2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(195)

「天武紀・持統紀」(110)


「大化改新」の真相(32)
古田説の検討(3):公地公民」問題


 古田さんが「薄葬令」のほかに取り上げている詔勅は(1)(8)(9)の「東国国司」への詔と(5)の「改新の詔」である。前者は『「東国」問題』、後者は『「公地公民」問題』と題して論じている。「公地公民」問題を先に読むことにする。


 この「大化改新詔」のハイライト、それは「公地公民」問題だ。

 従来の「大化改新詔」論の基本、それはこの詔の目指すところが「私地私民」を排し、「公地公民」の樹立を宣告するところにあった。 - これが共通見解である。

 この間題をめぐる論争は、文字通り百花繚乱だ。経済史、法制史から社会史、日本古代史に至るまで、すでに明治以来、大正・昭和、その戦前から戦後まで、もちろん「郡評論争」以降も一段と「鋭さ」と「華やかさ」をましてきた、といっていい。

 そのすべての一点一点、精細に吟味して、一つひとつ再批判する。それがわたしにとっての責務、なすべき道であろう。しかし、それは次の機会にまわし、今はストレートに、ことの筋道、その本道を「大わく」においてしめしたい。

 問題は、「私地私民」(α)及び「公地公民」(β)の意味だ。従来の「通解」では、「私地私民」とは豪族たちの領地と領民、「公地公民」とは天皇家の領地と領民。その意となろう。

 けれども、その場合、その「豪族」を蘇我氏の一党とした場合、はたして歴史上経済史上の事実は、そのような展開の事実をしめしているのだろうか。 - 全く「否」だ。

 なぜなら、7世紀後半も、蘇我氏ないし藤原氏の時代だ。その点、8世紀になっても変わらない。いよいよ「藤原氏専横」をきわめたこと、周知のとおりである。

 それゆえ、ことの「事実」と「詔勅群」のしめすところとの「大きな誤差」の前で専門家は悩んだ。迷った。その結果、おびただしい論文群の一大生産となったように思われる。

 この一事こそ、実は日本書紀の真に「目指した」ところを暗示していたのであった。

 5~6世紀の北魏になって作られた「魏書」、この一書が日本書紀の「モデル」となった。最大の先範だったのである。この点、すでにくりかえしのべたところであるけれども(『なかった』第4号、39頁など)、今、その要点を簡約しよう。

(1)
 鮮卑が南下して長安と洛陽を占拠し、北魏を創建したとき、その初代は太祖道武帝であったが、当人以前の各代、成帝から昭成帝什翼犍として、すべて「~帝」の形で記されている。

 日本書紀もまた、「701」の文武天皇以前を「神武~持統」の間を「~天皇」と記した。

(2)
 「魏書」はその背表紙に「魏書紀」と共に「魏紀」と記している。日本書紀が続日本紀で「日本紀」と記されているのと、同一である。

(3)
 その記載する神話、説話にも、両者相類似するところが少なくない。たとえば「鮮卑と魏・西晋、両者の一大交流」と「神功皇后(倭国の女王)と魏・西晋の一大交流」なども、重要なその一脊柱である。

 周知のように、日本書紀はこの神功紀の「創出」こそがその「編年の基点」とされているのである。

 今、肝心の問題は次の一点だ。

 鮮卑は、旧西晋の地(黄河流域)を占拠し、その土地と領民を「北魏」の地とした。彼等の場合、騎馬民族であったから、「馬群の管理」が重視されている。

 ともあれ、従来の「西晋の朝廷の領地と領民」はすでに「私地私民」とし、それに代る「北魏の支配」を以て「公地公民」とした。これに従って日本書紀は「701」以前の(九州王朝関連の)領地と領民を一切「私地私民」とし、それに代る「近畿天皇家側の天皇家や藤原氏たちの豪族」のものを「公地公民」としたのである。

 このような理解からすれば、「701」以降、いよいよ「藤原氏の支配」が拡大されたとき、これこそ「公地公民」の徹底であり、その実現だったのである。

 このような「8世紀の公地公民制」は、決して(元正天皇や藤原氏等の)〝勝手気まま″に非ず、あの天智天皇と天武天皇の間で交された「施行」の公約の「実現」に他ならない。 - これが日本書紀最大の目途、達成目標とすべきところだったのである。

 上の論考から、古田さんは(5)の発令者を近畿天皇家としていると考えてよいだろう。また、この詔勅の発令時についてもはっきりと書かれていないが、次のように推定できる。

 上の引用文では「701」年が強調されている。旧唐書(倭国と日本国をはっきりと区別している)・木簡(藤原宮出土など。評から郡への変遷)・大宝年号開始などの示すところから、古田さんは701年を「ヤマト(New)王権が名実ともに九州(Old)王朝からの権力奪取を果たした」年としてONラインと呼んで、いろいろな論文で繰り返し強調している。そして「改新の詔」〈その二〉には「郡制」規定記事がある。以上から、古田さんはこの詔勅の発令時は「701」年と考えていると判断して間違いないだろう。

 ともあれ、『「改新の詔」をめぐって(1)』で、(5)「改新の詔」〈その第一〉や(10)「皇太子の奏上」の意味する本質は「近畿天皇家による九州王朝からの資産奪取を示す」という正木さんの説に同意したが、古田さんが言わんとするところと一致する。

 それにしても『日本書紀』が「魏書」を「モデル」して編纂されたとは! このような知見は古田さんならではのものだと思う。ただただ感嘆するばかりだ。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1645-f71bc311
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック