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《続・「真説古代史」拾遺篇》(2)



「乙巳の変」の真相(2)
「入鹿暗殺」の舞台(1)


 「乙巳の変」(以下。「入鹿暗殺」と呼ぶことにする)の真相を解くキーワードを含む記事を拾い出してそれを検討してみよう。

642(皇極2)年4月28日
丁未に、権宮(かりみや)より移りて飛鳥の板蓋(いたふき)の新宮に幸す。

 「入鹿暗殺」が行われた舞台はこの板蓋宮(古田さんは板葺宮と表記している)であるとされている。

645(大化元)年12月9日
冬十二月乙未の朔癸卯に、天皇、都を難波長柄豐碕に遷す。

 これは一見「入鹿暗殺」とは無関係に見えるが、実はこれに関連して、「皇極紀」に不可解な記事がある。645(皇極4)年正月条の分注である。(本文は、山の方で猿が何匹もわめき声を上げているが姿がまったく見えないという奇譚記事。本文の引用は略す。)

〈舊本に云はく、是歳、京を難波に移す。而して板蓋宮の墟(あれどころ)と為らむ兆なりといふ。〉

 「井の中」では、上の二つの記事は同一事項の同一記事であるとしてすましている。つまりこれをちっとも不可解とは思っていない。はたしてそうだろうか。

 「舊本」とは何だろう。分注に「舊本」が使われている例は上の他に4例ある。全て「皇極紀」以前の記事である。〈大系〉の頭注は「或本・一本と同じく稿本であろうか」と書いている。

 万葉集には「日本紀」という史書名が出てくる。これについては『「持統紀」にもあった盗作記事(1)』で古田さんの見解を紹介している。「日本紀」は謂わば『日本書紀』の初版本である。「舊本」とはこの「日本紀」のことだろう。

 さて、古田さんは上の〈分注〉と大化元年の遷都記事を同一視する従来説に異をとなえて、〈分注〉について次のように分析している。

 従来はこれを、先の「難波長柄豊碕への遷宮」と〝同時期の同事件″と見なしてきた。しかし、それなら、この「皇極紀」に「舊本」とか「是歳」とか別述する必要はない。例の「入鹿斬殺」はこの年の「12月」であるから、実はその前に、すでに「難波・長柄の豊碕」への遷宮があった。― 「旧本」ではそのように書かれていた。それをこの「新本」(現・日本書紀)では、〝改めた″というのである。

 そうすると入鹿暗殺の舞台は板葺宮ではなく難波長柄豊碕宮ということになる。もちろん「井の中」で定説になっている「難波長柄豊碕宮=難波宮」のことではない。この等式は成り立たないのだ。難波宮とは別の所に長柄・豊崎という地名が残っていることを『「難波宮=難波長柄豊碕宮」か?(1)』で明らかにしている。そのとき掲載した地図を再録しよう。

古代の難波地図

 この地図が示していることを古田さんは現在の地名を用いて次のように簡潔にまとめている。

 しかし、ここに不審事がある。現地(大阪市)の現地名と、右の遺跡が対応しないのである。

 ①「難波」は、大阪湾岸の一般的名称であろう。
 ②「長柄碕」は、梅田(大阪駅)の東北に、広大な長柄碕があり、この地域の地名である。
 ③「豊崎」は、梅田の東北側にある。(管理人注:大阪市北区豊崎)
 ④「難波宮」は、大阪城の南側(法円坂)にその遺跡がある。

 ところが、②と③とは、ほぼ〝隣り合って″いるけれど、その②③と④の難波宮とは約二キロ離れている。右の④の遺跡は、到底「難波の長柄の豊碕宮」とは言えない。

 「難波長柄豊碕宮≠難波宮」であることは明らかだ。では「難波長柄豊碕宮」とは何か。『日本書紀』編纂者が実体のない架空の宮名「難波長柄豊碕宮」を作り出したなどどいうことはあり得ない。「難波長柄豊碕宮」と呼ばれる宮殿があったはずなのだ。古田さんはそれを博多に見いだした。(古田さんが傍点を付けて強調している文字は斜体文字で表した。)
 これに対して福岡市には、これによく対応すべき地名分布が存在する。

 まず、難波。博多湾岸の那の津は有名だが、難波は「ナニワ」であり、「ニワ」は〝広い場所″であるから、「ナのつ」と「ナニワ」とは一連の地名である。明治前期の字地名表にも、「難波」の旧字名が存在する(「難波屋」などの商店も実在)。

 次に長柄。福岡市西区役所の西側には名柄(ながら)川が流れ、姪の浜近辺には名柄団地(また名柄野団地)がある。かつては名柄町があったという。西には垂山、東には浜があり、この名柄も「長柄」と表記した可能性がある。訓みは同じく「ながら」である。

 次に「豊碕」。この名柄川に囲まれた形の岩山の高地(字名は鷲尾)に愛宕(あたご)神社がある。この岩山の高地は北の博多湾側の豊浜に向って突出している(この点、「崎」より「碕」という字面にふさわしい。大阪の「豊崎」は低地の湿地帯)。

 従来はこの地名を「難波の長柄の豊碕」という〝三段地名″の形で理解してきた。しかし、地名は「難波の長柄」という二段地名で十分だ。三番目は「豊碕宮」という宮殿名ではあるまいか。宮殿の居住者(権力者)側の命名である。

 そこは博多湾、浜に向ってき出した岩頭の広場である。これに対し、「豊碕宮」と命名したとすれば、当然だ。

 この地(愛宕神社)からは、弥生時代(若干)につづく古墳時代以降には、かなりの出土があり、出土遺跡が報告されているのである。そしてここが博多湾全体を俯瞰すべき、絶好の軍事的要地であったこと、疑いはない。

 紫宸殿中心の太宰府の都城は、(奥宮としての太宰府領域に対して)海岸部の博多湾岸の軍事的要地として、この「難波の名柄(長柄)」の豊浜の地に豊碕宮が造営されたものと思われる。「裏」の有明海に対する「表」の博多湾岸、それが九州王朝の中心領域のもつ〝二つの海域″だったのである。

 白村江の戦いの直前(あるいは直後)に、博多湾岸に突出し、これを見下ろす軍事的拠点、「難波の長柄の豊碕」もしくはその近傍において、この惨劇が行われたのではないか。これが今回の結論の指し示す方向である。

 この博多の難波長柄豊碕宮が入鹿暗殺の舞台だったのだ。さらに関連記事を検討することによって、この説の信憑性を深めていこう。
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