2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(206)

「天武紀・持統紀」(121)


「大化改新」の真相(43)
天武の独立宣言


 国制関係の諸詔勅だけを対象にする。その実年を考えるに当たって、まず私の基本的な観点を提示しておこう。二つある。

 今まで九州王朝からヤマト王権への権力移行開始の結節点を持統の大嘗祭に置いてきたが、今は天武の晩年期ではないかと考えている。「天武紀 下」も検討の対象とする。

 もう一つは諸詔勅の位置関係に対する観点である。「改新の詔」のかなめは廃評建郡であり、それは九州王朝からヤマト王権への権力移行の完成とその自信の表出でもある。そこに到達するまでには、時には強硬手段に訴えたり時には懐柔策を弄したりしながら、相当の紆余曲折があったことだろう。「改新の詔」以外の詔勅はその過程の経緯を示しているものと考えている。つまり「改新の詔」の詔が最後の到達点であり、その他の詔勅はそれに先行して発布されたものである。

 さて、「天武紀」は天武10年あたりから国制関係の記事が多くなってくる。そして、天武12年正月18日条に「明神御大八洲倭根子天皇」という文言がでてくる。これについて〈大系〉の頭注はつぎのように述べている。

『養老公式令では「明神御大八洲天皇詔旨(あきつみかみとおほやしまぐにしらすすめらがおほみことらまと)」云々とあり、立后・立太子・元日朝賀など朝廷の大事の際の詔に用いられる辞とされた。』(私には「らまと」という訓がわからない。)

 「孝徳紀」にも同じような文言があった。

明神御宇日本天皇(高麗・百済の使者への詔)
明神御宇日本倭根子天皇(「鐘匱の反応」の詔)
明神御八嶋国天皇(「皇太子の奏上」)

 ついでなので『続日本紀』ではどんな文言になっているのか調べてみた。おどろいた。千差万別である。『続日本紀』の編纂もけっこういい加減な点があるのだった。「現御神……」「現神……」「明神……」の3タイプがある。

現御神大八嶋国所知天皇
現御神大八嶋国所知倭根子天皇
現神八洲御宇倭根子天皇
現神御宇倭根子天皇
現神大八洲国所知倭根子天皇
現神坐倭根子天皇
現神大八洲所知倭根子天皇
現神御宇天皇
現神坐倭根子天皇
現神大八洲所知倭根子天皇
現神大八洲国所知倭根子挂畏天皇
現神大八洲所知倭根子天皇
現神大八洲国所知天皇
現神坐倭根子天皇
明神大八洲所知天皇
明神御大八洲養徳根子天皇
明神大八洲所知和根子天皇
明神大八洲所知天皇


 「現神坐倭根子天皇」と「明神大八洲所知天皇」が2回ずつ使われているが、あと同じものはない。公式令の規定と同じものもまったくない。「令」って何なのだろう。

 さて、天武12年正月18日条は次の通りである。

丙午に、詔して曰はく、「明神御大八洲倭根子天皇(あきつみかみとおほやしましらすやまとねこのすめらみこと)の勅命(おほみことのり)をば、諸(もろもろ)の國司と國造と郡司と百姓等(おほみたからども)と、諸(もろとも)に聽くべし。朕、初めて鴻祚登(あまつひつぎしら)ししより以來(このかた)、天瑞(あまつみつ)、一二(ひとつふたつ)に非(あら)ずして多(さは)に至れり。傳(つて)に聞くならく、其(か)の天瑞は、政(まつりごと)を行ふ理(ことわり)、天道(あめのみち)に協(かな)ふときには、應(こた)ふと。是(ここ)に今朕(わ)が世(みよ)に當(あた)りて、年毎に重ねて至る。一(ひとたび)は以て懼(おそ)り、一は以て嘉(よみ)す。是を以て、親王と諸王及び群卿(まへつきみたち)と百寮(つかさつかさ)、幷て天下の黎民(おほみたから)、共に相(あひ)歓(うれし)びむ。乃ち小建より以上に、祿(もの)給ふこと各差(しな)有らむ。因りて大辟罪(しぬるつみ)より以下、皆赦す。亦百姓の課役(えつき)、並に免(ゆる)す」とのたまふ。

 この詔が出された当時、どのくらいの国司・国造・郡司(この頃はまだ評制時代だから「評督」を「郡司」と書き換えたもの)がヤマト王権に帰順していただろうか。ともかく帰順していた国司・国造・郡司を集めての詔だった。この詔で天武は、「政を行ふ理」(天命)があると、自分が権力の頂点に立つ正当性を述べている。これは同時に九州王朝からの独立宣言でもあった。
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