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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(200)

「天武紀・持統紀」(115)


「大化改新」の真相(37)
番外編:「東の夷の中」の日高見国


 景行27年2月12日条に出てくる「東の夷の中」の日高見国について、〈大系〉の頭注は次のように述べている。

「東北、北上川流域地方を指すか。→補注7-二四。」

 そこで補注7-二四を読んでみた。

 日高見国の称は、書紀では景行二十七年二月条・同四十年条の二ヶ所に見え、蝦夷の住地で、陸奥の某所と解せられる。しかし、延喜祝詞式、大祓詞・遷却崇神祭詞には、降臨した皇孫瓊瓊杵尊が、四方の国のなかで「大倭日高見之国」を安国と定めたとあって、大和国を修飾もしくは限定した語として用いられている。また、釈紀所引矢田部公望私記にひく常陸風土記、信太郡条には、「此地本日高見国云々」とあり、万葉集註釈にひく常陸風土記、同郡条にも「日高見国」の称があって、常陸国信太郡の古名としても用いられている。

 ヒタカミの語義については、釈紀にひく矢田部公望私記に「四望高遠之地」、記伝に「何国にまれ、広く平なる地」とし、通釈にひく鈴木重胤説も、四方みな打晴れて小高き所、朝日より夕日迄、天津日の甚能く見ゆる所、であるとする。しかし、おそらくそれは、松村武雄がいうように、本来は「日つ上」「日の上」の意で、太陽の出る方向、すなわち東方の地をいみする語であったと考えられる。津田左右吉は、「大倭日高見之国」の称は、日神の後裔たる天皇の都の地としての美称とするが、これも、天孫の降臨した日向からみて東方の、大和の国にたいする美称とみるのが当っていよう。

 考え得るあらゆる文献を渉猟する知識には感服する。「釈紀所引矢田部公望私記」というわけの分らない書名があるが「矢田部公望の私記を引用している釈日本紀」という意味だろうか。もしそうだとすると「釈日本紀」も「万葉集註釈」も鎌倉末期成立の注釈書である。この後代の注釈書が引用している「常陸風土記、信太郡条」に「日高見国」が出てくると言うが、現存する「常陸風土記、信太郡条」には「日高見国」は全くない。このような後代の注釈書をどこまで信用してよいのか、私には判断ができないが、「常陸国=日高見国」という後代の注釈書を鵜呑みにした説を認めるわけにはいかない。ただし、常陸国を日高見国の一部とみなした時代があった可能性はある。

 「六月晦大祓」のような神武東侵よりはるかに古い農耕初期(弥生前期 天孫降臨の時代)のものと考えられる祝詞に出てくる「大倭」を何の検証もなく「大和」とし、日高見国を「大和国を修飾もしくは限定した語」としている。そして、「「六月晦大祓」の「日高見国」と「景行紀」の「日高見国」を同一視している。その理路は次のようである。

 「日高見国」の称は、西方から東方への進出の限端を示すもので、本来特定の地に固定せず、中央政府の支配権の拡大にともなって東進したものと考えられる。喜田貞吉のいうように、常陸国信太郡を日高見国というのは、その初期の名称であろう。蝦夷の任地としての日高見国については、津田左右吉のようにこれをたんなる空想上の名称とみなす説もあるが、やはりこれも、ある時期における実地名であったと考えられる。三代実録、貞観元年五月条に陸奥国の「日高見水神」がみえ、これは延喜神名式、陸奥国桃生部の日高見神社にあたると考えられるが、吉田東伍はこれによって、今日の北上川を日高見国の遺称とし、景行紀の日高見国とは、北上川流域の広土をさすものとしている。また喜田貞吉は、日本後紀、延暦十六年二月条に載せる続日本紀完成の上表文に、桓武天皇の徳をたたえ、「遂使仁被渤海之北、貊種帰心、威振日河之東、毛狄屏上レ息」とある「日河」も、日高見川=北上川とみるのがふさわしいとしている。景行紀の蝦夷に関する記載が、斉明朝ごろの東北支配の実情を反映するものとするならば、そこにみえる日高見国とは、やはり多賀城の北方、北上川下流の地域とみるのがもっとも妥当であろう。

 「景行紀の蝦夷に関する記載が、斉明朝ごろの東北支配の実情を反映するものとするならば」と、「景行紀」の記事は「斉明紀」の記事をもとに「造作」されたものと考えている。もしもその「造作説」が正しいとすると、「ある時期における実地名」のある時期とは「斉明朝ごろ」ということにある。「六月晦大祓」と矛盾する。それにしても多賀城を持ち出すとは唐突である。場所比定の起点として多賀城を用いてわるいわけではないが、8世紀に設置された多賀城まで登場させる必要はあるまい。

 ともあれ、「日高見国」という国名は「西方から東方への進出の限端を示すもの」という理屈を提示している。「日高見国」は大和から始まって常陸国信太郡まで東進して、さらに「斉明朝ごろ」に「東の夷の中」にまで到ったというわけだ。この理屈だと、尾張・三河・遠江…‥などなどにも「日高見国」という呼称の痕跡がなければなるまい。あるはずがない。

 そして、「日高見」の語源を「太陽の出る方向、すなわち東方の地をいみする語」と言っておきながら、大和国から始まって東進していったはずの「日高見」の語源を陸奥のなかに捜し求めている。事の後先が逆立ちしている。この逆立ちした理論の結果が「日高見川=北上川」つまり「日高見=北上」という語呂合わせのような比定になった。

 以上、「井の中」では諸説入り乱れて混沌としている。「定説」はないようだ。

 ふと思いついて、『日本古代地名辞典』(吉田茂樹編著)を引いてみた。次のようになっている。

「ひたかみ【日高見】 『景行紀』27年に「日高見国」で初見し、『三代』貞観元年(859)には「日高見水神」があって、日高見水神が北上川の水神とみられるところから、当時は蝦夷の住む蕃地(ばんち)であって、宮城県北部から岩手県方面を指した広域の呼称と思われる。「へたかみ(隔上)」の意かと思われ、道奥(みちのく)国の離れた上の地域をいうのかも知れない。」

 ここでは「六月晦大祓」はまったく考慮されていない。「へたかみ(隔上)」語源説にも納得できない。

 それでは「東の夷の中」の「日高見国」は何処で、なぜ筑紫の「日高見国」と同じ表記が使われているのか。この問題を「多元史観」の立場ではどのように論じているだろうか。残念ながらまだきちんと論じている人はいないようだ。いないのなら自身でやればよいのだろうが、私の手には余る。

 ただ手掛かりはある。『東日流外三郡誌』である。幸い私が利用している図書館に『東日流外三郡誌』があったので、「第一巻 古代篇」を借りて来た。見出しに「日高見国」を含む記事を拾い出すと次のようである。

①日高見国東日流古代抄
②日高見国実史雑抄
③日高見国日高国解書
④日高見国国土族抄
⑤日高見国抄 一巻
⑥日高見抄 二巻
⑦日高見国城柵
⑧日高見国道しるべ
⑨日高見国大要
⑩日高見国略記

 『東日流外三郡誌』の記事から史実を取り出すのは相当に困難な作業だと思う。それ相応の論証が必要だが、ここでは一つの仮説として、『東日流外三郡誌』が描く「日高見国」を考えてみる。

 次は①の末尾の一節である。

 邪馬台国にては、日向族に逐電せる主領多く、残るは安日彦の一族にして日向族に応戦せるも敗れ、故地を棄て東国に移るも迫手やまざるに、東北地深く脱却なし、日高見国東日流に落着せり。

 耶馬台族の落着は、狩猟漁捗の先住民なる地於に侵駐せず、葦原なる東日流大里を拓して田畑を耕作なして食をまかなふ故に、先住居住民なる阿曽部族、津保化族ら冬間の飢窮を救はれ、施農に習へて民族は融合せり。

 また是れに、支那及び韓民の大挙して流着なし、正に民族混血融合なし荒羽吐族と称せる国造り修成を司どり、その治政は一族皆兵、地権階級皆無にして、衣食住平等なる配受をなし、一族に貧しく飢ゆる者なく相務めたり。私物なく一食一汁たりとも民族共労奉公に在りて、奥州諸地の民は是に賛同なし、大勢力を以て栄えたり。

 寛政五年十月    秋田孝季


 秋田孝季は「邪馬台国=大和」、「日向族=神武」と考えているが、古田さんが解明したように、「邪馬台国=筑紫」であり「日向族=ニニギ」である。天孫降臨したニニギに破れて安日彦一族(耶馬台族)は日高見国東日流にまで落ち延びた。そして先住民(阿曽部族、津保化族)や渡来人(支那及び韓民)と混血融合し、荒羽吐族を名乗り、日高見国とした。これが初源の日高見国である。 日高見国 (「邪馬台国王之事」より転載)

 私は「「斉明紀」の北方遠征(4)」で「筑紫の安日(あび)彦・長髄(ながすね)彦兄弟の一族が先住民の阿蘇部・津保化族を打ち破って東北の支配者となった」と書いたが、上の引用文によれば平和的に融合したようだ。

 次に『東日流外三郡誌』は「日高見」という国名の由来を次のように書いている。

日高見国日高国解書

 奥州、奥羽を日高見国と称し、渡島を日高国と号したるは竹内宿禰なり。

 日高見国とは日輪の早く昇るる意にして、日出づる処は、日高国(渡島)、東日流国(ツカル)、日高見国(奥州奥羽)の順称なり。奥州、奥羽の地は住民永く朝廷に従ふなく亦、幕令にも従ふこと難し。

 是れ阿曽部、津保化の地民、安倍一族に化縁せしむ故他信せず。

 侵す者を敵とし、捕はるとも心不動にして遺恨を忘れざる故なり。

 依て、倭人は鬼門に日高見国ありとぞ、住むる民を蝦夷とぞ曰ふなり。

  正徳元年 蓮華堂にて 導念房


 この命名譚も私にとっては説得力はない。「大嘗祭とは何か(4)」で古田さんの解釈はそれなりに説得力がある。しかし次の点で「?」が出てくる。

 古田さんは結論として「六月晦大祓」の日高見国を『本来対馬北部を呼ぶ国名だったものが「天孫降臨」後に「筑紫を中心とする地域」の名として使われるようになった』と分析した。もしそうだとすると安日彦一族は落ち延びた先で侵略してきた敵の国名を踏襲したことになる。そのような命名はあり得ないと思う。

 安日彦一族は東日流に稲作技術をもたらしている。そうすると安日彦一族は、縄文水田・弥生初期水田があった板付辺の民と考えられる。命名の意味は判然としないが、筑紫の「日高見国」も安日彦一族の国名だったのではないだろうか。東日流でも故郷と同じ国名を用いたのだ。

 「大嘗祭とは何か(1)」で「支配部族の共同幻想と被支配部族の共同幻想の巧みな交換が行われている」という吉本理論を紹介した。それと同じように、「六月晦大祓」の「大倭日高見国」は支配部族(ニニギ)が放逐された部族(安日彦)の国名を剽窃したのではないだろうか。
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