2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(1)



「乙巳(いつし)の変」の真相(1)
「乙巳の変」の実年代


 シリーズ『「大化改新」の真相』で、『―真実の歴史学―なかった 第五号』所収の古田論文「大化改新批判」を教科書の一つとして利用した。実はその論文の最後に「乙巳(いっし)の変(入鹿暗殺)」についての驚くべき新説が書かれていた。古田さんにはこれで何度驚かされたことになるだろう。


 「乙巳の変」についてのその新説を『「大化改新」の真相』の最後に取り上げようと思っていたが、その内容が「近畿王朝草創期」にはそぐわないので、今回ここで独立的に紹介することにした。

 さて、周知のように「乙巳の変」は干支年「乙巳」の年―645(皇極4)年―に起こったのでそのように呼ばれている。そして、「井の中」では「孝徳紀」の「大化の改新」は「乙巳の変」が導火線となって敢行されたと理解されている。「大化の改新」の一連の詔勅は他の時代から「孝徳紀」に移されたものと考える私(たち)の場合も、「乙巳の変」につなげるために「孝徳紀」が選ばれたと考えてきた。

 しかし、古田さんはその二つは本来無関係であるとし、その二つを切り離して取り扱っている。そして、「乙巳の変」も他の年代から移されたものであるという。では他から移されたとして、なぜ645(皇極4)年が選ばれたのだろうか。

 この「645」の干支は「乙巳」である。その「一巡あと」の「乙巳」は「705」、唐の則天武后の崩御の年である(1月)。7世紀後半、倭国が唐国、そして唐軍の影響を深くうけたのは周知のところ、しかし、その「唐」とは則天武后の時代(684~705)なのである。その一巡前の「645」の「乙巳」に、「皇極女帝の退位」が起っている。これははたして「偶然の一致」なのだろうか。

 「結合」された「詔勅類」と同じく、この「乙巳」もまた、則天武后崩年の「乙巳」を原点として「一巡」して算出されたという可能性なし、とは断じえないのである。

 この論証はちょっとこじつけに過ぎるのではないだろうか。可能性はあるかも知れないが、そのような不確かな論拠の仮説は私には受け入れられない。しかし、この仮説を否定しても、次の実年代比定には問題はない。というより、もしも次の実年代比定が正しいとすると、上の干支一巡説はそれと矛盾することになる。

 「乙巳の変」の実年代比定の手掛かりとして古田さんは631(舒明3)年3月条の次の記事を取り上げる。

三月の庚申の朔に、百濟の王義慈、王子豐章を入(たてまつ)りて質(むかはり)とす。

 ところが義慈王の即位は、唐の貞観15年(641)であり、右の記事は成立不可能である。三国史記は中国(唐)の記事と対応しており、こちらが大きく「誤記」しているとは考えにくい。とすれば、日本書紀の方の年時記載が、少なくとも「629→641」の12年分が〝上にずれている″と考える他ない。


 これは『失われた九州王朝』や『法隆寺の中の九州王朝』で論証済みの事柄である。『法隆寺の中の九州王朝』では「推古紀」の記事のズレについて論じる中で631(舒明3)年3月条が使われている。その論証を『「推古紀」のウソ八百(3)』でかなり詳しく紹介している。そこで古田さんは「推古紀」のズレを「10年以上(おそらく12年)」と言っているが、「推古紀」のズレも12年が正解だろう。

 『「629→641」の12年分』が分りにくいが、629年は舒明元年だから、「舒明紀」全体が12年ずれていると言っているようだ。この12年のズレを敷衍して、古田さんは次のように述べている。

 この点をさらに突きつめると、日本書紀の、舒明元年(629)~13年(641)の全体が、12年下がり、641~653であることとなろう。このような「年時下げ」は、当然ながら、今問題の「大化元年」(645)」にも、当然「波動」し、「連動」しないこと、不可能と言う他はない。すなわち、656~657の間にある。白村江の直前の時期である。

 「舒明紀」全体が12年下がるのは「推古紀」のズレの「波動」と考えるなら、「推古紀」のズレも12年というのが正解となるだろう。

 古田さんは続けて次のように書いている。

もちろん「起点」の「乙巳」(645)が「則天武后の崩年」にともなう「偽りの定置」であるとれば、出発点の「645」にともなう、この計算結果も、必ずしも「不動」ではない。しかし、肝心の「645」が、実はさに非ず、「白村江の戦い」の前後へと〝移置″さるべき可能性、それは大なのではあるまいか。

 前半の文章は理路がたどりにくく分りにくい文章だ。私には読み取れない。後半の文章は「645年を12年下げれば大化元年は656~657年(「白村江の戦い」の前後へ)」であり、その可能性は「大」であると言っている。もしそうなら656~657年にあった「変」記事を12年上げて移動させた年がたまたま乙巳年であったということになり、「則天武后の崩年」云々は意味をなさない。

 「乙巳の変」の実年代が656~657年(「白村江の戦い」の前後へ)である可能性大というのは納得できた。これが確かにそうであると言うところまで言い切るためには「乙巳に変」の記事の分析が不可欠である。
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