)に、例の「蹴鞠の儀」がはじまる。ところは「法興寺」(飛鳥寺)である。

 しかし、「河内の高槻から、大和の飛鳥まで」は決して〝近く″はない。今なら「車」でたやすく往来できるかもしれないけれど、「歩いて」では、一両日、下手をすれば、「二~三日」かかるのではあるまいか。遠すぎるのである。

 しかし、「九州の飛鳥」の場合、「上座、三島」(和名類聚鈔)とある。この「三島」は、問題の「飛鳥」に〝近い″のだ。しかも、斉名天皇の没せられた「朝倉」の中なのである。

 この史料事実を見たとき、わたしはことの真相を知った。「蹴鞠の儀」が行われたのは、決して「大和の飛鳥」ではない。この「九州の飛鳥」であった。これ以外には、ない。

ここまでのことを古田さんは次のようにまとめている。

 一つの「決め手」がある。斉明天皇が九州の筑紫(福岡県)の「朝倉」で没したこと、著名である。では、斉明天皇〝ひとり″この地に至って、没せられたのか。 - ありえない。当然、中大兄皇子(天智天皇)も、中臣鎌足(藤原鎌足)も、そして蘇我入鹿もまた、この地(朝倉)に来ていたのではないか。すなわち、「九州の飛鳥」(小郡市)の〝近傍″に、彼等は「集結」していたのであった。

 次は645(皇極4)年6月8日の入鹿暗殺の計画記事記事である。

六月の丁酉の朔甲辰に、中大兄、密に倉山田麻呂臣に謂(かた)りて曰はく、「三韓(みつのからひと)の調(みつき)を進(たてまつ)らむ日に、必ず將(まさ(に卿(いまし)をして其の表(ふみ)を讀み唱(あ)げしめむ」といふ。遂(つひ)に入鹿を斬らむとする謀(はかりこと)を陳(の)ぶ。麻呂臣許し奉る。

 「入鹿暗殺」はこの4日後の12日に実行される。

 ここでのキーワードは「三韓の調」だ。この頃、倭国の権力中枢は筑紫(太宰府と筑後)の地だったことは、もはや私(たち)にとっては常識である。「三韓の調を進」るべき地は、決して「大和の難波長柄豊碕宮」ではない。もともと大和にはそのような名の宮はない。「筑紫の難波長柄豊碕宮」だったのだ。

 以上すべてのキーワードが「入鹿暗殺」の舞台が筑紫であることを示している。古田さんは次のようにまとめている。

 「近畿の(分王朝の)軍」を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この「九州王朝の別宮」に集結していた。その近傍において「入鹿刺殺」の惨劇が行われたこととなろう。

 では「入鹿暗殺」という惨劇が遂行されたのはなぜだろうか。古田さんは、九州王朝が行おうとしていた対唐・新羅戦をめぐって参戦派(斉明天皇や蘇我氏)と融和派(中大兄皇子や中臣鎌足等)との対立抗争があり、その結末が「入鹿暗殺」であったと推測している。

(以上、「乙巳の変」の驚くべき古田説を紹介したが、全てを納得したわけではない。特に、古田さんは全く触れていないが、「入鹿暗殺」の実行記事の中に説明しきれない部分が多々ある。その問題が解決するまでは、私にとっては今のところあくまでも一つの仮説にとどまる。)
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