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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(213)

「天武紀・持統紀」(128)


「大化改新」の真相(50)
「皇太子の奏上」と「改新の詔」の復習


 「皇太子の奏上」の読下し文は今まで部分的にしか読んでこなかった。改めて全文を読んでおこう。

(E)「皇太子の奏上」
壬午に、皇太子、使(つかい)を使(まだ)して奏請(まう)さしめて曰はく、
「昔在(むかし)の天皇等の世には天下を混(まろか)して齊(ひとし)めて治めたまふ。今に及逮(およ)びては分れ離れて業(わざ)を失ふ。〈國の業を謂ふ。〉天皇我が皇、萬民を牧(やしな)ふべき運(みよ)に屬(あた)りて、天も人も合應(こた)ヘて、厥(そ)の政(まつりごと)惟(これ)新(あらた)なり。是の故に、慶び尊びて、頂(いただき)に戴きて伏奏(かしこまりもう)す。現爲明神御八嶋國天皇(あきつみかみとやしまぐにしらすすめらみこと)が臣(やつかれ)に問ひて曰(のたま)はく、
『其れ群(もろもろ)の臣・連及び伴造・國造の所有(たもて)る、昔在(むかし)の天皇の日に置(お)ける子代入(こしろのいり)部、皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部〈彦人大兄を謂ふ。〉及び其の屯倉、猶古代(むかし)の如くにして、置かむや不や』とのたまふ。
臣、即ち恭(つつし)みて詔する所を承りて、奉答(こたへ)而曰(まう)さく、
『天(あめ)に雙(ふた)つの日無し。國に二(ふたり)の王(きみ)無し。是の故に、天下を兼ね幷せて、萬民を使ひたまふべきところは、唯天皇ならくのみ。別(こと)に、入部(いりべ)及び所封(よさせ)る民を以て、仕丁(つかへのよほろ)に簡(えら)び充てむこと、前(さき)の處分(ことわり)に從はむ。自餘以外(これよりほか)は、私に駈役(つか)はむことを恐る。故、入部五百二十四口・屯倉一百八十一所を獻る』
とまうす」とのたまふ。


 〈彦人大兄を謂ふ。〉という分注が付けられている「皇祖大兄」については『「天智紀」(1)』で中村幸雄さんの論考(論文「誤読されていた日本書紀」)を紹介している。結論部分を引用すると次のようであった。

『「郡評論争」により、既に大化改新の詔に文武の詔が混入されていることは明らかであり、この大化2年の記事も、天皇を持統、皇太子を文武に比定するならば、「皇祖大兄」は中大兄即ち天智であるといえるのである。』

 つまり中村さんはこの上奏文はヤマト王権の皇太子によるものと考えている。これを紹介した当時、私はまだ「大化の改新」については白紙の状態だったのでこの説を肯定的に捉えていた。しかし私は今は、この上奏文は九州王朝の皇太子によるものという正木裕さんの説(論文『「公地公民」と「昔在の天皇」』)を採っている。中村説を却けなければならない。正木さんの言うように「皇祖大兄」は「九州王朝の天子の伯父に類する立場の人物」であると考えるほかないだろう。

 その後気付いたことが一つある。「皇太子の奏上」は皇太子がヤマト王権の天皇(持統、大嘗祭を行っているので天皇と呼んでよいだろう)と直接対面して上奏したのではなく、「使を使して」間接的に上奏している。皇太子と持統は共に藤原宮にいたのではなく、二人は遠く離れたところにいた。このこともここの皇太子がヤマト王権の皇太子ではないことを示唆している。

 なお、この上奏文中の最も重要なキーワードである「昔在の天皇」については『「大化改新」の真相(10)』で、正木説の援用しながら検討をしている。参照してください。

 さて、その『「大化改新」の真相(10)』で取り上げたもう一つのポイントは、この上奏文中に引用されている現爲明神御八嶋國天皇がかつて皇太子に諮問したという文章『其れ群の臣・連及び伴造・國造の所有……猶古代の如くにして、置かむや不や』であった。それが「改新の詔:其の一」と類似していることから「改新の詔:其の一」が皇太子に下された諮問を意味するのでないかと考えた。「孝徳紀」に記録されている通りの順序で事が進んだとするとそれが一つの有力な仮説となるが、今は違う観点に立って考えている。それを述べる前に「改新の詔」を読んで置く。

(B)「改新の詔」
 二年の春正月の甲子の朔に、賀正禮(みかどおがみのこと)畢(をは)りて、即ち改新之詔を宣(のたま)ひて曰はく、
(部曲・田荘の廃止)
「其の一に曰はく、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民・處處の屯倉、及び、別(こと)には臣・連・伴造・國造・村首(むらのおびと)の所有(たもて)る部曲の民・處處の田荘を罷めよ。仍りて食封(へひと)を大夫(まえつきみ)より以上に賜ふこと、各差有らむ。降りて布帛を以て、官人・百姓に賜ふこと、差有らむ。又曰はく、大夫は、民を治めしむる所なり。能く其の治(まつりごと)を盡(つく)すときは、民頼(かうぶ)る。故、其の祿(たまもの)を重くせむことは、民の爲にする所以なり。

(坊条京の制度・畿内の定義・郡制度の布告)
其の二に曰はく、初めて京師(みさと)を修(をさ)め、畿内國の司・郡司・關塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人・驛馬・傳馬を置き、鈴契(すずしるし)を造り、山河を定めよ。凡そ京(みやこ)には坊毎に長一人を置け。四つの坊(まち)に令(うながし)一人を置け。戸口(へひと)を按(かむが)へ検(をさ)め、姧(かだま)しく非(あ)しきを督(ただ)し察(あきら)むることを掌れ。其の坊令(まちのうながし)には、坊の内に明廉(いさぎよ)く強(こは)く直(ただ)しくして、時の務(まつりごと)に堪ふる者を取りで充(あ)てよ。里坊(さとまち)の長(をさ)には、並(ならび)に里坊の百姓の清く正しく強誇(いさを)しき者を取りで充てよ。若し當(そ)の里坊に人無くは、比(ならび)の里坊に簡(えら)び用ゐること聽す。

凡そ畿内は東は名墾の横河より以來、南は紀伊の兄山(せのやま)より以來、〈兄、此をは制(せ)と云ふ。〉西は赤石の櫛淵より以夾、北は近江の狭狭波の合坂山(あふさかやま)より以來を、畿内國とす。

凡そ郡(こほり)は四十里(さと)を以て大郡(おほきこほり)とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡(なかつこほり)とし、三里を小郡(すくなきこほり)とせよ。其の郡司には、並びに國造の性(ひととなり)識(たましひ)清廉(いさぎよ)くして、時の務に堪ふる者を取りで、大領(こほりのみやつこ)・少領(すけのみやつこ)とし、強く[𠦝+夸](いさを)しく聰敏(さと)くして、書算(てかきかずとる)に工(たくみ)なる者を、主政(まつりごとひと)・ 主帳(ふびと)とせよ。凡そ驛馬・傳馬給ふことは、皆鈴・傳符の剋(きざみ)の數に依れ。凡そ諸國及び關には、鈴契(すずしるし)給ふ。並に長官執れ。無くは次官執れ。


(班田収授之法の制定)
其の三に曰はく、初めて戸籍(へのふみた)・計帳(かずのふみた)・班田収授之法(あかちだをさめづくるのり)を造れ。凡て五十戸を里とす。里毎に長一人を置く。戸口(へひと)を按(かむが)へ検(をさ)め、農桑(なりはひくは)を課(おほ)せ殖(う)ゑ、非違(のりにたがへる)を禁(いさ)め察(あきら)め、賦役(えつき)を催駈(うながしつか)ふことを掌れ。若し山谷(やまはさま)阻險(さが)しくして、地(ところ)遠(とほ)く人(ひと)稀(まれ)なる處には、便(たより)に隨ひて量りで置け。凡そ田は長さ三十歩、廣さ十二歩を段(きだ)とせよ。十段を町(ところ)とせよ。段ごとに租(たちから)の稲二束(つか)二把(たばり)、町ごとに租の稲二十二束とせよ。

(租庸調の改定)
其の四に曰はく、舊の賦役を罷めて、田の調を行へ。凡そ絹・絁・絲・綿は、並に郷土(くに)の出せるに随へ。田一町に絹一丈(つゑ)、四町にして匹(むら)を成す。長さ四丈、廣さ二尺(さか)半。絁二丈、二町にして匹を成す。長さ廣さ絹に同じ。布四丈、長さ廣さ絹・絁に同じ。一町にして端(むら)を成す。絲・綿の絇屯(めみせ)をば、諸の處に見ず。別に戸別の調(みつき)を収(と)れ。一戸に貲布(さよみのぬの)一丈二尺。凡そ調の副物(そはりつもの)の鹽と贄(にへ)とは、亦郷土の出せるに隨へ。

凡そ官馬(つかさうま)は、中(なかのしな)の馬は一百戸毎一匹を輸(いた)せ。若し細馬(よきうま)ならば二百戸毎に一匹を輸せ。其の馬買はむ直(あたひ)は、一戸に布一丈二尺。凡そ兵は、人の身ごとに刀・甲(よろひ)・弓・矢・幡・鼓を輸せ。凡そ仕丁は、舊の三十戸毎に一人せしを改めて、一人を以て廝(くりや)に充(あ)つ。五十戸毎に一人を、一人を以て廝に充つ。以て諸司に充てよ。五十戸を以て、仕丁一人が粮(かて)に充てよ。一戸に庸布(ちからしろのぬの)一丈二尺、庸米五斗。

凡そ采女は、郡の少領より以上の姉妹、及び子女の形容(かほ)端正(きたぎら)しき者を貢(たてまつ)れ。從丁(ともよほろ)一人、從女(ともめわらは)一人。一百戸を以て、采女一人が粮に充てよ。庸布・庸米、皆仕丁に准(なぞら)ヘ」とのたまふ。


 さて、(E)の諮問文は実際に下されたものを正確に転記したと考えてよいだろう。もしそう考えるのが不当でないなら、(B)の「其の一」が皇太子にに下された諮問文と考えるのは間違いということになる。

 私は詔勅(B)は他の諸詔勅や直談判などを通して行われた九州王朝とヤマト王権との間での交渉結果の集大成と考えている。そうすると「孝徳紀」の順序とは異なり、先に

『其れ群の臣・連及び伴造・國造の所有る、昔在の天皇の日に置ける子代入部、皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部及び其の屯倉、猶古代の如くにして、置かむや不や』

という諮問があった。背後には圧倒的な武力の差があったことだろう。九州王朝は渋々ながら、それを全面的に受け入れるほかなかった。人事権・国制制度・財政基盤など、すべてヤマト王権の手中に収まることとなった。ヤマト王権は堂々と全国に向かって宣言をした。

「昔在の天皇等の立てたまへる子代の民・處處の屯倉、及び、別には臣・連・伴造・國造・村首の所有る部曲の民・處處の田荘を罷めよ。」

 詔勅(B)はヤマト王権の勝利宣言であった。この詔勅が後の大宝律令の骨格となった。
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