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539 新新宗教批判(6)
道徳宗教
2006年6月30日(金)


 宗教の信仰者たちは私にはバカバカしいとしか思えないような教祖の描く 世界図式や天地創造説を本当に信じているのだろうか、多くの信者はその 辺のことは本当はどうでもよいよ思っているのではないかという疑問がいつも 残る。
 天理教の場合、その教義のキーワード「陽気ぐらし」「出直し」「いんねん」 「もらいうけ」などに信者一人一人がそれぞれの人生に裏打ちされた違った思 い込みをこめることによってその信仰が成り立っているのではないか。そして 実際の生活おいては次のような通俗的な道徳説教をよりどころにしているだけ のように思える。

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 人は、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく、自分一人の苦楽や利害に とらわれがちになります。このような自己中心的な心づかいは本人にとっては都 合がいいかもしれませんが、まわりの人々、また世の中の迷惑、苦悩の原因とな ります。人間は、兄弟のように仲良く助け合って暮らすのが本来の姿ですから、 私たちお互いは自己中心的な心づかいを慎むようにしなくてはなりません。親神 は、このような心づかいを、「ほこり」にたとえて諭されています。

 「ほこり」は、吹けば飛ぶほど些細なものです。早めに掃除さえすれば、たや すくキレイに払えますが、油断をすれば、いつしか、うずだかく積りかさなり、 遂には、シミのようにこびりつき、掃いても拭いても、取り除きにくくなるもの でもあります。  心づかいも同じです。ちょっとちょっとの「ほこり」の心づかいが知らない 間に心の習慣、つまりくせ、性分になってしまうのです。こうなる前に日頃から 慎んだ心づかいを心掛けることが大切なのです。

 「ほこり」の心づかいを反省する目安として、をしい、ほしい、にくい、かわ い、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げられています。又、うそと ついしよ(心にもないおべっかいをつかうこと)も「ほこり」になります。

おしい
人のために心をつかったり、体を使うこと惜しむ心づかい。物を貸したり、お金 を払うことを惜しいと思い、また、手助けをするための労を惜しむなど、すべて に出し惜しみ、骨惜しみすること。
ほしい
必要なものは与えられているのに、満足しないで、もっとほしいと思う心づか い。人が持っているものを見てはほしいと思い、働かないのに見返りをもとめ たがり、むやみにほしがること。
にくい
理由もないのに、自分の気に入らないからといって人を嫌ったり、相手に過ち があった、失礼だといっては人をにくんだり、すべてに自分のわがまま・気ま まから人をにくむ心づかい。
かわい
かたよった愛情をもったり、自分さえよければ他人はどうでもよいと思う心づ かい。分けへだてをして、特別 な人だけに親切にしたり、自分やわが子、わが 家のことばかり考える利己心。
うらみ
じゃまされたといって人をうらみ、不親切だといって人をうらむ。自分の努力 が足らないことを反省しないで相手をうらむこと。また、他人の幸福をねたむ 心づかい。
はらだち
人が、気に入らぬことを言ったといって腹を立て、おもしろくないからといっ て、つまらないことに腹を立てる心づかい。広く大きな心をもたず、人を許せ ることのない気短な心。
よく
自分中心で、なんでも自分のものとしようとする心づかい。人の目をだまして も、取れるだけ取りたい、無理なもうけを得たいなどと、あるが上にもいくら でも取りこむような心づかい。
こうまん
知らないことも知っているふりをしたり、自分は人よりも偉いいとうぬ ぼれ たり、自分の意見はどんなことがあっても通すが人の意見はきかず、人の欠点 をあばこうとしたりする心づかい。

その他に 「うそ」と「ついしょ」というほこりの心づかいがあります。とも に慎まなければなりません。
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 だれもが実生活のさまざまな場面において心の中で決断したり恥じたり居直ったり しながら格闘している徳目ではある。しかし、現実の悲惨な生活に目をつぶる ことによって「陽気暮らし」が呼び寄せられたように、現実の社会的経済的諸 関係のまがまがしい実態に目をつぶることによってしかこのような徳目の ご託宣はなしえない。
 このような宗教を「道徳宗教」と呼ぶとすれば、もう一つの典型的なタイプ は「世直し宗教」と言えよう。

 論考「新興宗教について」の結語部分で、吉本さん次のように書いている。

 新興宗教(土俗宗教)とよびうるものは、じつさいに教祖の数だけある。別言 すれば、入眠体験を宗教化しえた<女性>の数だけあるはずだが、そこにおのず から教義としての高低と強弱があるのは、その教祖たる<女性>の入眠体験に、 どれだけの生活思想的な根拠が存在するかに左右されるといってよい。これは、 あらゆる宗教が、教祖の創りあげた馬鹿らしい神話と教義に理論的な意味をあた えたにすぎないか、あるいは大和教(天皇制)のように現実社会の政治的支配 に乗りだして成功したかに依存しているとしても、それとは無関係な本質的な 問題であるといっていい。

(中略)

 あらゆる宗教ははじめに荒唐無稽である。あらゆる国家が、はじめに荒唐無稽 であるように。しかしこの荒唐無稽さは、いつも信仰者の恣意 的な解釈をゆるすようなあいまい(ヽヽヽヽ)さと多 義性をもっている。そしてこのあいまい(ヽヽヽヽ) さと多義性によって、宗教や国家はいつも知的な理念を附与することができる 伸縮自在な容器に転化するといっていい。大はヘーゲルのような優れた哲学者か ら、小はどこにでもころがっている亜インテリにいたるまで、この容器にいわば 美酒を盛りこもうと志向することができることは確かである。しかし、宗教や国 家はヘーゲルが試みたように、一般理念のひとつの形態というところまで普遍化 して理解しえないかぎり、いつも猛毒と蒙昧を含むよりほかない。このばあいに は、宗教や国家はその創始者(たち)の生活思想の質と、現実の政治的あるいは 制度的権力としての質が問われる。教祖や創始者たちの生理学的な病状よりも、 思想としての本質がものを言うのはこのかぎりにおいてである。

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