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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(194)

「天武紀・持統紀」(109)


「大化改新」の真相(31)
古田説の検討(2):「詔勅群、一括」問題


 (1)~(16)の一連の詔勅はどの時代から移動されたのか。基本的には九州年号大化期かその前後と考えられるが、すべてが大化期のものとは限らないのではないだろうか。特に(11)(15)(16)はこれまでの検討結果から、他の時代から移されたものとしても、冠位制(1)(603 推古11年)以後・冠位制(4)(661 斉明7年)以前でなければならない。また、これまでのいろいろと調べてきた過程で私は次のように考えるに到った。すなわち、(1)~(16)の詔勅はもともと孝徳紀に書かれた順序通りにあったわけではない。

 さて、古田さんは『「詔勅群、一括」問題』と題して、なぜ孝徳紀にこれほどの詔勅群があるのかを論じている。次のようである。

 従来から不審とされてきたところ、それは大化年間の項に16個もの詔勅、それも長文の、内容もぎっしりつまった詔勅類がつめこまれている点だ。津田左右吉も、もちろん疑念をいだいた。「645」に蘇我入鹿を斬ったあと、その直後に「待ってました」といった具合に、これほどの数の詔勅を一括して〝出しつづけ得る″はずがないからである。

 そのため、この詔勅類の成立時期をもっと下げて、天智天皇の項(近江令)や天武天皇の項(浄御原令)へもってゆく案(門脇、原氏等)が出されたのである。

 しかし、わたしは考える。これは日本書紀自身の「構成法」にもとづくものだ、と。なぜなら、同じ日本書紀の安閑紀を見れば、ここには「屯倉(みやけ)」記事がぎっしりつめこまれている。2年5月の項である。
「五月の丙午の朔申寅に、筑紫の穂波屯倉」
からはじまって、「駿河國の稚贄屯倉」に至るまで、各国27個の屯倉が〝すしつめ″のように列記されている(その前後にもある)。「歴史事実」の問題として、「2年5月」という限定された時点で、これだけの屯倉をこれほどの各地におくことなど、できるはずもない。これは今までの各家、誰しも感じてきたところだ。これは何か。

 辞書類の中に「事典」というものがある。一定の事項を一個所に集めて「読者の便」に供するものだ。「類集」という名の本も、古くから行われて〝便″とされてきた。日本書紀はこの「やり方」をしている。それが「安閑二年」という一時点に「おしこまれ」ているから、人の目を〝あやまらせ″るのだ。要は、「歴史書の中身に、『事典』の手法を取り入れている。」にすぎないのである。

 わかり切っている話を事新しく書いたのは、なぜか。実は、今問題の焦点、「大化年間」の項に集められた「詔勅群」もまた、右と同じく、一種の「事典」なのである。決して「大化年間」などという「一時点」のこととして〝扱っては″ならない。この点、「屯倉」記事と同じである。
 「屯倉」記事も、「筑紫」からはじめられ、九州にかなりのウエイトがかけられているように、「九州王朝の屯倉」記事を「九州王朝の史実」から〝類集″して、ここ(安閑2年)に「つめこんで」いるのである。

もちろん、この場合は「屯倉」記事とはちがって、「近畿の固有名詞」や「近畿の天皇名」や「近畿の事項」が挿入されている。それは確かだ。しかし、ことの基本性格は、やはり「九州から近畿へ」という一点にある。動かすことはできない。

 しかも、その時期は決して「大化2年」という一時期について「九州から近畿へ」とスライドさせたものではない。ひろく、「7世紀初頭から7世紀末まで」の詔勅群を一括してここに「類集」していたのである。その目的は何か。


 「事典」あるいは「類集」とは言い得て妙である。『ひろく、「7世紀初頭から7世紀末まで」の詔勅群を一括してここに「類集」し』たという結語は冒頭に書いたことと一致する。

 ところで、「安閑記」の記録は次のようである。

御子廣國押建金日命、勾の金箸宮に坐しまして、天の下治らしめき。此の天皇御子無かりき。〈乙卯の年の三月十三日に崩りましき。〉御陵は河内の古市の高屋村に在り。

 たったこれだけ、これで全部である。記録すべき事績がなかったのだろう。次に「安閑紀」を読んでみた。なんと、初めの即位記事と最後の死亡記事以外はすべてが屯倉に関わる記事である。明らかに九州王朝の史書からの盗用である。2年5月条は次のようである。まさに屯倉のオンパレードだ。

五月の丙午の朔甲寅に、筑紫)の穂波屯倉・鎌屯倉、豊國の榺碕(みさき)屯倉・桑原屯倉・肝等(かと)屯倉〈音を取りて讀め。〉大抜屯倉・我鹿屯倉、〈我鹿、此をば阿柯と云ふ。〉火國の春日部屯倉、播磨國の越部屯倉・牛鹿屯倉、備後國の後城(しつき)屯倉・多禰屯倉・來履(くくつ)屯倉・葉稚(はわか)屯倉・河音屯倉、婀娜國の膽殖(いにゑ)屯倉・膽年部屯倉、阿波國の春日部屯倉、紀國の經湍(ふせ)屯倉〈經湍、此をば俯世と云ふ。〉河邊屯倉、丹波國の蘇斯岐屯倉、〈皆音を取れ。〉近江國の葦浦屯倉、尾張國の間敷屯倉・入鹿屯倉、上毛野國の緑野(みどの)屯倉、駿河國の稚贄(わかにへ)屯倉(みやけ)を置く。

 さて、『「詔勅群、一括」問題』は「その目的は何か。」で終わっていた。その問題は『「施行」問題』と表題を変えて論じられている。

 日本書紀は、いつ、誰が、誰のためにこれをつくったのか。

 自明の問いを、ここに改めて提出することを許してほしい。その答えは次のようだ。

「8世紀(720)に、8世紀(701以後)の人間(元正天皇、舎人親王等)が、8世紀の人間(内外のインテリたち)のために作った。」

 自明の回答だが、この回答の中にこそ、日本書紀のすべての「秘密」が隠されている。

 8世紀とは、「大宝律令」の時代だ。その「大宝律令」の行われている「現代」(720)のために、その「現代」の「大宝律令」時代を〝合理化″し、〝美化″するためにこそ、この日本書紀は「作製」されたのである。

 以上の論旨は私(たち)がすでに共有している認識であり、すべて納得できる。

 次に古田さんは、「この点を明示している」ものとして、あの天智10年の「冠位・法度の事」施行記事を取り上げている。

671(天智即位4)年正月6日
甲辰に、東宮太皇弟(ひつぎのみこ)奉宣(みことのり)して、〈或本云はく、大友皇子宣命す。〉冠位・法度の事を施行(のたまひおこな)ひたまふ。天下に大赦す。〈法度・冠位の名は、具に新しき律令に載せたり。〉

 そして、この記事を次のように解釈している。(古田さんは原文部分を「具載新律令也。」と引用しているが、〈大系〉の原文には「於」字があるのでそれを補った。また明らかに誤植と思われる字句は訂正した。)

 右の末尾の「具載於新律令也。」とは、大宝律令を指す。わたしにはそれ以外の「理解の選択肢」はない。なぜなら、右の、「具載於A也。」という文型のしめすところは(このAについては日本書紀の読者には「周知」である)「それを見てくれれば、委細は明白。」との意をしめす、と理解する他ないからである。

 しかし「近江令」や「浄御原律令」の姿、その具体的内容が日本書紀の一般読者にとって「周知」であるはずはない。8世紀(720)の読者(インテリ)にとって「周知」なのは、当然眼前の「大宝律令」以外にない。

 右の文献の中の「冠位・法度の事」とは何か。「冠位」とは、推古紀(11年12月)に示された「冠位十二階」である。この「大化2年」の詔勅類の中でも、(11)の「甲申に、詔して曰はく、」(大化2年3月22日)には、同一の「冠位十二階」にもとづく「墓の規模」がしめされている。

 これに対し、「大宝律令」の場合、「冠位の名」はもちろん「正一位~従六位下」である。推古紀以後も、「大織冠」とか「正大壱」など、次々と変化した。けれども、ここでは、「『正一位』という現在の官位の″淵源″はこの「冠位十二階」の歴史にある。」との主張。その立場の表明である。

 「法度」も同じだ。大化年間に「連続展示」された「詔勅類」を指している。「このような(7世紀代の)詔勅類を歴史的背景として、大宝律令は出現しえた。」という、「主張」の表明である。

 この場合も、「大化年間の詔勅群」(α)と「大宝律令」(β)とはちがう。ちがうからこそ、「(β)の歴史的淵源は(α)である。」と〝主張″しうるのだ。

 日本書紀の著述者たちにとって重要なのは、「過去」の場合ではない。あくまで「現在」の「大宝律令」の〝正当性の証明″なのである。

 天智天皇と天武天皇という、「新しき、絶対の権威」の名によって、現在の「大宝律令」の〝合法性″を支えようとする。そのための努力なのである。

 古田さんは「冠位・法度の事」施行記事をヤマト王権自前の記事として扱っているようにも読めるが、もしそうならその点は同意することはできない。

 〈或本云はく、大友皇子宣命す。〉〈法度・冠位の名は、具に新しき律令に載せたり。〉という二つの分注は、私にはこの記事が盗用記事ではなく自前の記事であることを偽装するための付け足したものと見える。ともあれ、最後の一文「そのための努力なのである。」の「努力=盗用」と解釈すれば、このくだりの論旨もすべて納得することができる。
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