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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(137)

「天武紀・持統紀」(52)


「大化改新」の真相(51)
「大化の改新」の実年代(1)


 「持統紀」の主な記事を確認しながら、「孝徳紀」の詔勅を埋め込んでみる。再挑戦です。(「孝徳紀」の詔勅の表題は赤字で示した。)

 天武の埋葬(持統2年11月11日)が終わった翌年から持統による体制の立て直しが始まる。私はこれまで「品部廃止の実行を督促」と呼んできた孝徳(大化)3年4月26(壬午)日の詔がその第一声ではないかと考えている。「壬午」は持統3年では3月30日になる。

689(持統3)年3月30日
「品部廃止の実行を督促」
壬午に、詔して曰はく、「帷神(かむながら)〈惟神は、神道(かみのみち)に随ふを謂ふ。亦自づからに神道有るを謂ふ。〉も我が子治(し)らさむと故(こと)寄させき。是を以て、天地の初より、君臨(きみとしら)す國なり。始治國皇祖(はつくにしらししすめみおや)の時より、天下大同(おな)じくして、都(かつ)て彼といひ此といふこと無し。既にして頃者(このごろ)、神の名・天皇の名名より始めて、或いは別れて臣・連の氏と爲(な)れり。或いは別れて造等(みやつこら)の色(しな)と爲れり。是に由(よ)りて、率土(くにのうち)の民の心、固(かた)く、彼此(かれこれ)を執(とら)へ、深く我汝(あれいまし)を生(な)して、各(おのおの)名名(なな)を守(たも)てり。又、拙弱(つたな)き臣・連・件造・國造、彼(そ)の姓(うぢ)となれる神の名・王の名を以て自(おの)が心の歸(よ)る所に逐(したが)ひて、妄(みだり)に前前(ひとひと)處處(ところところ)に付けたり。〈前前とは、猶(なほ)人人(ひとひと)を謂ふぞ。〉爰(ここ)に神の名・王の名を、人の賂物(まひなひ)とするを以ての故に、他(ひと)の奴婢(をのこやつこめのこやつこ)に入れて、清き名を穢汚(けが)す。逐に民の心整(ととのほ)らずして、國の政(まつりごと)治(をさ)め難し。是の故に、今は、天に在(いま)す神の随(まま)に、治め平(む)くべき運(と)に屬(あた)りて、斯等(これら)を悟らしめて、國を治めむこと民を治めむこと、是をや先にす是をや後にす、今日明日、次(つい)でて續(つ)ぎて詔(みことの)らむ。然(しか)も、素(もと)より天皇の聖化(みおもぶけ)に頼(たの)みで、舊俗(もとのしわざ)に習へる民、未だ詔らざる間に、必ず當(まさ)に待ち難かるべし。故、皇子・群臣より始めめて、諸の百姓に及(いた)るまでに、將(まさ)に庸調(ちからつき)賜(たま)はむ」とのたまふ。

 「品部の廃止」と同様、実に回りくどく分りにくい悪文だ。要するに「品部の廃止」が滞っていることに対する不満を述べた上、「次でて續ぎて詔らむ」、つまりこれ以降あれこれ詔を出すぞ、と告げている。

689(持統3)年4月13日
乙未に、皇太子草壁皇子尊薨(かむ)さりましぬ。

 「天武紀」では高官の死に際してさえも、あらかじめ罹病記事があり、死後は朝廷から弔問使派遣とか冠位追贈などの記事が続くが、「持統紀」の死亡記事は皇太子であってもこのようにたった一行だけである。かつて私は、このことから草壁皇子の死因に疑念を持った。しかし調べてみると、「持統紀」の他の死亡記事(春日王・川嶋皇子・高市皇子)も全てたった一行だけの素っ気無い記録で、例外がない。私の思い過ごしだった。

689(持統3)年6月29日
令の頒布
庚戌に、諸司に令一部二十二巻を班(わか)ち賜ふ。

 「井の中」ではこれが「飛鳥浄御原令」だとしている。作ったという記事が無く、いきなり頒布記事が出てくるのをいぶかしいとは思わないのだろうか。「令を作る」というような重要な記事を書き忘れるなどありえない。とすると「令」はすでにあったのだ。「筑紫令」である。持統は当面「筑紫令」を踏襲した。

689(持統3)年7月15日
射弓所の設営
丙寅に、左右京職及び諸國司に詔して、射(いくひ)習ふ所を築かしむ。

689(持統3)年閏8月10日
「造籍の詔」
閏八月の辛亥の朔庚申に、諸國司に詔して曰はく、
「今(この)冬に、戸籍(へのふみた)造るべし。九月を限りて、浮浪(うかれぴと)を乱(ただ)し捉(から)むべし。其の兵士(いくきびと)は、一國毎(くにごと)に、四(よ)つに分(わか)ちて其の一つを點(さだ)めて、武事を習はしめよ」とのたまふ。


690(持統4)年1月1日
持統即位
春正月の戊寅の朔に、物部麻呂朝臣、大盾を樹(た)つ。祇伯(かむづかさのかみ)中臣大嶋朝臣、天壽詞(あまつかみのよごと)讀む。畢(をは)りて忌部宿禰色夫知、璽(かみのしるし)の剱・鏡を皇后に奉上(たてまつ)る。皇后即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。公卿百寮、羅列(つらな)りて匝(あまね)く拝みたてまつりて、手(て)拍(う)つ。

 ちょっと横道

 このように詳しく即位式を記録しているのは「持統紀」だけだろう。璽が「三種の神器」ではなく「二種の器」であることが目を引く。現天皇家は「三種の神器」を揃えているが、本来は「二種の神器」だったのだ。福岡県の弥生時代の王墓からは「三種の神器」が出土している。それを取り巻くように「二種の神器」や「一種の神器」を持つ墓が点在しているという。第一権力者は「三種の神器」を持っていた。「二種の神器」は2番手ということになる。

 「剱・鏡」がペアで出てくる記事を調べてみた。2例あった。

 一つは神功皇后摂政前紀の「熊襲征伐」説話である。神田を定めて、その田に那珂川の水を引こうと溝を掘ったが、大岩にぶつかって溝を通せない。そこで武内宿禰に「剱・鏡」を捧げて神祗に祈祷させたら、雷が落ちて岩が砕け、めでたく溝が通った、というお話。

 もう一つは「宣化紀」の大王継承記事で、前王(安閑)に子がないので群臣が弟(宣化)に即位を奏上して「剱・鏡」を奉ったとある。やはりどちらも「二種の神器」である。ヤマト王権はもともとは「二種の神器」を奉ずる大王だった。

 本道に戻る。

690(持統4)年4月14日
冠位昇進・朝服の規定
庚申に、詔して曰はく、「百官(つかさつかさ)の人及び畿内(うちつくに)の人の、位有る者は六年を限れ。位無き者は七年を限れ。其の上(つかへまつ)れる日(ひかず)を以て、九等(ここのつのしな)に選び定めよ。四等(よつのしな)より以上は、考仕令(かうじりやう)の依(まま)に、其の善最(よさいさをしさ)・功能(いたはりしわざ)、氏姓(うじかばね)の大小を以て、量りて冠位授けむ。其の朝服は、浄大壹より已下(しもつかた)、廣貳より已上(かみつかた)には黒紫(ふかむらさき)。浄大參より已下、廣肆より巳上には赤紫。正の八級(やしな)には赤紫。直の八級には緋。勤の八級には深緑(こきみどり)。務の八級には浅緑。迫の八級には深縹(こきはなだ)。進の八級には浅縹。別に浄廣貳より已上には、一畐(ひとの)一部(ひとつぼ)の綾羅(あやうすはた)等、種種に用ゐることを聽(ゆる)す。浄大參より已下、直廣肆より已上には、一畐二部の綾羅等、種種に用ゐることを聽す。綺(かむはた)の帶・白き袴は、上下(かみしも)通(かよ)ひ用ゐよ。其の餘(ほか)は常の如(ごと)くせよ」とのたまふ。

 「百官の人及び畿内の人」が対象であり、畿内以外の諸王・豪族は入っていない。この詔勅による規定の適用範囲はヤマト王権内だけである。
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