2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(138)

「天武紀・持統紀」(53)


「大化改新」の真相(52)
「大化の改新」の実年代(2)


 690(持統4)年7月には矢継ぎ早に「人事など政治体制の刷新」の施政が行われている。『「大化改新」の真相(6)』で全記事を掲載しているが、ここでは必要と思われる記事だけを再録する。

690(持統4)年7月5日
政治体制の確立
 皇子高市(みこたけち)を以て、太政大臣(おほまつりごとのおほまへつきみ)とす。正廣參(しやうくわうさむ)を以て、丹比嶋眞人(たぢひのしまのまひと)に授けて、右大臣(みぎのおほきまへつきみ)とす。幷(あはせ)て八省(やつのすぶるつかさ)・百寮、皆(みな)遷任(ま)けたまふ。

690(持統4)年7月6日
国司の遷任
大宰(おほみこともち)・國司(くにのみこともち)、皆(みな)遷任(ま)けたまふ。

 この国司遷任は九州王朝によるものかヤマト王権によるものか。決めがたいが、私は次のように考えている。

 『「大化改新」の真相(6)』で、「朝集使の報告による査定の詔」に現れる31人の国司名の検討から、国司は九州王朝が任命した」と推定した。よって689(持統3)年閏8月10日の「造籍の詔」も九州王朝によるもであると推定した。ところが、690年の段階でヤマト王朝は九州以外の国司の任命権を九州王朝から移譲させたのだ。任地にいた国司たちを一度大和に呼び戻して、その旨を伝えて再遷任させた。「遷任」とは任地に移動するという意味だから人事を刷新したわけはなく、九州王朝が任命した国司をそのまま踏襲したと考えられる。

690(持統4)年9月1日
「造籍戸令遵守の詔」
諸国司に詔して曰はく、「凡そ戸籍を造ることは、戸令に依れ」とのたまふ。

 国司遷任から2ヶ月たらずでの詔勅で唐突感をいなめない。しかし、詔勅は対象者を目の前に揃えて言い渡すとは限らない。使いを立てて伝達することもあっただろう。この場合はその例と考えるほかない。つまり任地にいる国司たちに改めて造籍を命じたのだ。

 上の造籍は690年の干支「庚寅(こういん)」を用いて「庚寅年籍」と呼ばれている。これまでこの造籍を九州王朝の事績としてきたが、今はヤマト王権による造籍と考えた方が自然だと考えている。訂正したい。

691(持統5)年8月13日
墓記上進
八月の己亥の朔辛亥に、十八の氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・釆女・穂積・阿曇。に詔して、其の祖等の墓記(おくつきのふみ)を上進(たてまつ)らしむ。

 「墓記」とはなんだろう? 各氏の年代記のようなものだろうか。この墓紀没収の目的は何か。一般人民の造籍と併行して、有力豪族たちと九州王朝との関わりを抹消し、ヤマト王権との係累を造作するためだろうか。もちろん『日本書紀』編纂においてもこれを一つの資料として使ったことだろう。

691(持統5)年10月27日
 藤原京の地鎮祭
甲子に、使者を遣して、新益京(しんやくのみやこ)を鎭め祭らしむ。

691(持統5)年11月1日
 持統、大嘗祭を挙行
十一月の戊辰に、大嘗(おほにへ)す。神祗伯中臣朝臣大嶋、天神壽詞(あまつかみのよごと)を読む。

 大嘗祭挙行によって、持統は正式に天皇を名乗る名分を得た。これ以後、ヤマト王権は名実ともに「近畿王朝」となり、二王朝・二天皇が併存することとなった。691(持統5)年11月1日以後のヤマト王権を、近畿王朝と呼ぶことにする。

692(持統6)年5月23日
藤原宮の地鎮祭
丁亥に、浄廣肆難波王等を遣して、藤原の宮地(みたどころ)を鎭め祭らしむ。

 私はこの条の次に「国司発遣の詔」が入ると考えた。「造籍戸令遵守の詔」に従って行われた造籍の結果が国司たちから報告され、それを精査するのに二年かかった。その精査の結果、東国国司たちの報告が逆鱗にふれた。「国司発遣の詔」の干支日「甲子」は持統6年では2日に当たる。東国国司が集められ、再調査を命じられる。

692(持統6)年8月2日
「国司発遣の詔」


692(持統6)年9月9日
 班田役人を四畿に派遣
 班田大夫等(たたまいのまえつみたち)を四畿内(よつのうちつくに)に遣す。

 「国司発遣の詔」では同時に倭6県の国司が「造籍・校田」を目的として派遣されていた。次いで、完全に直轄地となっている畿内に班田役人が派遣された。畿内で班田収授を試行したのであろう。

693(持統7)年10月2日
軍備の増強
冬十月の丁巳の朔戊午に、詔したまはく、
「今年より、親王より始めて、下は進位に至るまで、儲(まう)くる所の兵を観(みそなは)さむ。浄冠より直冠に至るまでは、人ごとに甲一領・大刀一口・弓一張・矢一具・鞆(とも)一枚・鞍馬(くらおけるうま)。勤冠より進冠に至るまでには、人ごとに大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚。如此(かく)預(あらかじ)め備へよ」とのたまふ。


693(持統7)年12月21日
軍事訓練
十二月の丙辰の朔丙子に、陣法博士(いくさののりのはかせ)等を遣して、諸國に教へ習はしむ。

 このように全国に網の目のように張り巡らされた軍事力を背景に、近畿王朝はさらに九州王朝に権力移譲を迫っていったことだろう。

694(持統8)年3月2日
自前の通貨鋳造
乙酉に、直廣肆大宅朝臣麻呂・勤大貳臺忌寸八嶋・黄書連本實等を以て、鑄銭司(ぜにのつかさ)に拝(め)す。

694(持統8)年3月11日
郡司の冠位制定
甲午に、詔して曰はく、 「凡そ位無からむ人を以て郡司に任(まくるには、進広貳を以て大領(こほりのみやつこ)に授け、進大参を以て小領(すけのみやつこ)に授けよ。

 この段階ではまだ評制だった。本来は「評督」なのに、「評」隠しのため「郡司」と書き換えている。ヤマト王権が評督の人事権も奪取したことを示している。

694(持統8)年7月4日
巡察使派遣
秋七月の癸未の朔丙戌に、巡察使を諸國に遣す。

 巡察使は685(天武14)年9月15日条が初出である。そこでは巡察使の役割は「國司・郡司及び百姓の消息を巡察」することと書かれていた。頭注も読んでみよう。

「大宝・養老令制では太政官に直属し、諸国巡察の必要がある場合臨時に官人を選んで派遣するもので、視察の内容および使人の数はその時に応じて定められる。」

 「東国国司の詔」の朝集使とはここで言う巡察使のことではないだろうか。ここでは主として2年前に派遣された東国国司たちの「消息」(行状)を調査しに行った。もちろん東国国司たちは役割を終えて、巡察使派遣と前後して大和に還ってきている。もしかすると、このとき筑紫にも巡察使が派遣されたのかもしれない。その巡察使は皇太子が答えることになったあの「九州王朝への諮問」文書を携えていた、とまで考えるのは考えすぎだろうか。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1667-52932278
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック