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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(207)

「天武紀・持統紀」(122)


「大化改新」の真相(44)
「八色の姓」をめぐって(1)


684(天武13)年10月1日
 冬十月の己卯の朔に、詔して曰はく、「更(また)諸氏の族姓(かばね)を改めて、八色(やくさ)の姓(かばね)を作りて、天下の萬(よろづの)姓を混(まろか)す。一つに曰はく、眞人(まひと)。二つに曰はく、朝臣(あそみ)。三つに曰はく、宿禰。四つに曰はく、忌寸(いみき)。五つに曰はく、道師(みちのし)。六つに曰はく、臣(おみ)。七つに曰はく、連。八つに曰はく、稲置(いなき)。

 是の日に、守山公・路公・高橋公・三國公・當麻公(たぎまのきみ)・茨城(うまらき)公・丹比(たぢひ)公・猪名(ゐな)公・坂田公・羽田公・息長(おきなが)公・酒人(さかひと)公・山道(やまぢ)公、十三氏に、姓を賜ひて眞人と曰ふ。


 この「八色の姓」について次の二つの仮説の論証(論証になるかどうか心もとないが)を試みようと思う。

仮説1
 「八色の姓」を始めて制定し、授与していたのは九州王朝である。
仮説2
 その姓制度を天武がそのまま踏襲して、授与権を奪った。

 仮説1に肯定的な答を与える根拠としてよく出されるのが天武の倭風諡号「天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)」である。つまり天武は九州王朝から「真人」を賜姓されていたという論法である。しかしこの論法は危うい。

 例えば「宿禰」。允恭の倭風諡号は「雄朝津間稚子宿禰(をあさづまわくごのすくね)である。では允恭は九州王朝から宿禰を賜姓されたのか。「yes」という人はまずいないだろう。「八色の姓」がいつ頃から始められたのかは分からないが、まさか允恭の時代(5世紀始め)ほど古くはないだろうから。〈大系〉の頭注は宿禰について「本来名の下に置く敬称で、それを姓に用いたもの」と書くが、「武内宿禰」の場合は個人名として用いられているとしか考えられない。允恭の場合もこれと同類ではないだろうか。

 ところで「真人」も個人名として用いられている例がある。天武10年12月29日条に「粟田臣真人」がある。天武14年5月19日条では「直大肆粟田朝臣真人」である。持統紀(3年正月9日条・同年6月20日条)では「筑紫大宰粟田真人朝臣」となっている。

 もう一つ、「真人」の賜姓対象者は皇族のようだが、天武は九州王朝の皇族ではない。天武の「真人」は姓ではなく、「粟田真人」の場合と同様に「賢人」という意味合いで使われている名前の一部ではないだろうか。

 仮説1を肯定する根拠としてもう一つ使われる根拠がある。柿本朝臣人麿だ。私(たち)は人麿が九州王朝ゆかりの歌人であることを知っている。人麿には九州王朝の天子・中皇命や白村江戦を詠った歌もあるのだから、人麿は九州王朝の吏官であり、その活動は天武13年より30年ほども前から始まっている。人麿の「朝臣」の授与者は九州王朝の天子と考えるほかない。

 『万葉集』には次のような例もある。16番の題詞に内大臣藤原朝臣とある。言わずと知れた鎌足のことである。鎌足は669(天智8)年に死去している。この「朝臣」の授与者が天武であるわけがない。これも九州王朝による賜姓であろう。

 もう一つ、『万葉集』で「真人」を検索していて224番~227番に出会った。

柿本朝臣人麿の死(みまか)らし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首
224
今日今日とわが待つ君は石川の貝に〈一に云ふ、谷に〉交りてありといはずやも
225
直(ただ)の蓬ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲(しの)はむ

丹比(たぢひ)眞人〈名を闕せり〉柿本朝臣人麿の意(こころ)に擬(なずら)へて報(こた)ふる歌一首
226
荒波に寄りくる玉を枕に置きわれここにありと誰(たれ)れか告げなむ

   或る本の歌に曰く
227
天離(あまざか)る夷(ひな)の荒野に君を置きて思ひつつあれば生(い)けるともなし   右の一首の歌、作者いまだ詳(つばひ)  らかならず。但し、古本、この歌をもち  ての次(つぎて)に載す。


 人麿の妻の歌に対して、丹比真人某が人麿に成り代わって返歌を作ったという趣向になっている。人麿が亡くなったのは7世紀末か8世紀初めころだろうか。いずれにしても万葉集編纂と同時代と言えよう。この〈名を闕せり〉は『日本書紀』の場合と同じように不審としなければならない。この丹比真人にはその名を伏せなければならない不都合があったのだろうか。

 ともあれ、『万葉集』にも「名無しの権兵衛」がいるとは知らなかった。名無しの丹比真人の歌はあと二つあった(1609番・1726番)。  「丹比真人」には不審点が多い。『日本書紀』に登場する丹比真人を拾ってみよう。

677(天武6)年10月14日
冬十月の庚寅の朔癸卯に、内小錦上河邊臣百枝を民部卿とす。内大錦下丹比公麻呂を攝津職大夫とす。

 上の人名は丹比の「公麻呂(きみまろ)」ではなく「丹比公」麻呂(まろ)と読むようだ。この人物は687(持統元)年3月20日に天武の殯で誄という重責を担っている。

682(天武11)年4月21日
癸未に、筑紫大宰丹比眞人嶋等大きなる鍾を貢れり。

683(天武12)年正月2日
春正月の己丑の朔庚寅に、百寮、朝庭(みかど)拝す。筑紫大宰丹比眞人嶋等、三足ある雀を貢れり。

 上の2条は「八色の姓」(天武13年)以前なのに「真人」が使われている。頭注は「追記か」と言っているが、九州王朝からの賜姓と考えれば何ら問題ない。上の三つの記事は九州王朝の史書からの盗用記事なのだ。もしそうだとすると、「丹比公」と呼ばれているのだから丹比一族は九州王朝の皇族ということになる。「真人」賜姓の対象者は皇族である。それが天武によって再び「真人」を授与されているところを見ると、いち早く九州王朝を離脱した裏切り者と言うことになる。

 真人を授与されている者の中にもう二人不可解な人物がいる。高橋公と茨城公である。この二人以外は、丹比公も含めて近畿天皇家の皇族であることを示す系譜があるのに、頭注によると高橋公と茨城公は「他に見えず。系譜未詳」なのだ。近畿天皇家の皇族扱いしているのに、これはどうしたことだろうか。この二人も九州王朝の皇族だった可能性がある。

 丹比眞人嶋は689(持統3)年閏8月27日に冠位・直廣貳を授与されるとともに一百戸増封されている。さらに692(持統4)年7月5日には正廣参を授与され、右大臣になっている。また691(持統5)年正月13日に高市皇子らとともに増封されて、計五百戸になっている。穂積皇子・川嶋皇子と同戸数である。さらにまた696(持統10)年10月22日には「輿・杖」を、24日に「資人一百二十人」を下賜されている。「輿・杖」は高齢者に対する優遇措置のようだ。

 『日本書紀』での嶋についての記事は以上だが、もう一つ嶋の息子・丹比真人池守の記事がある。693(持統7)年6月4日に直廣肆を授与さえれている。

  「丹比」は『続日本紀』では「多治比」と表記されている。多治比真人嶋は701(大宝元)年7月21日に死去している。その時の位階は左大臣正二位であり、最高位まで上りつめたことになる。その死亡記事には「宣化天皇の玄孫。多冶比王の子なり」という系図説明がある。権力が近畿王朝に移ってからは各国の王や豪族たちはこぞって近畿天皇家に係累するように系図を書き換えたと思われる。『続日本紀』の記述をもって、多治比一族が九州王朝の皇族であったことを否定する証拠とは言えないのではないだろうか。(ちょっと苦しいかな。)

 『続日本紀』には一つ不可解なことがある。「多治見」ではなく「丹比」という表記もあるのだ。しかしこちらの人物の姓は宿禰である。宿禰を授与された者の中に手繦丹比(たすきのたぢひ)連・靫丹比(ゆきのたぢひ)連がいるが、これらを単に「丹比」と呼んでしまっては手繦丹比と靫丹比の二氏族の区別が付かなってしまう。そんなことはあり得ない。つまり「丹比」一族が宿禰を授与されたという記事はどこにもないのだ。

 これは全くの憶測になるが、『万葉集』の名無しの丹比真人は丹比公の一係累(分家)であったが、何か不都合をしでかして宿禰に格下げされた。それで『続日本紀』では本家を「多治比」、分家を「丹比」と表記して区別をした。

 ちなみに、ズーと下って777(宝亀8)年5月13日条に「少録正六位上丹比新家連稲長と大膳膳部大初位下東麻呂に丹比宿禰という姓を賜った」という記事がある。後世には「丹比宿禰」という「氏族名+姓」を一つの姓としたらしい。いよいよ分からなくなってきた。
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