2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(205)

「天武紀・持統紀」(120)


「大化改新」の真相(42)
諸詔勅の実年代についてのまとめ


 ほとんど白紙状態で『「大化改新」の真相』という大問題に挑戦して、いろいろと間違いを犯しながらも最終段階にやってきた。これまでの間違いから知ったことを振り返って見ようと思う。

 「孝徳紀」大化1・2年の諸詔勅をそのままの順序で全部九州年号の大化1・2年(持統9・10年)からの盗用と早合点してスタートした。次のようであった。(各詔勅の内容を示す表題は、スタート時のものは不備があったので、「古田説の検討(1)で用いたものを使う。)

大化1年―695(持統9)年
(1)「東国国司の発遣」
(2)「鐘匱の設置」「男女の法」
(3)「寺主の任命と諸寺の実情調査」
(4)「不正蓄財・土地貸借の禁止」
大化2年―696(持統10)年
(5)「改新の詔」
(6)「鐘匱の反応」
(7)「国民からの愁訴の審理」
(8)「東国国司の違反調査」
(9)「朝集使の報告」
(10)「皇太子の奏上」
(11)「薄葬令」「旧俗の廃止」
(12)「品部の廃止」
(13)「品部廃止の実行を督促」?
(14)「出退勤の礼法」

 これらの詔勅の中で国制に関係する記事だけにしぼって論究することにした。(1)(5)(8)(9)(10)(12)である。すると持統9・10年にはそれらの諸詔勅と関連する記事が見いだせないので、「朔日・暦日ともに合致する」移動を試みた。持統6・7年であった。持統3~5年には国制に関係する記事が多くあるのでそれと関連づけようとした。次のようになった。

689(持統3)年閏8月10日
 「造籍の詔」
690(持統4)年1月1日
 持統即位
690(持統4)年7月1日~18日
 人事など政治体制の刷新
690(持統4)年9月1日
 「造籍戸令遵守の詔」
691(持統5)年10月27日
 藤原京の地鎮祭
691(持統5)年11月1日
 持統、大嘗祭を挙行
692(持統6)年4月5日
 「東国国司発遣の詔」

692(持統6)年5月23日
 藤原宮の地鎮祭
692(持統6)年
 8月1日
  「改新の詔」
 8月2日・8月19日
  「東国国司賞罰の詔」
 8月20日
  「皇太子の奏上」

692(持統6)年9月9日
 班田役人を四畿に派遣
693(持統7)2月14日
 「品部廃止の詔」

694(持統8)年12月6日
 藤原京に遷都
697(持統11)年8月1日
 持統、文武に譲位

 ところが(6)の詔勅の発布は「東門」で行われているから藤原宮完成前の時期は不適切、という指摘を受け、上の案は一応ご破算にした。しかし今はすべてをご破算にする必要はなかったと思っている。もちろん上の表は「孝徳紀」での順序通りということに縛られているので全面的に再考する必要があるが、「東門」が理由で不適切なのは(6)だけである。「薄葬令」が持統紀には移動できないことは確かだと考えていたので「或いは」と思っていたのだが、「詔勅群、一括」問題での古田さんの次の指摘が「目から鱗」であった。

『その時期は決して「大化2年」という一時期について「九州から近畿へ」とスライドさせたものではない。ひろく、「7世紀初頭から7世紀末まで」の詔勅群を一括してここに「類集」していたのである。』

 ならば復元する場合も「ひろく」もっとも適切な時期を探すべきなのだろう。そういえば正木さんは(8)(9)の実年を文武2年に求めていた。(5)については正木さんは九州年号大化2年だが、古田さんはONライン(701年)としている。気付くのが遅いと言われそうだが、お二人とも「ひろく」考えていたのだった。
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