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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(208)

「天武紀・持統紀」(123)


「大化改新」の真相(45)
「八色の姓」をめぐって(2)


 「八色の姓」の詔以前、天武9年~天武13年に賜姓記事が8件もある。しかもすべて「連」姓である。屯倉や詔勅の「類集」があったように、これは「連賜姓」の「類集」のようだ。これらの記事も全て九州王朝の史書からの盗用で、それを天武紀に集めたのだろう。つまりこの「類集」は仮説1の根拠の一つである。

680(天武9)年正月8日
是の日に、忌部首首(いみべのおびとこびと)に、姓を賜ひて連と曰ふ。則ち弟色弗(しこぶち)と共に悦び拝(きこ)ゆ。

 忌部首とはどのような氏族だろうか。忌部の初出は「神代上・第7段」(あの「天の岩窟」説話の段)で、〈大系〉の補注は次のように書いている。

「第三の一書では忌部首。忌部は大和朝廷の祭祀に必要な物資を貢納した品部。忌部首はその伴造として、天武九年に連、同十三年に宿禰と賜姓、のち斎部宿禰と称した。忌部が忌部首と同祖と称するのは、支配・被支配の関係から生じたもの。また忌部首は中臣連のような政治的地位を獲得しえなかったために忌部も中臣連の支配を受け、本文でも太玉命の名を挙げるに際して本来の管理者忌部首の祖とすることが回避されたとの説がある。斎部宿欄の側の伝承は古語拾遺に見える。」

 もちろん「大和朝廷」は「九州王朝」と読み替えなければならない。

681(天武10年正月7日
是の日に、親王・諸王を内安殿に引入(めしい)る。諸臣、皆外安殿に侍(はべ)り。共に置酒(おほみきをめ)して樂(うたまひ)を賜ふ。則ち大山上草香部吉士大形に、小錦下位を授けたまふ。仍りて姓を賜ひて難波連と曰ふ。

 「天武紀」には「・・・殿」が頻出する。以前、「飛鳥浄御原宮の謎(3)」で調べている。内安殿・外安殿はここだけに現れる殿舎である。頭注は「未詳。いずれも内裏の殿舎か」と書いている。この殿舎名は九州王朝で使用していた用語だろう。

 草香部吉士大形は「帝紀・上古諸事の記定」の記事(3月17日条)に「難波連大形」という表記で現れる。大形はいち早くヤマト王権に帰順したのだろう。「帝紀・上古諸事の記定」に選ばれているのだから、それなりの学識を持っていたと思われる。しかしこれ以降は登場しない。

681(天武10)年4月12日
庚戌に、錦織造小分・田井直吉摩呂・次田倉人椹足〈椹。此をば武規と云ふ。〉石勝・川内直縣・忍海造鏡・荒田・能麻呂・大狛造百枝・足坏・倭直龍麻呂・門部直大嶋・宍人造老・山背狛烏賊麻呂。幷て十四人に姓を賜ひて連と曰ふ。

 ここに記録されている人物は他には現れない。〈大系〉は全てに「他に見えず」と頭注している。この事実もこの記事が盗用記事であることを示している。

681(天武10)年12月29日
是の日に、舍人造糠蟲・書直智徳に、姓を賜ひて連と曰ふ。

 舍人造糠蟲は翌年死去している。書直智徳は壬申の乱に参戦している人物だが、これ以降登場しない。

 ここまでの賜姓は個人に与える形を取っている。冠位は個人限りのものだが姓は授与された者の一族が代々受け継いで行くものだろう。次の賜姓記事からは氏族全体への授与に変わっている。

682(天武11)年5月12日
五月の癸巳の朔甲辰に、倭漢直等に、姓を賜ひて連と曰ふ。

 「等」というのは氏族全体に授与したという意味のようだ。次のような記事が続いている。

682(天武11)年5月27日
己未に、倭漢直等の男女、悉(ことごと)に參赴(まうおもぶ)きて、姓賜ひしことを悦びて拝朝(みかどをがみ)す。

 倭漢直は「八色の姓」では忌寸を授与されている。

683(天武12)年9月23日
丁未に、倭直・栗隈首・水取造・矢田部造・藤原部造・刑部造・福草部造・凡河内直・川内漢直・物部首・山背直・葛城直・殿服部造・門部直・錦織造・縵造・鳥取造・来目舍人造・檜隈舍人造・大狛造・秦造・川瀬舍人造・倭馬飼造・川内馬飼造・黄文造・蓆集造・勾筥作造・石上部造・財日奉造・泥部造・穴穂部造・白髪部造・忍海造・羽束造・文首・小泊瀬造・百濟造・語造、凡て三十八氏に、姓を賜ひて連と曰ふ。

683(天武12)年10月5日
冬十月の乙卯の朔己未に、三宅吉士・草壁吉士・伯耆造・船史・壹伎史・娑羅羅馬飼造・菟野馬飼造・吉野首・紀酒人直・釆女造・阿直史・高市縣主・磯城縣主・鏡作造、幷て十四氏に、姓を賜ひて連と曰ふ。

684(天武13)年正月17日
十三年の春正月の甲申の朔庚子に、三野縣主・内蔵衣縫造、二氏に、姓を賜ひて連と曰ふ。

 上の3例は地方豪族と民部・品部の統率者を対象にした賜姓記事である。679(天武8)年11月23日条には倭馬飼部造連が大使として多禰嶋に遣わされてる記事がある。これは明らかに九州王朝の事績だ。またこの条は品部の統率者への「連」賜姓記事は上記の3例だけではなく他にもあったことを示している。

 それにしてもなぜ「連」賜姓記事だけなのだろう。最上位の「真人」やナンバーツーの「朝臣」などの賜姓記事でははっきりと九州王朝による賜姓と分かってしまうからだろう。「連」賜姓記事でもそれと分からないものだけを選んで集めたと思われる。なぜか。「八色の姓」以前から賜姓はヤマト王権によって行われていたことを偽装するためである。
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