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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(203)

「天武紀・持統紀」(118)


「大化改新」の真相(40)
古田説の検討(9):「東国」問題(6)


 私がまとめた古田説の論旨を再度掲載する。

①「畿内國」が原点なら「東国」以外にも同類の表現(西・南・北国)が必要だ。
②「畿内より始めて、四方の國」という文言は「東国=四方の国」という概念をしめしている。
①・②から、これらの詔勅の原点は九州である、と結論している。

 ①はヤマト王権が発した詔勅ならば「東国」以外に、特に中国や四国や九州を指す「西国」が必要だと言っている。では、『日本書紀』が「西国」という概念をどのように用いているのか調べてみよう。2件あった。

624(推古32)年4月3日条。
……是に、百済の觀勒僧、表(ふみ)上りて言さく、「夫れ佛法、西國より漢に至りて、三百歳を經て、乃ち傳へて百済國に至りて、……

 この「西国」は明らかにインドであり対象外だった。

 次は「天武紀」に飛ぶが、「東国」調べのときに保留していた記事があった。原文は「以東國」なので「東国を以て」と読むのかと思ったが、読下し文は「「以東(ひがしのかた)の國」と訓じている。次のようである。

676(天武5)年4月14日
辛亥に、勅すらく、「諸王・諸臣の給はれる封戸(へひと)の税(おほちから)は、以西(にしのかた)の國を除(や)めて、相易(か)へて以東(ひがしのかた)の國に給へ。又外國人、進仕(つか)へまつらむと欲(おも)ふ者は、臣・連・伴造の子、及び國造の子をば聽せ。唯し以下の庶人と錐も、其の才能長(いさを)しきのみは亦聽せ」とのたまふ。

 「以+西(東)」で「にし(ひがし)のかた」と訓じているが、現代語風に音読みすれば「いせい」「いとう」であり、「西の方の国」・「東の方の国」という意味である。「以西」があるので基準点は近畿と考えられるが、676(天武5)年という時点でヤマト王権の支配力がどこまで伸張していたのか確定できないのだから、それぞれがどこまでの範囲を表すかは分からない。「西国」には少なくとも九州はまだ入っていないと考えてよいだろう。ともあれ、「東国」・「西国」という熟語での「西の方の国」・「東の方の国」ではないが、「西の方の国」・「東の方の国」とペアで使われている。ただし、古田さんが主張しているような、「東国」があれば「西国」も必要、という(言い換えれば「四方の国」)という)意の使われ方ではない。

 ところで、676(天武5)年という時点の記事ということで上のように考えたが、もしかするとこの記事は「大化改新」関連の記事ではないかと思った。つまりこの条はこの時点でヤマト王権に帰順した「西国」の土地の公地公民化の詔勅である。この場合は「封戸」を没収したが、代わりに別の「封戸」を与えている。またまた寄り道になるが、ちょっと調べてみる。「封戸の税」についての〈大系〉の頭注を読んでみよう。

「食封として賜わった戸からの収益。大宝・養老令制では調庸の全額と田租の二分の一が封主の収益となる。封主と封民との間の部曲制的な関係を、土地を変えることによって払拭しょうとしたのであろう。こののち8年4月・9年4月・11年3月に、食封制に関する施策があいついで実施された。」

 「封戸」という用語はこの条だけにしか使われていない。「食封」の方は、これも「へひと」と訓じられていて、初出はあの「改新の詔」(其の一)である。次のようであった。

其の一に曰はく、昔在(むかし)の天皇等(すめらみことたち)の立てたまへる子代の民(おほみたから)・處處(ところどころ)の屯倉、及び,別(こと)には臣・連・伴造・國造・村首(むらのおびと)の所有(たも)てる部曲(かき)の民、處處の田莊(たどころ)を罷(や)めよ。仍りて食封を大夫より以上に賜ふこと、各(おのおの)差(しな)有らむ。

 この後「食封」は、「斉明紀」・「天智紀」にはなく、「天武紀 下」・「持統紀」に頻出する。「天武紀」の「食封」記事は次の通りである。

676(天武5)年8月2日
八月の丙申の朔丁酉に、親王より以下、小錦より以上の大夫、及び皇女・姫王、内命婦等に、食封を給ふこと、各差有り。

 頭注は「大宝・養老令の規定では位封を支給されるのは三位以上であるが、ここではそれよりもはるかに支給対象が広い。」と書いている。大宝令に集約されるまでの一つの過程だったようだ。

679(天武8)年4月5日
夏四月の辛亥の朔乙卯に、詔して曰はく、「諸の食封有る寺の所由(よし)を商量(はか)りて、而可加(ま)すべきは加し、除(や)むべきは除めよ。」とのたまふ。
是の日に、諸寺の名を定む。


680(天武9)年4月
是の月に、勅したまはく、「凡そ諸寺は、今より以後、國の大寺たるもの二三を除きて、以外(このほか)は官司治むること莫(なか)れ。唯し其の食封有らむ者は、先後(さきのち)三十年を限れ。若し年を數へむに三十に滿たば、除めよ。且(また)以爲(おも)ふに、飛鳥寺は司の治に關るべからじ。然も元より大寺として、官司恆(つね)に治めき。復(また)嘗(かつ)て有功(たすか)れたり。是を以て、猶し官治むる例(かぎり)に入れよ」とのたまふ。

この条の頭注
「 諸寺のうち食封を所有しているものは、賜封以後三十年間だけその所有を認めるの意。この規定は大宝元年の大宝令施行まで継続し、以後は五年の制に改められた。」

682(天武11)年3月28日
是の日に、詔して曰はく、「親王より以下、諸臣に至るまでに、給はりし食封、皆止(や)めて、更(また)公(おほやけ)に返せ」とのたまふ。

この条の頭注
「食封制そのものの廃止ではなく、新位階制と関連する新たな基準による食封制実施のため、宮人の食封を一応収公したのであろう。」

 新位階制定は685(天武14)年正月だから間が空きすぎるきらいがあるが、記事が「持統紀」あたりからの流用でないとすれば頭注のような解釈しかないだろう。

 ここで一つ考え直さなければならないことが出てきた。私は九州王朝からヤマト王権への権力移行は持統の頃から始まったと考えていたが、もしかすると天武の頃からかも知れない。「改新の詔」関連記事を元の位置に復元する問題はいずれ再考するつもりでいる。その時にはこのことも念頭において検討したい。

 元に戻る。ついでなので「南国」・「北国」の調べてみた。

 「南国」が単独で使われているのは一例だけ。「仲哀紀」2年3月15日条だ。冒頭だけ掲載する。

三月の癸丑の朔丁卯に、天皇、南國を巡狩す。

 もうずいぶん以前に取り上げた盗用記事である。九州王朝の大王・前つ君による九州一円平定説話を二つに分けて、それぞれ景行紀と仲哀紀に分配・配置したものだった。つまりここの「南国」は九州の「南の方の国」を指す。(「真説・古代史(1)」「真説・古代史(2)」を参照してください。)

 あと一つ、「南国」と「北国」がペアで使われている例がある。

662(天智元年4月条
夏四月に、鼠、馬の尾に産(こう)む。釋道顯占ひて曰はく、「北國の人、南國に附かむとす。蓋し高麗破れて、日本に屬かむか」といふ。

 この年、高句麗は唐・新羅連合軍の攻撃を受けていた。つまり「北国=高句麗」・「南国=倭国」ということになる。

 以上、「北国」や「南国」が倭国内の概念として使われた例は『日本書紀』にはない。
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