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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(210)

「天武紀・持統紀」(125)


「大化改新」の真相(47)
天武期の冠位制について


 「冠位制の変遷(3)」 で、「冠位制(5)」(天武期の冠位制)について私は次のように書いた。

「この冠位はヤマト王権自前の初めての冠位制と言ってよいだろう。九州王朝の権力の衰退ぶりを示す証左の一つである。九州王朝からヤマト王権への権力移行の合意ができたのはこの頃だったかも知れない。」

 これに対してさっそく「ブログに期待する一市民」さんから次のようなコメントを頂いた。

 天武14年の冠位改定ですが、岩波書紀の注釈は「ただし明位の実例は存しない」としています。

 そうかもしれませんが逆に「明位の授冠は当然あったが書紀では都合が悪いのでカットされた」とは考えられませんか。

 大宝元年の近畿天皇家の制で明位は「親王」、諸王が「浄冠」ですから、天武14年(九州年号朱雀2年)で草壁皇子以下皆「浄冠」である近畿天皇家は「諸王」であり、「冠位を制定した王朝」の「親王」はいなかった。

 即ちこの時点では未だ九州王朝が名目上の権力を握っていた、明位は九州王朝の親王に与えられたが書紀編集時点で削除されたと。「与えもしない冠位を造った」のか「冠位はちゃんと与えられたが書紀から削除された」、どちらが合理的な考えでしょうか。

 ちなみに天武は八色の姓で「臣下」の最上位の「真人」を名乗っています。

 天武の「真人」については『「八色の姓」をめぐって(1)』ですでに私の見解を述べた。今回は冠位制(5)についての私の見解を述べよう。

 「明位の実例は存しない」という頭注は私も読んで承知していた。「一市民」さんと同じように、「明位」を授与された者の氏名が削除されたのではないか、という疑問をもった。しかし、もしそうだとしてもこの冠位はやはりヤマト王権のものであると考える。

 草壁皇子尊―浄廣壹位、大津皇子―浄大貳位、高市皇子―浄廣貳位、川嶋皇子・忍壁皇子―浄大参位という冠位授与が行われている。この記録まで疑うのなら別だが、私はそこなでは疑えない。これが記録どおりの事実だとすると、この事実が冠位制(5)がヤマト王権のものである証拠となる。

 もしもこの冠位の授与者が九州王朝だとすると、上の各皇子たちへの授与はおかしいことになる。なぜなら九州王朝から見れば、ヤマト王権の王子たちは王でも皇子でもなく、あくまでもヤマト大王(天智・天武)の王子でしかない。つまり彼らは授与の対象者ではない。

 もう一つ、「八色の姓」の賜姓者は天武だという仮説が正しいとすると、「姓」の賜姓権を得ながら、冠位授与権には関心を持たなかったとは考えがたい。当然官僚制度も独自なものに改革しようと考えたのではないだろうか。「八色の姓」と冠位制(5)関係の記事を並べてみよう。

684(天武13)年10月1日
 「八色の姓」制定。
 「真人」賜姓。
684(天武13)年12月2日
 「朝臣」賜姓
685(天武14)年正月21日
 冠位制制定。
 皇子・諸王・諸臣に授与。
685(天武14)年6月20日
「忌寸」賜姓。

 賜姓と新冠位授与をほとんど同時に遂行している。

 さらにもう一つ、冠位制(5)が九州王朝のものならば、権力の移行がより確実となったと思われる持統期(大嘗祭挙行後)にさっそく自前の冠位制を制定してもよさそうだが、冠位(5)の授与は文武4年まで(大宝律令制定まで)続いている。685(天武14)年段階では若すぎたので冠位を授与されなかった皇子たちも授与されている。皇子たちへの冠位授与記事を拾ってみよう。

693(持統7)年正月2日
春正月の辛卯の朔壬辰に、浄廣壹を以て、皇子高市に授けたまふ。浄廣貳を以て、皇子長と皇子弓削に授けたまふ。

 高市皇子は690(持統4)年7月5日に太政大臣になっている。皇太子並に期待されている。長皇子・弓削皇子と同階級というわけにはいかない。2階級昇進している。

695(持統9)年正月5日
春正月の庚辰の朔甲申に、浄廣貳を以て、皇子舍人に授けたまふ。

700(文武4)年正月7日
春正月の丁巳に、新田部皇子に浄廣貳を授けたまふ。

 持統期以降にも冠位制(5)による皇子たちへの冠位授与をなんら抵抗感なしに行っている。もともと自前の冠位制だったからではないだろうか。

 では「明位」が空席なのはどうしてだろうか。確かに不可解ではあるが、文献上の手掛かりは何もないのだから、「分からない」と言うほかない。記録の通り明位は空位だったとするほかないように思うが、あえて想像をたくましくしてみよう。

 九州王朝との合意なしに冠位制(5)を施行したとすると、九州王朝では冠位制(4)を用い、ヤマト王権は冠位制(5)を用いたことになる。冠位は一代限りのものとはいえ、相互の外交関係は頻繁に行われたであろうから、これでは双方にとって何かと不都合であろう。「八色の姓」は九州王朝のものを踏襲した代償に、冠位制はヤマト王権のものに統一したのではないだろうか。もちろん、「八色の姓」の賜姓も冠位授与もそれぞれの勢力範囲内で別々に行っていた。

 その合意のとき最上位の「明位」は九州王朝の皇族の指定席にする合意があった。例えば、せめて皇太子・草壁皇子や太政大臣になった高市皇子には「明位」を授与してもよさそうなのに、そのようになっていない。これはその合意のためではないか。その「明位」にあった氏名を九州王朝隠しのため『日本書紀』編纂時に削除した。(ちょっと苦しいかな。)
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