2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
今日の話題:再び原発問題
「原発問題―故意に避けられている問題がある。」 で伝えたかったことを改めてまとめると次のようです。
もしも原発の安全性が完璧なものになったとしても原発の「入り口」と「出口」に大変な問題がある。その問題に口をぬぐって「原発は安全です」などというのは詐偽に等しい。「入り口」(ウラン鉱石の採掘と精製)でも被曝している労働者がいる。ということはそこでも放射線が大量にまき散らされている。「出口」(使用済み核燃料の保管と処分)でも問題山積であり解決の見通しもない。つまり原子力は人類にはコントロールできない代物なのだ。
この「入り口」と「出口」の問題をマスコミもちらほらと取り上げるようになってきた。
さて、東京新聞夕刊に赤坂憲雄さん(民俗学者)と津島佑子さん(作家)との「選択の夏ポスト3.11を生きる」と題した対談が三回にわたって掲載された。昨日の第三回で津島さんが「入り口」に関わる次のような話題を語っていた。
大枚をはたいて住民の土地を収奪していく資本主義の非人道性が「入り口」でもしっかりと発揮されていたのだった。
同じ夕刊のコラム「紙つぶて」に増田寛也さん(野村総研顧問)が「処分場の行方」と題して「出口」問題を取り上げていた。
スウェーデン政府とは裏腹に日本政府と電力会社は情報隠しに明け暮れている。彼らが公開する情報をまともに信じている国民はもうほとんどいないのではないだろうか。
増田さんは「元の天然ウランと同じ放射能レベルに下がるまでには数万年かかる」と書いているが、ウラン235・ウラン238の半減期はそれぞれ7億年・45億年である。地中深く隠したからといって解決したことにはならない。
増田さんが言う「北欧の二カ国」のもう一つの国はフィンランドである。「古田史学会会報No105」に「九州王朝新発見の現在」という古田さんの講演録の要約が掲載されている。その講演の最後で古田さんはフィンランドの核廃棄物処理について触れている。次のように要約されている。
さて、いまだに「原発がなければ経済は成り立たない」とか「原発なしでは人類は生きてはいけない」などと言う者たちがいる。多くは原子力ムラにつながっている輩だ。ほんとにそうなのか。
対談「選択の夏ポスト3.11を生きる」から、その解答の方向を示している赤坂さんの発言を拾ってみる。ちなみに、赤坂さんは「東日本大震災復興構想会議」の委員を務めている。
「自然エネルギーへの転換は、原発の持つ中央集権的なシステムから地域分権的な自立型のエネルギー、産業構造に変わっていく」というくだり読んだとき、私は『「大化改新」の真相(3)』 で書いたことを思い出していた。
原発から自然エネルギーへの転換がもたらす産業構造の変革が、そこに止まらず、硬直化しているあらゆる社会システムへと波及していくことを期待するのは、あまりにも夢想的過ぎるだろうか。
(追記)
今日(8月13日)の東京新聞の「筆洗」が「出口」問題を取り上げていた。
もしも原発の安全性が完璧なものになったとしても原発の「入り口」と「出口」に大変な問題がある。その問題に口をぬぐって「原発は安全です」などというのは詐偽に等しい。「入り口」(ウラン鉱石の採掘と精製)でも被曝している労働者がいる。ということはそこでも放射線が大量にまき散らされている。「出口」(使用済み核燃料の保管と処分)でも問題山積であり解決の見通しもない。つまり原子力は人類にはコントロールできない代物なのだ。
この「入り口」と「出口」の問題をマスコミもちらほらと取り上げるようになってきた。
さて、東京新聞夕刊に赤坂憲雄さん(民俗学者)と津島佑子さん(作家)との「選択の夏ポスト3.11を生きる」と題した対談が三回にわたって掲載された。昨日の第三回で津島さんが「入り口」に関わる次のような話題を語っていた。
四月にオーストラリアのアボリジニの人たちが国連事務総長に手紙を送った。彼らの土地で採掘されたウランが日本に輸出されていて「フクシマの事故の原因の一部になって悲しい。もうウランは採らせない」という内容です。そして巨額の採掘権で得られるお金を返上して、土地を守りたいと。
かたや、日本は自然資源がないと言うが、これは変な言い方です。日本列島は自然資源に恵まれた風土なのに。
大枚をはたいて住民の土地を収奪していく資本主義の非人道性が「入り口」でもしっかりと発揮されていたのだった。
同じ夕刊のコラム「紙つぶて」に増田寛也さん(野村総研顧問)が「処分場の行方」と題して「出口」問題を取り上げていた。
最終処分場をどこにするか。福島第一原発の事故制御が急がれるが、近いうちに、原子力発電から生ずる核のごみを埋設する処分場の建設予定地を決定しなければならない。
現在、約二・四万本の使用済み核燃料が国内各地にあり、十年後には約四万本になるとみられる。わが国は使用済み核燃料からウランとプルトニウムを取り出し、核燃料として再利用する核燃料サイクルを進めているが、再利用できない高レベル放射性廃棄物はガラスと溶かし合わせ、ステンレス製の容器に密封して地下三百㍍以下の岩盤の安定している所に埋設処分することになっている。
高レベルの廃棄物は強い放射線を発していて、元の天然ウランと同じ放射能レベルに下がるまでには数万年かかるという。地震大国だけに半永久に安全管理できる適地は限られ、適地の選定や施設の建設に相当な時間が必要となる。このため、政府の計画では平成二十年代半ばに何カ所かの候補地を選定することになっている。これが、今回の事故でどのようになるか。
原発継続か脱原発かにかかわらず直面する問題であり、次世代に核の後始末を押しつけてよいはずはない。世界では北欧の二カ国だけが予定地を決定している。先週、スウェーデンの予定地と埋設方法の研究機関を調査してきた。現地の責任者が「情報はすべてオープン、住民と長期間対話し、最後は政府への国民の信頼感にかかっている」と述べたのが強く印象に残った。
スウェーデン政府とは裏腹に日本政府と電力会社は情報隠しに明け暮れている。彼らが公開する情報をまともに信じている国民はもうほとんどいないのではないだろうか。
増田さんは「元の天然ウランと同じ放射能レベルに下がるまでには数万年かかる」と書いているが、ウラン235・ウラン238の半減期はそれぞれ7億年・45億年である。地中深く隠したからといって解決したことにはならない。
増田さんが言う「北欧の二カ国」のもう一つの国はフィンランドである。「古田史学会会報No105」に「九州王朝新発見の現在」という古田さんの講演録の要約が掲載されている。その講演の最後で古田さんはフィンランドの核廃棄物処理について触れている。次のように要約されている。
核廃棄物を四十万年後の人類が見つけたらどうなるか、フィンランド語で危険と書いても四十万年後の人類が読めるだろうか。フィンランドで議論されています。
これは未来の人類に影響を与えるものを、現在の人類が絶対に作ってはならないことを意味します。
①処理を出来ない科学は科学でない。
②近代国家はそのようなものを作ってはいけない。
③このようなものを認める法は法でない。
広島、長崎、福島を経験した日本人はこのことを世界に発信しなければならないと思います。
さて、いまだに「原発がなければ経済は成り立たない」とか「原発なしでは人類は生きてはいけない」などと言う者たちがいる。多くは原子力ムラにつながっている輩だ。ほんとにそうなのか。
対談「選択の夏ポスト3.11を生きる」から、その解答の方向を示している赤坂さんの発言を拾ってみる。ちなみに、赤坂さんは「東日本大震災復興構想会議」の委員を務めている。
私は、3・11まで原発を語ったことはないし、自然エネルギーにも興味なかった。いまは日本社会の大きなグランドデザインとして原発から自然エネルギーへの転換を選択するしかないんだと考えています。目の前の現実がいや応なしにその方向に目を向けさせた。そして、委員をしている政府の復興構想会議で福島県を自然エネルギー特区にと提案した。周囲は「そうなればいいね」 「でも難しいだろうね」という空気だった。しかし日本人の世論は劇的に転換しました。
原発から自然エネルギーへの転換を考えたとき、思ったのは「自然」からいただくというイメージを大切にするということでした。地中に埋もれている化石燃料と違い、降り注ぐ太陽の光、吹き寄せてくる風や潮力…。日本列島に無尽蔵にある自然なんですよ。自然エネルギーへの転換は、原発の持つ中央集権的なシステムから地域分権的な自立型のエネルギー、産業構造に変わっていくことだと気付いたんです。
十一月に「ふくしま会議」を開き、世界中から知恵を結集して、福島から、自然エネルギーへの転換を宣言しようと動いています。福島が直面しているのは人類の将来の課題。それを不幸にも全部引き受けようとしているわけだから、世界に向けて発信することで、片仮名のフクシマ、ローマ字のFUKUSHIMAが「絶望」ではなく「希望」の土地になる。そのメッセージを送りたいんです。
「自然エネルギーへの転換は、原発の持つ中央集権的なシステムから地域分権的な自立型のエネルギー、産業構造に変わっていく」というくだり読んだとき、私は
「若い諸君」の中から気骨ある真の学者が出てくることを期待したいがどうだろうか。難しいだろう。学会とは徒弟制度の社会のようだ。指導教授の学説に反する研究を発表すると、その学者は将来出世できないといわれている。古代史学会だけの話ではない。
水俣病を告発し、問題を社会に知らしめる発端を作った宇井純さんはついに「万年助手」に据え置かれたままだった。早くから原発の危険性を強く指摘し続けていた京都大の今中哲二さん・小出裕章さんは研究費でも差別を受け、助教授止まりでそれ以上の出世を阻まれているという。
大学だけのことではない。「君が代・日の丸強制」反対裁判に見るように、憲法判断を要する裁判では、ほとんどの裁判官が最高裁判例追認の判決しか出せない。その最高裁判例が行政追随・憲法無視の判決なのだ。それに逆らうまともな判決をすると、地方に飛ばされたりして、将来も出世はできないようだ。「予防訴訟」裁判であの画期的なすばらしい判決を出した難波裁判官はその後どうなっただろうか。ネットで調べたら「熊本地方裁判所長、熊本簡易裁判所判事」とあった。
マスコミの世界もそうだ。経営者の意向に反する作品や記事は没にされてしまう。御用記者がはびこり、まともなジャーナリストは少ない。
いたるところに根を張っている旧態然とした社会システムの根本的な変革がないかぎり、本当の学問・言論・思想の自由は絵に描いた餅でしかない。暗澹とした気分になるが、気を取り直して先を続けよう。
原発から自然エネルギーへの転換がもたらす産業構造の変革が、そこに止まらず、硬直化しているあらゆる社会システムへと波及していくことを期待するのは、あまりにも夢想的過ぎるだろうか。
(追記)
今日(8月13日)の東京新聞の「筆洗」が「出口」問題を取り上げていた。
ひどい目に遭い、自分ではもう買う気にならない商品を、買いたいという人がいたら、当然、「やめておけ」というのが人の道だろう。
だが、政府の考えは違うようだ。原発の輸出を当面は継続する方針を決めたのだという。あの福島の事故を経験した日本、しかも首相は脱原発の方針を打ち出している。それを、よその国に売ろうという感覚が分からない。
事故以前から交渉話があったいくつかの国が相手になるらしいが、第一、「絶対に安全か」「本当に安上がりか」と聞かれたらどう答えるつもりだろう。
自国には捨てられない“危ないゴミ”をよその国に捨てる、という信じられない構想も最近、伝えられた。使用済み核燃料の処分場を、モンゴルに造る話が米国に日本企業もからんで水面下で進んでいるのだという。
長く反原発を主張してきた作家広瀬隆さんの著書『東京に原発を!』の反語的タイトルが象徴するのは、安全だといいながら、都市はメリットだけを享受し、リスクは地方に押し付ける構図。電力需要地の首都圏でなく東北・福島に造られたあの原発も一例だ。モンゴル構想で、その欺瞞を先進国と途上国に置き換える愚が許されるはずがない。
つまり、保管しておくだけで危険な使用済み核燃料はただ増え続け、捨て場所はどこにもない…。原発維持に無理があるのはこの一点だけでも明白である。
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