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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(212)

「天武紀・持統紀」(127)


「大化改新」の真相(49)
「東国国司への詔」の復習


 私は「品部の廃止」以外の国制に関する諸詔勅は「持統紀」にあったものと考えている。これまでいろいろと試行錯誤を重ねてきたが、その実年代比定に再挑戦してみよう。対象になる詔勅は次の五つの詔勅である。(「孝徳紀」に出現する順。)

(A) 「東国国司発遣の詔」大化元年8月5(庚子)日
『「大化改新」の真相(4)』に全文の現代語訳あり。)

(B) 「改新の詔」大化2年正月1(甲子)日
『「大化改新」の真相(1)』に全文の現代語訳あり。)

(C) 「東国国司賞罰の詔」大化2年3月2(甲子)日

(D) 「朝集使の報告による査定の詔」大化2年3月19(辛巳)日

(E) 「皇太子の奏上」大化2年3月20(壬午)日
『「大化改新」の真相(8)』に全文の現代語訳あり。)

 (A)(C)(D)を一括して「東国国司への詔」と呼ぶことにする。

 さて、是までの議論をふまえて、次の2点を実年代比定の基本方針とする。

 「持統紀」の中の記事と該当詔勅のそれぞれの内容を勘案して、最もふさわしいと考えられる位置を探す。

 日付を表す干支日がはっきりしている場合はその干支日に置く。

 私(たち)は、(C)(D)以外は現代語訳でそれぞれの内容のあらましを既に知っているが、重複をいとわず今度は読下し文で読み、再度各詔勅のキーワードを検討しよう。言わば読下し文による復習です。(ただし(D)は恐ろしく長いので冒頭と必要な部分のみとする。)

 まず「東国国司の詔」。

(A)「東国国司発遣の詔」
 八月の丙申の朔庚子に、東國等の國司を拝す。仍りて國司等に詔して曰はく、
「天の奉(う)け寄(よさ)せたまひし随(まま)に、方(まさ)に今始めて萬國(くにぐに)を修(をさ)めむとす。凡そ國家(あめのした)の所有(たもて)る公民(おほみたから)、大(おほ)きに小(いささけ)きに領(あづか)れる人衆(ひとども)を、汝等(いましたち)任(まけどころ)に之(まか)りて、

(a 造籍・校田)
皆戸籍(へのふみた)を作り、及(また)田畝(たはたけ)を校(かむが)へよ。其れ薗池水陸の利(くほさ)は、百姓と供(とも)にせよ。
(b 裁判権剥奪)
國司等、國に在りて罪を判(ことわ)ること得じ。
(c 賂・収奪の禁)
他(ひと)の貸賂(まひなひ)を取りて、民を貧苦に致すこと得じ。
(d 馬・食使用の制限)
京に上らむ時には、多(さわ)に百姓を己に從ふること得じ。唯國造・郡領をのみ從はしむること得む。但し、公事を以て往來(かよ)はむ時には、部内(くにのうち)の馬に騎(の)ること得、部内の飯(いひ)喰(くら)ふこと得。
(e 褒賞・罪科のこと)
介(すけ)より以上、法を奉(う)けたらば、必須(すべから)くは褒め賞(たまもの)せよ。法に違はば、當に爵位(かがふりのくらい)を降(くだ)さむ。判官(まつりごとひと)より以下、他の貸賂を取らば、二倍して徴(はた)らむ。遂に軽さ重さを以て罪科(つみおほ)せむ。
(f 従者の制限)
其の長官(かい)に從者(よもならむひと)は九人。次官に從者は七人。主典(ふびと)に從者は五人。若し眼(かぎり)に違(す)ぎて外に將(い)たらむ者は、主(きみ)と從(とも)ならむ人と、並に當に罪科せむ。
(g 不法領有主張の申告)
若し名を求むる人有りて、元(はじめ)より國造・伴造・縣稱置に非ずして、輙(たやす)く詐(いつは)り訴ヘて言(まう)さまく、『我が祖の時より、此の官家(みやけ)を領(あづか)り、是の郡縣(こほり)を治む』とまうさむは、汝等國司、詐の隨に便(たやす)く朝(みかど)に牒(まう)すこと得じ。審(つばひらか)に實(まこと)の状(かたち)を得て後に申すべし。
(h 武器の扱い)
又、閑曠(いたづら)なる所に、兵庫(つはものぐら)を起造(つく)りて、國郡の刀・甲(よろひ)・弓・矢を収め聚め、邊國(ほとりのくに)の近く蝦夷と境接(まじは)る處には、盡に其の兵(つわものそなへ)を数へ集めて、猶本主(もとのあるじ)に假(あづ)け授(たま)ふべし。
(i 倭6県の造籍・校田)
其れ倭國(やまとのくに)の六縣に遣さるる使者、戸籍を造り、幷て田畝を校ふべし。〈墾田(はりた)の頃畝及び民の戸口(へひと)の年紀(とし)を検覈(あなぐ)るを謂ふ。〉
汝等國司、明に聽(うけたまは)りて退(まか)るべし」とのたまふ。即ち帛布(きぬ)賜ふこと、各差有り。


 この詔勅を下す対象者は「東國」とあるように東国国司だけでない。本文中に出てくるように倭6県の国司も同席している。また、これは当然のことと思うが、「國司」とあるように他の廷臣も同席している。

 「倭6県」の国司たちへの命令は(a)だけであり、(b)~(h)までの細かい規定は東国国司たちだけに下されている。その理由は『「大化改新」の真相(7)』で推測した以上のことを私は思いつかない。東国国司たちは一度派遣されたが、その時の東国国司たちの業績にヤマト王権にとって大いに不満足な点があったので再派遣されることになった。一種の恫喝である。

 次は「東国国司賞罰の詔」。この詔勅を全文掲載するのはこれが初めてである。

「東国国司賞罰の詔」
三月の癸亥の朔甲子に、東國の國司等に詔して曰はく、
「集侍(うごなはりはべ)る群卿大夫(まへつきみたち)及び臣・連・國造・伴造、幷て諸の百姓等、咸(ことごとく)に聽(うけたまは)るべし。夫(そ)れ天地の間に君として萬民を宰(をさ)むることは、獨り制(をさ)むべからず。要(かなら)ず臣の翼(たすけ)を須(もち)ゐる。是に由りて、代代の我が皇祖等(すめみおやたち)、卿(いまし)が祖考(みおや)と共に倶(とも)に治めたまひき。朕(われ)もの護(まもり)の力を蒙(かうぶ)りて、卿等と共に治めむと思欲(おも)ふ。故、前(さき)に良家(たかきいへ)の大夫(まへつきみ)を以て、東(あづま)の方(かた)の八道(やつのくに)を治めしむ。既にして國司任(まけどころ)に之(まか)りて、六人は法(のり)を奉(うけたまは)り、二人は令(のり)に違ヘり。毀譽(そしりほまれ) 各(おのおの)聞(きこ)ゆ。朕便ち厥(か)の法奉るを美(ほ)めて、斯(こ)の令に違へるを疾(にく)む。凡そ治めむとおもはむ者(ひと)は、君も臣(やつこらま)も、先(ま)づ當(まさ)に己を正しくして、後に他(ひと)を正せ。如(も)し自ら正しくあらずは、何ぞ能く人を正さむ。是を以て、自ら正しくあらざる者は、君臣と擇(えら)ばず、乃ち殃(わざはひ)を受くべし。豈愼(つつし)まざらむや。汝(いましたち)率(したが)ひて正しくは、孰(たれ)か敢へて正しくあらざらむ。今前の勅に随ひて處(おこな)ひ斷(さだ)めよ」とのたまふ。


 「良家の大夫」の名前は次の「朝集使の報告による査定の詔」に出てくる。その名前とそこから読み取れることも『「大化改新」の真相(7)』で書いた。ポイントは、「良家の大夫」にもかかわらず、しかも『日本書紀』編纂時からたった30年ほど前なのに、全31名中10名もの〈名を闕(もら)せり〉がいたことだった。この不審点から、この詔勅の国司はもともと九州王朝が任命していた国司であったと推測したのだった。

 その後、「東の方の八道」について考えるところがあった。「あづまの国」について調べたときの副産物である。

 〈大系〉の頭注は「類例に東山道15国(景行55年条)、東方諸国造12氏(高橋氏文)がある。ここは東国を八つにわけ、その各々に一組ずつ国司を遣わしたこと」と述べている。「高橋氏文」が何のことか私には分らないが、〈大系〉は「東の方」を文字通り大和の「東の方の国」ととっているようだ。例えば、『「大化改新」の真相(9)』で取り上げたように山尾幸久氏は次のように述べている。

「「こんな一大権力事業を、北陸の他に静岡・長野から福島までの広域において、八グループが四、五ケ月程度で完遂できるか。とんでもないことだと思う。」

 かなりの広域を念頭に置いている。そうすると国司一人の担当区域は複数の国を含むことになる。これでは確かに一大事業だ。しかし、一つの国に遣わしたのではないのに「国司」と呼ぶだろうか。

 私は古訓が「やつのくに」と訓じているのを素直にとって「あづまの国」だと考えた。『続日本紀』に「坂東九国」(神亀元年4月14日条に一回だけ)と「坂東八国」(初出:天平宝字3年9月27日、全6回)という概念が使われている。これについて〈大系〉の頭注は次のように述べている。

「「足柄岳坂」(常陸国風土記)より東の相模・安房・上総・下総・常陸(以上東海道)、上野・武蔵・下野(以上東山道)の八国。天平宝字三年九月庚寅条以下はみな「坂東八国」。ここに「坂東九国」とあるのは東海道に伊豆、または東山道に陸奥を加えたためか、九は八の誤写か、未詳。」

 坂東八国は持統期の「あづまの国」と同じ概念ではないだろうか。つまりこの詔勅で言う「東の方の八道」とは「あづまの国(上野国、下野国、常陸国、武蔵国、相模国、下総国、上総国、安房国)」を指している。

「朝集使の報告による査定の詔」
辛巳に、東國の朝集使(まうでうごなはるつかい)等に詔して曰はく、
「集侍る群卿大夫及び國造・件造、幷て諸の百姓等、咸に聽るべし。去年の八月を以て、朕親(みづか)ら誨(をし)ヘて曰ひしく、『官(つかさ)の勢(いきはひ)に因(よ)りて、公私(おほやけわたくし)の物を取ること莫(まな)。部内の食を喫ふべし。部内の馬に騎るべし。若し誨ふる所に違はば、次官より以上をば、其の爵位を降し、主典より以下をば、笞杖定めむ。己に入れむ物をば、倍へて徴れ』とのたまひき。詔既に斯の若し。今朝集使及び諸の國造等に問ふ、國司任に至りて、誨ふる所を奉るや不やと。是に、朝集使等、具に其の狀(かたち)を陳(まう)さく、……


 以下、朝集使の申告に従って東国国司たち31人一人一人の賞罰の言い渡しが長々と続き、「罰しないわけにはいかない」と宣言する。それに続けて次のように特赦を言い渡す。『「大化改新」の真相(9)』でも取り上げたように、この段に実年代比定にあたってのキーワードがある。赤字で示した。

……念(おも)ふこと是(かく)の若しと雖も、(a)
始めて新しき宮に處(を)りて、將に諸のに幣(みてぐら)たてまつらむとおもふこと、今歳(ことし)に屬(あた)れり。
(b)
又、農(なりはい)の月にして、民(おほみたから)を使ふ合(べ)からざれども、新(にひ)しき宮を造るに縁(よ)りて、固(まこと)に巳(や)むこと獲(え)ず。
 深く二つの途(みち)を感(かま)けて、天下(あめのした)に大赦(おほきにつみゆる)す。今より以後、國司・郡司、勉(つと)め勗(つと)めよ。放逸(あだめきわざ)すること勿(まな)。使者を遣して、諸國の流人、及び獄(ひとや)の中の囚(とらへびと)、一(とも)に皆放捨(ゆる)せ。……




 「東国国司の詔」の実年代を比定するに当たって、この二条件(a)(b)が難題になっている。『「大化改新」の真相(9)』でも大いに悩んだ。いまも悩んでいる。
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この記事へのコメント
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
2011/10/10(月) 20:52 | URL | 履歴書の賞罰 #-[ 編集]
「乙巳の変」と「大化改新」
西暦639年、倭国(斑鳩)と臺国(比米)が、合併建国。大倭国に。
都を四国松山(塾田津)に置く。『万葉集』(巻1・6)の左注に在り。

皇極天皇4年(645年)6月12日の「乙巳の変」は、
 【「(長男)倭国の分家▼高句麗の淵蓋蘇文」
=「▼鷹派物部氏・大海人皇子(皇極の長男)」が、
(唐との戦いに反対の)母親の倭国▲鳩派物部氏の
皇極太上天皇を殺害した事件】を云う。

大化2年(646年)1月に改新の詔を出した。
この改新の詔を以て「大化の改新」の始まりとする。
「大化改新」とは、
【皇極太上天皇の殺害を受けて、皇極の三男・孝徳天皇(大国主命)が、
 后の太田皇女(天照大神。額田王)へ、国譲りした】事を云う。
太田皇女(額田王)は、大倭国の君臨者・推古太上天皇に。
同時に、「(高句麗や新羅も傘下の)百済王」も推戴(譲位)された。
即ち、「大化改新」に依り、倭国▲物部氏(統治家に)と臺国●蘇我氏(君臨家に)の立場が逆転した。

当然、(高句麗や新羅も傘下の)百済王と成った推古太上天皇(小野妹子)と、
倭王・多利思比孤(大海人皇子)とは、反目する。

倭国同様、中国の南朝・陳へ朝貢していた
「高句麗の淵蓋蘇文(▼鷹派物部氏の大海人皇子)倭王・多利思比孤」は、
中国北朝の隋とも反目していた。
2011/12/02(金) 03:30 | URL | 銀河+秋彩 #3Rrase9Q[ 編集]
天武天皇の都
 「高句麗(倭国の分家)鷹派物部氏の大臣・淵蓋蘇文(伊梨柯須彌=蘇我の外戚・入鹿)」
=「倭王・多利思比孤」姓は阿毎、字は多利思北狐、阿輩雛彌と号した利歌彌多弗利
=【外来征服王朝▼天武天皇(大海人皇子・鷹派物部氏)】。唐では、【高任武と自称】。
▼天武天皇の都・(九州)吉野 祖廟 高良大社(福岡県久留米市御井町)
http://www.geocities.jp/hidesxima/_tS7ua5O.htm
2011/12/02(金) 04:04 | URL | 銀河+秋彩 #3Rrase9Q[ 編集]
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