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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(139)

「天武紀・持統紀」(54)


「大化改新」の真相(53)
「大化の改新」の実年代(3)


694(持統8)年12月6日
藤原京に遷都
十二月の庚戌の朔乙卯に、藤原宮に遷り居はします。

 無事遷都を終えて、持統は全国掌握のための最後の詰めに入る。まだ完全には帰順していない王や諸臣に対する恫喝として、東国国司をやり玉に挙げた。

695(持統9)年3月17(甲子)日
「東国国司賞罰の詔」

 続いて巡察使(朝集使)の報告をもとに具体的な賞罰を決定して詔勅を発布する。

695(持統9)年4月4(辛巳)日
「朝集使の報告による査定の詔」

 日を接いで九州王朝の完全屈服の報「皇太子の奏上」が届く。

695(持統9)年4月5(辛巳)日
「皇太子の奏上」

 「朝集使の報告による査定の詔」には実年代を比定するに当たって考慮すべき文言二つあった。

(a)
始めて新しき宮に處(を)りて、將に諸の神に幣(みてぐら)たてまつらむとおもふこと、今歳(ことし)に屬(あた)れり。

 この年に「諸の神に幣たてまつらむおもふ」とあるが、これに該当するような記事が695(持統9)年にはない。4月9日と7月23日に「使者を遣して、廣瀬大忌神と竜田風神を祀らしむ」という記事があるが、これは毎年行われている年中行事であり、取り立てて特赦の理由とするほどのものではない。『日本書紀』には記録されていないが、遷都にともなって新京(藤原京)の永年無事を願う神事が行われたとでも考えるほかない。これもただ言ってみただけという憶測に過ぎない。上の実年代比定ではこの一点が引っかかる。

 『日本書紀』の主要部分が九州王朝の史書からの年次を無視した切り貼りで成り立っているのだから、完全な復元はできなくて当然だろう。「大化の改新」についても、それは九州年号大化のころのもの、というだけで満足し、細かい実年代比定はすべきではないのかも知れない。しかし、乗りかかった船。最後まで行ってみよう。

(b)
又、農の月にして、民を使ふ合からざれども、新しき宮を造るに縁りて、固に巳むこと獲ず。

 この文章はもちろん「新しい宮を造るためにやむを得なかった」と過去形として読むべきである。遷都に当たって、691(持統5)年以来新京完成まで、農繁期にも農民を使役してきたことを、一応は反省している。(b)に関してはこの実年代比定に矛盾はない。

696(大化元・持統10)年7月10日
高市皇子死去
庚戌に、後皇子尊(のちのみこのみこと)薨せましぬ。

 草壁皇太子亡き後、高市皇子は太政大臣として政治的手腕を発揮していた。高市は草壁よりも8歳年上で、壬申の乱でも大きな役割を果たしている。大和朝廷内では次期皇太子(次期天皇)として大きな期待が寄せられていたことだろう。それがこの唐突な死である。私は草壁皇子の死因への疑念は払拭したが、高市皇子の死については疑念を捨てきれない。

 高市皇子の母親は胸形君徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)であり、高市には九州王朝の血が流れている。持統にとっては目の上のたんこぶのような存在だったろう。持統の血を引く孫の軽皇子を後継者にしたかったに違いない。高市皇子の死に疑念を持つゆえんである。

 ちょっと話がずれるが、天武の死に際して大津皇子の謀反事件があった。天武の死去は686(朱鳥元)年9月9日である。その15日後に謀反が発覚する。有間皇子の謀反が蘇我赤兄による謀略であったように、大津皇子の謀反にも謀略の臭いがする。大津皇子の母親は持統の姉・大田皇女で、草壁より1歳年下であった。孫を後継者にしたかった持統にとっては大津皇子もやはり目の上のたんこぶだったことだろう。

 さて、最後に残った「改新の詔」。これの実年代を考える段階に来たが、この詔勅の干支日「二年の春正月の甲子の朔」に悩んでいる。諸詔勅群を「孝徳紀」に配置したのは、本来ONライン(701年)前後に行われためざましい諸改革が、はるか以前(孝徳期)にあったことを偽装するためであった。そのメインは「改新の詔」であり、この詔勅こそが「孝徳紀」に「大化」という年号を盗用することになった本源だったと考えられる。逆に言うと、この詔勅は確実に九州年号大化2年にあったことにある。この点はまず異論はないだろう。

 ではその実年代は「大化2年=持統11年」の何月何日だったのだろうか。『日本書紀』編纂者の思惑を二通り想像してみた。

(その一)
 大化2(持統11)年正月の甲子は28日である。「改新の詔」はそこにあった。編纂者は考えた。「改新の詔」は正月元旦にこそふさわしい。正月元旦が甲子である年代を探したら、孝徳2年だった。そこにはめ込んだ。

(その二)
 「改新の詔」はもともと大化2(持統11)年の朔日が甲子の月にあった。大化2(持統11)年では8月がそれに当たる。「改新の詔」は大化2(持統11)年8月1日条の記事であった。編纂者は考えた。朔日が甲子の月を探そう。孝徳紀には二つある。孝徳2年正月と孝徳(白雉2)7年4月である。「大化の改新」は「乙巳の変」の延長上の改新として編纂したいのだから孝徳(白雉2)7年4月では時代が離れすぎる。そこで「改新の詔」を孝徳2年正月1日にはめ込んだ。

 以上、干支を無視できないとすると「改新の詔」の実年代の候補は次の二つになる。
① 大化2(持統11)年正月28日
② 大化2(持統11)年8月1日

 どちらにも可能性があるが、方針通り「持統紀」の記事との整合性で決めてみよう。

 九州王朝との関係記事をカットすると共に、九州王朝の史書からの盗用が不要になったためか、「持統紀」の持統9年以降の記事は大変貧相である。持統11年には国制に関わる記事がない。決め手となりそうな記事は次の4件だけである。

 持統は長らく空位であった皇太子位に孫(草壁の子)の軽皇子を就けるが、その立太子の記事はない。しかし、次の記事がそれを裏付けている。

697(大化2・持統11)年2月28日
軽皇太子の世話役任命
二月の丁卯の朔甲午に、直廣壹當麻眞人國見を以て、東宮大傅とす。直廣参路眞人跡見をもて春宮大夫とす。直大肆巨勢朝臣粟持をもて亮(すけ)とす。


 立太子が済んだのに皇太子の世話役がいないなどということはあり得ないから、たぶんこの日が同時に立太子の日だったのだろう。

697(大化2・持統11)年6月26日
持統の病気平癒祈願1
辛卯に、公卿百寮、始めて天皇の病の爲に、所願(こひちかへ)る佛像を造る。

 何時から病気なのか分らないが、この頃持統は病気だった。

697(大化2・持統11)年7月29日
持統の病気平癒祈願2
癸亥に公卿百寮、設佛の開眼(みめあらは)しまつる會(おがみ)を藥師寺に設く。

 病気平癒の記事はないが、平癒祈願の効あってか、持統は703(大宝2)年12月22日まで生き、文武天皇の摂政的補佐をし続けた。

 次に「持統紀」最後の記事。

697(持統11)年8月1日
 持統、文武に譲位
八月乙丑朔に、天皇、策(みはかりこと)を禁中(おほうち)に定めて、皇太子に禅天皇位(くにさ)りたまふ。

 干支日が「乙丑朔」となっているが『続日本紀』では「甲子」である。〈大系〉の頭注は次のように説明している。

「朔日干支が異なるのは、書紀が元嘉暦によって七月を大の月、続紀が儀鳳暦によって七月を小の月としたためといわれる。八月一日践祚は確実であろう。」

 私には暦についての知識がほとんど無いので、多分この通りなのだろうと考えるほかない。しかし、「多元史観」の立場からもう少し想像をたくましくしてみよう。

690(持統4)年11月11日
勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ。

 元嘉暦は中国の南北朝時代に使われていた暦である。九州王朝は一貫してこの暦を用いていた。儀鳳暦は唐で使い始められた暦である。これをヤマト王権が690(持統4)年に受け入れた。「始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」とあるが、近畿王朝内で二つの暦を同時に採用することなどあり得ない。そんなことをしたら大変な混乱を起こしてしまうだろう。「始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」という文言には、九州王朝では元嘉暦を用い近畿王朝では儀鳳暦を用いた、という意味ではないだろうか。(wikipediaによると、近畿王朝が儀鳳暦を用い始めたのは持統6年からという説があるらしい。論拠は書かれていない。)

 ところが『日本書紀』は九州王朝の史書の記事を盗用しまくっている。『日本書紀』の編纂では元嘉暦に統一しなければ、いろいろ齟齬が起こるだろう。終りの一行ということで気がゆるんだのだろうか、そこだけ儀鳳暦による近畿王朝の記録をそのまま記録してしまった。

 『続日本紀』では何時から儀鳳暦だけを用いるようになったのだろうか。いろいろな説があって定説はないようだ。私にはこれを論じるための暦についての知識はない。少なくとも「持統紀」の記事との一貫性を保つため、文武1年8月1日には元嘉暦による「甲子」を用いている。

 さて、譲位記事に「策を禁中に定めて」という文言がある。これはどういう意味だろうか。もちろんこの日一日で「策」を定めたわけではない。持統の罹病以来、もしもの時に備えて会議が重ねられていただろう。そしてその「策」の具体的な内容は、譲位後の近畿王朝内の動揺を抑え引き締める政策と九州王朝に対する万全の対策の二つであろう。その両方を兼ね備えているのがほかならぬ「改新の詔」であった。「改新の詔」を内外に提示した上で、譲位を明らかにした。

 以上、私は「改新の詔」の実年代として②説「大化2(持統11)年8月1日」を採ることになった。

 この「改新の詔」が示した骨格が「大宝律令」として結実するまでにはなお4年の歳月を要したことになる。

 白紙の状態で始めて試行錯誤だらけとなり、思いがけず長くなってしまった。これで「大化の改新の真相」をひとまず終りとします。
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この記事へのコメント
事実誤認による誤解があります
たっちゃんさん

下記には誤解があるようなので、お知らせいたします。
多くの方がご覧になっていると思いますので、是非ご訂正ください。
また、その上で「多元史観」の立場からのご意見をうかがえればありがたく存じます。

>『続日本紀』では何時から儀鳳暦だけを用いるようになったのだろうか。いろ
>いろな説があって定説はないようだ。私にはこれを論じるための暦についての
>知識はない。少なくとも「持統紀」の記事との一貫性を保つため、文武1年8月
>1日には元嘉暦による「甲子」を用いている。

「持統紀」ということに間違いはありませんが、『日本書紀』(全30巻)の最後の一文です。この一文をもって『日本書紀』は終わります。訳文は私のものです。
原文「八月乙丑朔、天皇定策禁中、禪天皇位於皇太子」
訳文「八月朔(ついたち)の乙丑の日に、天皇は、策を禁中に定めて、皇太子に天皇位を禪った。」

次は『続日本紀』の巻第一の冒頭で文武天皇の血筋を述べていつ皇太子になったかを記した(「文武天皇即位前紀」)直後の文です。つまり「文武紀」の最初の一文です。
原文「八月甲子朔、受禅即位」
訳文「八月朔の甲子の日に、禅り受けて即位した。」

ご存知だと思いますが、日干支は暦法でかわるものではありません。
昨日が甲子なら今日は乙丑で明日は丙寅と連綿と続いてきたもので、今日の干支がもし乙丑なら、元嘉暦であろうが儀鳳暦であろうが、はたまた太陽暦のグレゴリオ暦であろうが、今日の日干支は乙丑であり、変わらないのです。

たっちゃんさんの誤解のひとつは、『続日本紀』が「持統紀」(『日本書紀』)の記事との一貫性を保っている、というところです。
『日本書紀』は持統天皇が乙丑の日に譲位したと記し、『続日本紀』はその前日の甲子の日に即位したと記しています。一貫性はありませんよね。ちなみに「持統紀」(『日本書紀』)の「八月乙丑朔」は元嘉暦によるもので、『続日本紀』の「八月甲子朔」は儀鳳暦によるものです。このように暦法が異なると「朔(新月)」の日が昨日(甲子)だったり、今日(乙丑)だったりします。暦法は年月日を決めるものであり、日干支や曜日は暦法とは独立しています。

もうひとつの誤解(というか事実誤認、誤解の原因)は、「文武1年8月1日には元嘉暦による「甲子」を用いている。」というところです。
正誤表で表せば、「(誤)元嘉暦→(正)儀鳳暦」ということです。
「私にはこれを論じるための暦についての知識はない。」とおっしゃっていますので、どこかで誤った情報をつかまされたのだと思います。その情報源は信用なさらぬほうが良いでしょう。
以上がご訂正をお願いしたいところです。

以下はご意見をうかがいたいところです。

質問1.国家の一大事業である正史編纂において、「大宝」を建元して日本国を建てた文武天皇の即位日が、『日本書紀』巻末(乙丑)と『続日本紀』巻頭(甲子)とで食い違っているのですが、これは『続日本紀』の編者が「『日本書紀』の即位日は誤っている」と主張しているように見えるのですが、「多元史観」ではこれをどのように解釈いたしますか?

質問2.もし、『続日本紀』の編者が「『日本書紀』の即位日は誤っている」と主張している、という見方が正しいと仮定した場合、『続日本紀』の編者が「正史が食い違う」という大変な事態となる「前正史訂正」をなぜ断行したと思われますか。
その見方は間違いだと思われる場合、ではどのように考えますか?
「『続日本紀』の編者がうっかりミスをした」などというのは無し、でお願いします。
2016/08/08(月) 06:57 | URL | sanmao #-[ 編集]
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