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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(197)

「天武紀・持統紀」(112)


「大化改新」の真相(34)
古田説の検討(5):「東国」問題(2)


 「あづまの国」の範囲は時代につれて変わっていった。巻18・4094番は「鶏が鳴く 東の國>の 陸奥の」と詠っている。私はこれを「東の方の国の陸奥」ではなく「あづまの国の中の陸奥」と解した。749(天平21)年段階では陸奥国は「あづまの国」の一つであったが、701年以前では陸奥国は「あづまの国」に入ってはいなかった。『日本書紀』では陸奥は「陸奥の蝦夷」という表記で現れている。『続日本紀』を見ると、697(文武元)年10月19日と698(文武2)年10月23日に陸奥からの貢献記事があるが、そこでは「陸奥の蝦夷」と『日本書紀』と同じ表記になっている。「陸奥国」という表記の初出は702(大宝2)4月15日条である。

 「東国」概念の変遷を調べてみよう。『古事記』・『日本書紀』での「東国」の使われ方を調べてみる。

『古事記』

 『古事記』では「あづま」には「東」のほかに「阿豆麻」という表記がある。

 「東国」は一例だけある。「小碓命(倭建 やまとたける)の東伐」の段である。

故、尾張國に到りて、尾張國の造の祖、美夜受(みやず)比賣の家に入り坐しき。乃ち婚(まぐは)ひせむと思ほししかども、亦還り上らむ時に婚ひせむと思ほして、期(ちぎ)り定めで東の國に幸でまして、悉に山河の荒ぶる神、及(また)伏(まつろ)はぬ人等を言向け和平(やは)したまひき。故爾に相武(さがむの)国に到りましし時、其の國の造詐(いつは)りて白ししく、……

 これによると、当然のことながら尾張国は「あづまの国」には入らない。相模国は「あづまの国」の一つとして記されている。

 同じ「小碓命の東伐」段の地名説話で「阿豆麻」が使われている。

其れより入り幸(い)でまして、悉に荒夫琉(あらぶる)蝦夷等(えみしども)を言向(ことむ)け、亦山河の荒ぶる神等を平和(やは)して、還り上り幸でます時、足柄の坂本に到りて、御粮(みかれい)食(を)す處に、其の坂の神、白き鹿(か)に化(な)りて來立(きた)ちき。爾に即ち其の咋(く)ひ遺(のこ)したまひし蒜(ひる)の片端を以ちて、待ち打ちたまへば、其の目に中(あた)りて乃ち打ち殺したまひき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎かして、「阿豆麻波夜(あづまはや)。〈阿より下の五字は音を以ゐよ〉」と詔云(の)りたまひき。故、其の國を號(なづ)けて阿豆麻と謂ふ。

 「足柄」は巻9・1800番にもあった。「足柄」は「あづまの国」内である。

 「阿豆麻」はもう一例、「あづまの国」という意味で「雄略記」の歌謡の中で使われている。

 ここで、古田さんの講演録「神と人麻呂の運命3」(『古代に真実を求めて 第五集』所収 HP「新・古代学の扉」で読めます。)から、上の地名説話に関する部分を紹介しよう。

 「歴史は足にて知るべきものなり」(秋田孝季の言葉)をモットーとする古田さんは、上記の説話に対する疑問を解くべく、実際に碓井峠に登る。(『日本書紀』では「足柄の坂本」を「碓日坂(うすひのさか)」としている。古田さんは『日本書紀』の記事をもとに論じている。それで「碓日坂」の現在地名「碓井峠」(碓氷峠と同じ)を用いている。)

 有名な「吾嬬アズマはや」の話。碓井峠。『古事記』ではヤマトタケルが浦賀水道を視て、嘆いた。この話があります。この話は、近畿では誰も不思議には思わないが、関東では必ず質問がでる。あの話がおかしい。なぜかと言いますと、だいたい碓井峠から、浦賀水道や東京湾はぜんぜん見えない。行ってみた。予想通り。地図で見ても、見えないと考えていて、行ってみて予想通りやはり見えない。それ以上におかしいのは、左手の下方にアズマがある。東京湾の方向を見て、「吾妻アズマはや」と言うわけです。言って悪いことはないが、違う方向にアズマがある。90度違った方向に「吾妻アズマ」が密集している。変である。やはり現地に行かなければならない。吾妻町へ下りて泊まりました。その時は、ひじょうに調子よく、行けばすぐに答が分かった。土地の人に聞くと、「我々が碓井峠と呼んでいるのは、列車が通る碓井峠や、その北の元の碓井峠ではありません。今の鳥居峠を指して呼んでいます。」と言われた。吾妻川に沿って信州に上がるところに鳥居峠がある。それを指して、われわれは「碓井うすい峠」と呼んでいます。そのように言われた。

 ここから先はわたしの考え方です。推定です。男の神様が、信州へ行く。何を目的に行ったのか。信州は縄文時代はメッカです。諏訪の阿久遺跡(縄文時代後半)から有名な配列された石の遺構(環状集石群)がでて、周辺から集まっていた痕跡がでてきた。当時は遺跡ではない。あの遺跡に神様がお集まりになったという神話が存在していても不思議ではない。ですから鳥居峠に来て振り返る。目の下に、吾妻川があり、吾妻(アズマ)がある。吾妻姫が祭られています。ここから信州に下れば、吾妻(アズマ)は見えない。ですから、そこで「アズマはや」とつぶやいてもなんの不思議もない。ですからピタリと合います。

 『日本書紀』の日本武尊(ヤマトタケル)なら、奥さんはたくさんいる。「弟橘おとたちばな媛はや」と言わなければ、「吾嬬はや」では、どの奥さんか分からない。へ理屈を言っているようですが、そのような疑問がありました。しかし今のように考えれば何の疑問もない。ですから明らかに、現地の縄文神話を切り取って張り付けている。

 ところで、『古事記』本文にある「あづまの国」は上に挙げたものだけだが、「序文」に「東国」がある。「壬申の乱」を素描しているくだりで使われてる。『日本書紀』の「壬申の乱(天武紀 上)」には「東国」が頻出する。具体的な地名としては美濃・東海・東山(どこだか不明)が出ている。東海の一部が「あづまの国」にはいるが美濃は「あづまの国」ではない。「壬申の乱」における「東国」は「あづまの国」ではなく明らかに「東の方の国」と言う意だ。

 それでは『日本書紀』の他の「東国」はどうだろうか。『日本書紀』のそれぞれ記事をヤマト王権自前の記事なのか、九州王朝の史書からの盗用記事なのか、判別するのが難しい。もしその判別ができなければ、この種の調査はあまり意味がないかも知れない。しかし、ともかく全てを抽出してみよう。

(次回に続く)
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 コメント
この記事へのコメント
気付きと感想。
いよいよ大事な所に差し掛かって参りましたが,

残念な事に,
“あづま”と“あずま”がごっちゃになっています。(これは貴男,それとも古田武彦氏の責任なのでしょうか。)

◆以前木更津にある“きみさらず”タワーに就いての古田氏の話を聞いた事がありますが,滅茶苦茶でした。

『古事記』由来の「君不去」は「君去らず」。

現在の地名表記は「木更津(づ)」で,最後の部分,

所謂“四つ仮名”が異なるのです。

その事を曖昧にしたままで話を進めると,“ハッタリコンクール”のオンパレードになってしまいます。

学問研究には,言葉(日本語)に就いての素養と厳密さが求められるのです。

◆本件に就いては,中小路駿逸氏の
『ヒナとアヅマ~古代文学に見える地理区分について』

という非常に手堅い論が『追手門学院大学文学部紀要』No.34(1998)にあります。

この論考を無視,或いは気付かないままで論を進めるのはナンセンスです。

併せ,同氏の
「『日本書紀』の書名の「書」の字について」『追手門学院大学文学部紀要』(1988)
を読まれる事をお薦めします。
2011/07/18(月) 17:05 | URL | 隠居 #hvIICHmQ[ 編集]
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