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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(211)

「天武紀・持統紀」(126)


「大化改新」の真相(48)
「品部の廃止」詔は天武期にあった?


 『日本書紀』編纂者は、古田さんの言葉を借りれば、『「7世紀初頭から7世紀末まで」の詔勅群を一括して』「類集」のように「孝徳紀」に集めている。これには異論はないだろう。

 それでは『日本書紀』編纂者は複数の詔勅を集めて一つの詔勅に見せかけるような離れ業を使った、と私が言ったら、どんな反応が返ってくるだろうか。そこまで「大胆にして露骨、そし不器用」(これも古田さんの言葉)な造作をするだろうか。「否」。たぶん誰も首を縦に振ることはないだろう。しかし、私にはどうしてもそうとしか思えない詔勅があるので、これも一つの仮説(「複合詔勅」と呼ぶことにする)として提出しておこう。

 『古田説の検討(10):「東国」問題(7)』で書いたように、「複合詔勅」ではないかと疑った一つが「薄葬令・旧俗の廃止」の詔だった。私の検証が正しければ、九州王朝とヤマト王権の詔勅を複合したというとんでもない離れ業を行ったことになる。

 次に「複合詔勅」ではないかと疑ったのは「品部廃止の詔」である。ちょっと大胆すぎる仮説になるが、
『これは、「改新の詔」に集大成されていく詔勅のうち、天武が発布したものを複合したものである』。
 以下はそれの検証ということになる。

 「品部廃止の詔」の内容については『「品部廃止の詔」をめぐって(1)~(10)』でかなり詳しく検討している。全体が四段に分けられるが、第一段(序文)と第二段(品部の廃止)をまとめて一つとすれば、三つの詔勅に分けられる。

①「第一・二段:品部の私有廃止」
②「第三段:位階・冠位の返上と新規の叙任を布告」
③「第四段:国司発遣」

 詔の発布日「秋八月の庚申の朔癸酉」は①に使われた日付ということになろう。従って②・③の発布日の日付は不明であり、その内容によってもとの位置を考えるほかない。この三詔勅を「天武紀」の中に置いてみよう。

 壬申の乱を制した天武は九州王朝を圧倒する武力の増強・整備をも怠らなかった。

675(天武4)年3月16日
庚申に、諸王四位栗隈王を兵政官長(つはもののつかさのかみ)とす。小錦上大伴連御行を大輔(たいふ)とす。

675(天武4)年10月20日
庚寅に、詔して曰はく、「諸王より以下、初位より以上、人毎に兵を備へよ」とのたまふ。

 自らの実力に自信を持った天武は
683(天武12)年正月18日
 九州王朝からの独立宣言する。

 そしてさらなる軍備の増強・整備。

684(天武13)年閏4月5日
又詔して日はく、「凡そ政要は軍事なり。是を以て、文武官の諸人も、務めて兵を用ゐ、馬に乗ることを習へ。則ち馬・兵、幷て當身(みみ)の装束の物、務めて具(つぶさ)に儲(そな)へ足せ。其れ馬有らむ者をば騎士とせよ。馬無からむ者をば歩卒とせよ。並に當(まさ)に試練(ととの)へて、聚り曾(つど)ふに障ること勿(まな)。若し詔の旨に忤(たが)ひて、馬・兵に不便(もやもやあらぬこと)有り、亦装束闕(か)くること有らば、親王より 以下、諸臣に逮(いた)るまでに、並に罰(かむが)へしむ。大山位より以下は、罰ふべきは罰へ、杖(う)つべきは杖たむ。其れ務め習ひて能く業を得む者をば、若し死罪と雖(いふと)も、二等を減らさむ。唯し己が才に恃(よ)りて、故(ことさら)に犯さむ者のみは、赦す例(かぎり)に在らず」とのたまふ。

 圧倒的な武力を背景に、天武はついに姓・冠位の人事権を獲得する。天武はヤマト王権に帰順した諸王・諸臣に位階・官位の返上と新規の叙任を布告する。

第三段
祖子より始めて、奉仕(つかへまつ)る卿大夫(まへつきみたち)・臣・連・伴造・氏氏(うぢうぢ)の人等、〈或本に云はく、名名(なな)の王民(おほみたから)といふ。〉咸(ことごとくに)に聽聞(うけたまは)るべし。今汝等(いましたち)を以て、使仕(つか)ふべき狀(かたち)は、舊(もとの)の職(つかさ)を改去(す)てて、新(あらた)に百官(もものつかさ)を設け、位階(くらゐのしな)を著(あらは)して、官位(つかさくらゐ)を以て敍けたまはむ。

684(天武13)年10月1日
 「八色の姓」・真人の賜姓。


685(天武14)年正月21日
 冠位制制定・皇子たち初め諸王・諸臣に冠位授与。

 ヤマト王権傘下の国々の引き締め・結束を図る施策も実行する。

685(天武14)年9月11日
甲寅に、宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王を京(みさと)及び畿内(うちつくに)に遣して、各人夫(おほみたから)の兵を枚(かむが)へしめたまふ。

685(天武14)年9月15日
戊午に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者す。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣参路真人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史(ふびと)一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。

685(天武14)年11月4日
丙午に、四方の國に詔して曰はく、「大角(はら)・小角(くだ)・鼓・吹(ふえ)・幡旗(はた)、及び弩(おほゆみ)・抛(いしはじき)の類は、私の家に存(お)くべからず。咸(ことごとく)に郡家に収めよ」とのたまふ。

 巡察使派遣の記事について、〈大系〉の頭注は「ここに北陸道が欠けている理由は未詳」と言っているが、まだ北陸道全体を掌握できていなかったためだろう。また筑紫については「西海道。九州の総称」と言うが、これはつじつま合わせのご都合解釈でしかない。「九州全体」という意味で「筑紫」を用いる例がほかにあるのどうか私は知らないが、ここでは、なぜ他の地域と同じように「西海道」と書かないのだろうか、と問うべきなのだ。九州は九州王朝の管轄地である。たぶん筑紫への使者の目的は他の使者とは異なり、九州王朝への外交文書を携えて行ったのではないだろうか。

 このときの巡察結果に基づき、有功者に冠位が授与されている。

686(朱鳥元)年2月5日
乙亥に、勅(もことのり)して、諸の國司の有功者九人を選びて、勤位を授けたまふ。

 褒められた者がいれば、おしかりを受けた者もいるはずだ。一応国司は全員集められていた。そこで「第四段:国司の発遣」となる。

第四段
今發て遣す國司、幷て彼(そ)の國造、以(ここをも)て奉聞(うけたまは)るべし。
去年朝集(ちょうしゅう)に付(つ)けし政(まつりごと)は、前(さき)の處分(ことわり)の隨(まま)にせむ。
収め數ふる田を以ては、均しく民(おほみたから)に給へ。彼と我と生(な)すこと勿れ。凡そ田給(たま)はむことは、其の百姓の家、近く田に接(つ)けたらむときには、必ず近きを先とせよ。
此(かく)の如くに宜たまはむことを奉(うけたまは)れ。
凡そ調賦(みつき)は、男の身の調(みつき)を収むべし。
凡そ仕丁(つかへのよほろ)は、五十戸毎に一人。
國國の壃堺(さかひ)を觀て、或いは書にしるし或いは圖をかきて、持ち來(まゐ)りて示(み)せ奉(まつ)れ。國縣の名は、來(まうこ)む時に將に定めむ。
 國國の堤築(つ)くべき地(ところ)、溝穿(ほ)るべき所、田墾(は)るべき間(ところ)は、均しく給ひて造らしめよ。
當(まさ)に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし。


 「去年朝集に付けし政」とは前年派遣された巡察使者たちによって伝えられ行われた事績を指しているのだろう。

686(朱鳥元)年5月24日
癸亥に、天皇、始めて體不安(あつし)れたまふ。因りて、川原寺にて、藥師經を説かしむ。宮中に安居(あんご)せしむ。

686(朱鳥元)年7月15日
癸丑に、勅して曰はく、「天下の事、大小問はず、悉に皇后及び皇太子に啓(まう) せ」とのたまふ。

 持統・草壁に政務を代行させるほど、天武の病は思わしくなかった。生あるうちにヤマト王権の権力を万全なものにしておきたかった。そのための施策の一つが「品部の廃止」であった。

686(朱鳥元)年8月5(癸酉)日
原(たずね)れば夫(そ)れ天地陰陽、四時(よつのとき)をして相亂れしめず。惟(おもひみ)れば此(これ)天地(あめつち)、萬物(よろづのもの)を生(な)す。萬物の内に、人是最も靈(くしひ)なり。最も靈なる間に、聖(ひじり)人主(きみ)たり。是を以て、聖主(ひじり)の天皇、天に則(のと)り御寓(あめのしたをしろしめ)して、人の所(ところ)獲(え)むことを思ほすこと、暫(しましく)も胸(こころ)に廢(す)てず。
而るに王(きみ)の名名(みなみな)に始めて、臣・連・伴造・國造、其の品部(しなじなのとものを)を分ちて、彼の名名(なな)に別く。復、其の民と品部とを以て、交雑(まじ)りて國縣(くにこほり)に居(はべ)らしむ。遂に父子(おやこ)姓を易(か)へ、兄弟(はらから)宗異(こと)に、夫婦(をうとめ)更互(かはるがはるたがひ)に名(な)殊(こと)ならしむ。一家(ひとついえへ)五(いつ)つに分れ六つに割(さ)く。是に由りて、爭(あらそ)ひ競(きほ)ふ訟(うたへ)、國に盈ち朝(みかど)に充てり。終に治れることを見ずして、相亂るること彌(いよいよ)盛なり。粤(ここ)に、今の御寓天皇(あめのしたしらすすめらみこと)より始めて、臣・連等に及(いた)るまでに、所有(たもて)る品部は、悉に皆罷(や)めて、國家(おほやけ)の民とすべし。
其の王(きみ)の名を假借(か)りて伴造とし、其の祖(おや)の名に襲據(よ)りて臣・連とす。斯等、深く情(こころ)に悟らず、忽(にはか)に若是(かく)宜(の)る所を聞きて、當(まさ)に思ふらまく、『祖の名、借れる名滅(き)えぬ』とおもふらむ。是に由りて、預(あらかじ)め宣べて、朕(わ)が懐(おも)ふ所を聽き知らしめむ。
王者(きみ)の児(みこ)、相續(つ)ぎて御寓(あめのしたしら)せば、信(まこと)に時の帝(きみ)と祖皇(みおや)の名と、世(よよ)に忘らるべからざることを知る。而るを王(きみ)の名を以て、軽(かろかろ)しく川野(かはの)に掛けて、名を百姓(おほみたから)に呼ぶ、誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者(きみ)の號(みな)は、將に日月(ひつき)に隨ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は、天地と共に長く往くべし。如是(かく)思ふが故に宣(の)たまふ。


 「今の御寓天皇より始めて」と、あからさまに九州王朝の資産まで剥奪しようとしている。

686(朱鳥元)年8月13日
是の日に、皇太子・大津皇子・高市皇子に、各封四百戸を加(ま)したまふ。川嶋皇子・忍壁皇子に、各百戸を加したまふ。

686(朱鳥元)年8月15日
癸未に、芝基皇子・磯城皇子に、各二百戸を加したまふ。

 死を目前にして、ヤマト王権内での皇子たちの立場を盤石なものにするための増封だろう。

686(朱鳥元)年9月9日
丙午に、天皇の病、遂に差(い)えずして、正宮(おほみや)に崩りましぬ。

 天武の死により、たぶん「品部の廃止」は実行されなかった。九州王朝の財産剥奪は持統に受け継がれることになる。
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