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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(202)

「天武紀・持統紀」(117)


「大化改新」の真相(39)
古田説の検討(8):「東国」問題(5)


 次の「東国」は「神功紀」摂政元年2月条。麛坂(かごさか)王・忍熊(おしくま)王の謀反説話に出てくる。

……是に、犬上君の祖(おや)倉見別と吉師の祖五十狭茅(いさち)宿禰と、共に麛坂王に隷(つ)きぬ。因りて、將軍として東國の兵を興(おこ)さしむ。……

 これは明らかにヤマト王権自前の説話である。この説話の舞台は播磨・淡路島・紀・攝津・菟道(うぢ)などである。ここの「東国」は「あづまの国」ではなく、「天武紀 上」(壬申の乱)の場合と同様「東の方の国」である。

 次の「東国」はずっと飛んで592(崇峻5)年11月3日条の馬子による崇峻謀殺記事である。

十一月の癸卯の朔乙巳に馬子宿禰、群臣を詐(かす)めて曰はく、「今日、東國(あづま)の調(みつき)を進(たてまつ)る」といふ。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたひこま)をして、天皇を弑(し)せまつらしむ。

 ここの「東国」の訓はどういうわけか「あづま」だけ。「東の方の国」という意か。〈大系〉の頭注は
「五世紀以降、皇室の東国経営が進展したといわれる。」
と書いているが、「東国」を「あづまの国」と解しているのなら、これはウソになる。「あづまの国」は倭国の傘下にあるとはいえ、れっきとした一部族国家である。その「あづまの国」が「調を進る」としたら、その相手は九州王朝だろう。ここの「東国」も「天武紀 上」(壬申の乱)の「東国」と同様、せいぜい伊勢・伊賀・美濃あたりを指していると思われる。

 次は643(皇極2)11月1日条。蘇我入鹿に襲われた山背大兄王に三輪文屋君が一度退いて体勢を立て直すことを進めるくだりに出てくる。

……三輪文屋君、進みて勧(すす)めまつりて曰さく、「請ふ、深草屯倉に移(ゆ)向きて、玆(ここ)より馬に乗りて、東國(あづまのくに)に詣(いた)りて、乳部(みぶ)を以て本(もと)として、師(いくさ)を興して還りて戦はむ。其の勝たむこと必(かなら)じ」といふ。……

 深草(山城国)に移って、そこから東国に行き、乳部を本拠とするように勧めている。

 ここの「東国」も実におかしい。「乳部」は皇極元年是歳条では「上宮(かみつみや)の乳部」となっている。「上宮」は聖徳太子が居住していた宮とされている。〈大系〉では桜井市上之宮に比定している。そこは明日香村から南東方向に十数kmほどの位置にある。これを「東国」と呼んでいることになる。いずれにしても「あづまの国」ではなく「東の方の国」という意にしかならない。

 「井の中」ではちっともおかしいとは思っていないようだ。頭注は次のように書いている。

「東国は未開の広野であって、皇室との物質的精神的な関係が古くから深かった。畿内で志を失った皇族は、つねに東国に行って再挙を図ろうとした。」

 珍しく歯切れよく断言している。東国に対する偏見といい、東国までヤマト王権の支配領域であったと言うなど、ヤマト王権一元主義の面目(?)躍如といった文章だ。

 次は644(皇極3)年7月条。「皇極紀」は蘇我氏をめぐる権力闘争記事が大半を占めている。その中で極めて異質の説話が混入しているといった感じだ。怪しげな新興宗教の教祖が懲らしめられるという説話。

秋七月に、東國(あづまのくに)の不盡河(ふじのか)の邊(ほとり)の人大生部多(おほふべのおほ)、蟲祭ることを村里(むらさと)の人に勧めて曰はく、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と壽とを致す」といふ。……

 富士川のほとりだから、ここの「東国」は疑問の余地がない。私は『「東国」問題(3)』で次のように書いた。

「あづまの国」はもともと「上野・下野」あたりを指す概念だった。それが時代が降るに従って「常陸・武蔵・上総・下総・甲斐・駿河・伊豆・相模」などが加えられながら、概念が拡大されていったと思われる。

 ここで始めて拡大概念としての「あずまの国」が出てきたわけだ。

 さて、次が問題の「孝徳紀」の三つの「東国」である。最終的にはこの記事を検討することになる。

 「孝徳紀」の次は「天智紀」に飛ぶ。

666年(天智5)年是冬条
是の冬に、京都(みやこ)の鼠、近江に向きて移る。百濟の男女二千餘人を似て、東國に居(お)く。……

 ここの「東国」は拡大概念としての「あずまの国」ではあまりにも漠然としすぎる。駿河国とか常陸国とが限定的にいうべきところだ。つまりこの場合は狭義の「あづま国(上野・下野)」ではないだろうか。

 次は「天武紀」だが、「壬申の乱」がらみの「東国」は省く。

675(天武4)年正月17日
是の日に、大倭國(やまとのくに)、瑞鶏を貢れり。東國(あづまのくに)、白鷹を貢れり。近江國、白鵄を貢れり。

 〈大系〉の頭注はこの「東国」を「関東地方の総称」としている。大倭国・東国・近江国と併記されているのだから狭義の「あずま国」と考えるのが順当ではないだろうか。頭注はこのことに気付いているようで「東国惣領からの献上とする説もある」と付記している。この説は根拠のないただの推量でしかない。

 次は676(天武5)4月22日条。

己未に、美濃國司に詔して曰はく、「礪杵郡(ときのこほり)に在(はべ)る紀臣訶佐麻呂の子をば東國(あづまのくに)に遷して、即ち其の國の百姓とせよ」とのたまふ。

 「礪杵郡」は現在の岐阜県土岐郡。従って美濃国司に対する詔勅であるのは当然だ。しかし、ここでも頭注は「東国」を「関東地方の総称」といているが、流罪先をはっきりと指示しない詔勅などありえるだろうか。ここの「東国」の狭義の「あずまの国」だろう。

 最後の「東国」は685(天武14)年10月17日条である。

伊勢王等、亦東國(あづまのくに)に向(まか)る。因りて衣袴を賜ふ。

 この記事は正木さんが「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」で論証しているように、九州王朝による評制を東国全体に施行するために行った伊勢王の活躍を記録した記事の一つを盗用したものである。従ってここの「東国」は広義の「あづまの国」である。

 以上まとめると、「あづまの国」の初源である「上野国・下野国」(あるいは上野国だけかもしれない)を指す場合と、時代とともに範囲が拡大していった広義の「東国」を指す場合がある。それに加えて厄介なことに漠然と「東の方の国」を指す場合がある。このケースははっきりとヤマト王権の自前のものと分かる記事に多く、その範囲は近畿の東方近辺を指している。

 長々と調べてきたが結局は、それぞれの記事の内容と性質(記事が置かれた位置とその前後の記事との関係)によって検討するほかない、という当たり前と言えば当たり前の結論になった。しかし、私にとってはいろいろと学ぶところがあり、決して無駄ではなかった。
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