2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(196)

「天武紀・持統紀」(112)


「大化改新」の真相(33)
古田説の検討(4):「東国」問題(1)


 古田さんが取り上げているもう一つの問題は(1)「東国国司の発遣」・(8)「東国国司の違反調査」・(9)「朝集使の報告」に現れる「東国」である。次のように論じている。

 大化改新詔の先頭は、「八月の丙申の朔庚子に、東國等の國司を拝す。」からはじまっている。(1)の詔勅である。次いで、(8)も「三月の癸亥の朔甲子に、東國の國司等に詔して曰(のたま)はく」とあり、(9)も「辛巳に、東國の朝集使等に詔して曰はく」となっている。全16回の詔勅中の3回にすぎないとも言えるけれど、他に同類の表現(西・南・北国)はないから、やはり突出した表記(分野)と言わなければならない。

 しかも、(5)には「改新之詔」の言葉と共に、「畿内」の定義が記せられている。

「凡そ畿内は、東は名墾(なばり)の横河より以来、南は紀伊の兄(せの)山より以来、〈此を制(せ)と云ふ。〉西は赤石(あかし)の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内國とす。」

 この「畿内國」を原点として「東国」を指すとすれば、当然「西国」も必要だ。中国や四国や九州である。しかし、それはない。いくら学者が近畿地方より東の、東海、北陸、さらに関東地方の〝重要性″を説いてみても、それらは結局、「西国、指示」の無用性の〝証明″にはなりえないであろう。やはり〝半端″なのである。

 しかも、この「畿内國」定義のすぐあと次の文面がある。
「凡そ畿内より始めて、四方の國に及(いた)るまでに、」
だ。とすれば、ここには、「東国=四方の国」という概念がしめされている。なぜか。その答えは一つ。

「これらの詔勅の〝原文面″における原点は九州である。」

 九州を原点とすれば、この「東国」はすなわち「四方の國」となる。何の問題もないのだ。

 古田さんは詔勅(1)(8)(9)の発令者を九州王朝としている。その発令時については何も書かれていない。もし九州王朝が発令者だとすると、これらの詔勅は国司たちの働きぶりを精査し賞罰するという詔勅だから、九州王朝がまだ権力の中枢にあった時期、つまり「白村江の戦」以前ということになろう。

 さて、この立論は私(たち)が検討してきたことと真っ向から対立している。古田さんの立論を検討してみよう。

 古田説の論旨をまとめると次のようである。

①「畿内國」が原点なら「東国」以外にも同類の表現(西・南・北国)が必要だ。
②「畿内より始めて、四方の國」という文言は「東国=四方の国」という概念をしめしている。
①・②から、これらの詔勅の原点は九州である、と結論している。

 ①から、古田さんが東国を「東方の国」と解していることが分かる。まず、この解釈が妥当かどうか検討してみよう。

 『日本書紀』では「東国」はすべて「あづまのくに」と訓じている。では、720年頃の人々は「東国」という字句から、まずどのような概念を思い起こすだろうか。「東方の国」だろうか、「あづまのくに」だろうか。

 まず、『万葉集』に出てくる東国を調べてみた。『万葉集』では「あづま」の原文表記は「東」のほかに「吾妻」・「吾嬬」・「安豆麻」がある。どの表記でも、「~国」とある場合はすべて「東方の国」ではなく、「あづまのくに」である。以下のようだ。(私自身の学習を兼ねている。読んだことのない歌もあるので、楽しみながら一応全部掲載する。煩わしければ、読み飛ばしてください。)

巻2・199番
 これはあの「「州柔の戦闘」を詠った人麿の歌である。『人麿が「壬申の乱」を詠った?(1)』に全文を掲載しているが、ここではさわりの部分だけを引用する。

……食(を)す國(くに)を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 吾妻(あづま)の國の 御軍士(みいくさ)を 召し給ひて……

巻3・382番/383番
 筑波岳に登りて、丹比真人國人の作る歌一首幷に短歌

鶏が鳴く 東(あづま)の國に 高山は 多(さは)にあれども 朋神(ふらかみ)の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と 神世より 人の言ひ繼ぎ 國見する 筑羽の山を 冬こもり 時じき時と 見ずて行かば まして戀(こほ)しみ 雪消(げ)する 山道すらを なづみぞわが來る

  反歌

筑羽嶺(つくはね)を外(よそ)のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ來(け)るかも


 次は悲しい挽歌。防人だろうか。使役を終えて帰る道すがら行き倒れた人がいる。その死を歎き悲しんでいる。

巻9・1800番
 足柄の坂を過ぎて死(みまか)れる人を見て作る歌一首

小垣内(をかきつ)の 麻を引き干し 妹なねが 作り着せけむ 白栲の 紐をも解かず 一重結ふ 帯を三重結ひ 苦しきに 仕へ奉りて 今だにも 國に罷りて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鳥が鳴く 東の国の 恐(かしこ)きや 神の御坂に 和膚(にきはた)の 衣寒らに ぬばたまの 髪は亂れて 國問へど 國をも告(の)らず 家問へど 家をも言はず 大夫(ますらを)の 行きのまにまに ここに臥(こや)せる


 次はあの有名な「真間の手兒名」説話を詠った歌。

巻9・1807番/1808番
 勝鹿(かづしか)の真間娘子(ままのをとめ)を詠む歌一首短歌を幷せたり

雞が鳴く 吾妻の國に 古に ありける事と 今までに 絶えず言ひ來る 勝鹿の 真間の手兒名(てごな)が 麻衣(あさきぬ)に 青衿(あをくび)着け 直(ひた)さ麻(を)を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳(けづ)らず 履(くつ)をだに 穿(は)かず行けども 錦綾(にしきあや)の 中につつめる 齊(いつぎ)子も 妹に如(し)かめや 望月の 滿(た)れる面(おも)わに 花の如(ごと) 笑(え)みて立てれば 夏蟲の 火に入るが如 水門(みなと)入(いり)に 舟漕ぐごとく 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音(と)の 騒く湊の 奥津城(おくつき)に 妹が臥(こや)せる 遠き代に ありける事を 昨日(このふ)しも 見けむが如も 思ほゆるかも

  反歌

勝鹿の真間の井を見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手兒名し思ほゆ


『続日本紀』749(天平21)年2月22日条に次の記事がある。

天平廿一年二月丁巳、陸奥国、始めて黄金を貢ぐ。是において、幣を奉り、以って畿内七道諸社に告げり。

 陸奥国から始めて金が献上された。次の歌はそのとき出された宣命を題材にしている。そしてこの歌こそ、『日本のナショナリズム(9):第2国歌「海ゆかば」』で紹介したように、大伴家持が祖先の「言立て」た言葉だとして第2国歌「海ゆかば」の歌詞を詠い込んでいる長歌なのだった。

巻18・4094番
 陸奥国より金(くがね)を出(いだ)せる詔書を賀(ほ)く歌一首短歌を幷せたり

葦原の 瑞穂の國を 天降り 領(し)らしめしける 天皇(すめろき)の 神の命の 御代重ね 天の日継と 知らし來る 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の國には 山河を 廣み厚みと 奉る 御調(みつき)寶は 数へ得ず 盡くしもかねつ 然れども 我が大君の 諸人(もろひと)を 誘(いざな)ひ賜ひ 善き事を 始め賜ひて 黄金(くがね)かも たのしけくあらむ と思ほして 心(しん)悩ますに 鶏が鳴く 東の國の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金ありと 申し給へれ 御心を 明め賜ひ 天地の 相珍(うづ)なひ 皇御祖(すめろき)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりし事を 朕(あ)が御代に 顕(あらは)してあれば 食(をすす國は 榮えむものと 神ながら 思ほしめして 物部(もののふ)の 八十伴(やそとも)の男(を)を 服従(まつろへ)の 向けのまにまに 老人(おいひと)も 女童兒(めのわらは)も 其(し)が願ふ 心足(たら)ひに 撫で給ひ 治め給へば 此(ここ)をしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大來目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水浸(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の 邊(へ)にこそ死なめ 顧り見は せじと言立(ことだ)て 大夫(ますらを)の 清きその名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる 祖の子どもそ 大伴と 佐伯の氏(うぢ)は 人の祖(おや)の 立つる言立(ことた)て 人の子は 祖の名絶たず 大君に 奉仕(まつろ)ふものと 言ひ繼げる 言の職(つかさ)そ 梓弓 手に取り持ちて 剱大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守護(まもり) われをおきて 人はあらじと 彌(いや)立て 思ひし増さる 大君の 御言の幸(さき)の〈一に云わく、を〉 聞けば貴み〈一に云わく、貴くしあれば〉

  反歌三首

大夫の心思ほゆ大君の御言の幸(さき)を〈一に云わく、の〉の聞けば貴み〈一に云わく、貴くしあれば〉
大伴の遠つ神祖(かむおや)の奥津城はしるく標(しめ)立て人の知るべく
天皇(すめろき)の御代栄えむと東(あづま)なる陸奥山に金(くがね)花咲く

〈天平感寶元年五月の十二日、越中國の守の館にて、大伴宿禰家持作れり。〉


(おまけ)
「吾妻」で検索したとき、次の歌にであった。「あづま」の国ではなく「私の妻」という意味で使われている。「かがい」を詠った歌だ。大らかというか大胆というかハチャメチャというか、実に羨ましい(?)風俗である。

巻9・1759番/1760番
筑波嶺に登りて嬥歌會(かがひ)をする日に作る歌一首短歌を幷せたり

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ 嬥歌(かがひ)に 人妻に 吾(あ)も交(まじ)はらむ 吾が妻に 他(ひと)も言問(ことご)へ この山を 領(うしは)く神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わざ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな〈嬥歌は、東の俗語にかがひと曰ふ〉

  反歌

男(を)の神に雲立ちのぼり時雨ふり濡れ通るともわれ帰らめや

〈右件の歌は、高橋連蟲麻呂の歌集の中に出づ。〉


(この項つづく。)
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