2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(193)

「天武紀・持統紀」(108):「薄葬令」再論


「大化改新」の真相(30)
古田説の検討(1)


 「大化改新」について、古田さんはどのような見解を持っているのか知りたいと思っていた。古田武彦直接編集の『なかった 真実の歴史学 第5号』に「大化改新批判」という古田論文があるのを知ったが、私が利用している図書館には、どういうわけか、『なかった』は第1号~第3号しかなかった。(言葉遊びしているわけではありません。)その図書館には「リクエストカード」というのが用意されているので、それを提出してみた。なんと、友好契約を結んでいる他の自治体の図書館から取り寄せてくれた。その論文の第5章『「大化改新」の実体批判』から、「大化改新」関係の詔勅を論じている部分を読んでいくことにする。

 古田さんは「孝徳紀」の大化元~5年にある全ての詔勅を取り出して出現順に番号を付けている。そしてその番号を用いて論を進めているので、まずその詔勅群と番号の対応表をまとめておく。古田さんは各詔勅の冒頭の文を記録しているが、ここでは今までのように詔勅の内容を表す表題を用いることにする。なお、目下のテーマである国制に関する詔勅を青字で示した。

(1)「東国国司の発遣」
(2)「鐘匱の設置」「男女の法」
(3)「寺主の任命と諸寺の実情調査」
(4)「不正蓄財・土地貸借の禁止」
(5)「改新の詔」
(6)「鐘匱の反応」
(7)「国民からの愁訴の審理」
(8)「東国国司の違反調査」
(9)「朝集使の報告」
(10)「皇太子の奏上」

(11)「薄葬令・旧俗の廃止」
(12)「品部の廃止」
(13)「品部廃止の実行を督促」?

(14)「出退勤の礼法」
(15)「13階の冠位制定」
(16)「19階の冠位制定」



 まず(11)「薄葬令」について再論したい。「ブログに期待する一市民」さんから、「薄葬令」の発令者は晩年の持統であるという中村幸雄氏の説に同感するというコメントを頂いている。実は私が始めて「大化改新」問題を知ったのは中村さんによってであった。『偽装「大化の改新」(3)』で中村説のあらましを紹介して次のように書いている。

「以上、私にとってはまだ不明な点があるが、 日本書記の記述通りの「改新の詔」があったする仮説での議論を初めて知ったので紹介した。」

 (11)については次のように紹介している。

Ⅲ 「薄葬」された天皇問題
 改新の諸詔のなかに「薄葬令」(646年)がある。「薄葬」は盗掘を避けるためであり、その制定者は自らも「薄葬」したはずである。「薄葬」が確認できる最初の天皇は持統である。持統が「薄葬令」の制定者であり、しかも、その制定はその晩年(自らの死を自覚する頃)であったと推定される。

 自らの陵墓を作らず天武陵に合葬させたことをもって、持統が率先して「薄葬」の範を示したという論であった。しかしこの合葬は「薄葬」を意識したうえでの措置ではないと、私は考えている。

 東京新聞朝刊に「東京どんぶらこ」という連載エッセイがある。昨日(9日)は田中哲男氏(東京新聞編集委員)による「炎の女優 衝撃の終焉」という題のエッセイで松井須磨子の生涯を素描していた。須磨子と島村抱月との熱愛は有名だが、須磨子の終焉は次のようだったという。

 大正7(1918)年、抱月が流感で急死。愛と情熱を失った須磨子は翌年1月5日、抱月と過ごした牛込芸術倶楽部で首つり自殺を図り、32歳の波乱の人生を閉じるのだ。

 須磨子は三通の遺書を残し、うち青々園に宛でた遺書が当時の都新聞に載っている。「私はやはり後を追います。あの世へ…。お墓を一緒にしていただきますよう幾重にもお願い申し上げます。くれぐれも…」

 このくだりを読みながら、私は持統の合葬のことを思った。持統は人生を全うしたわけだが、合葬を望んだ真意は須磨子と同じではないかと思う。ただし須磨子は「幾重にもお願い」したのにもかかわらず合葬してもらえなかった。

 もう一つ何よりもまず、「薄葬令」の発令者を持統とするためには「冠位名」の問題をクリアしなければならない。「薄葬令」の発令者が持統だとすると、『日本書紀』編纂者はその中で使われている持統のころの「冠位制」(5)の冠位名を全て「冠位制」(1)のものに書き換えたことになる。「薄葬令」にはそのような大掛かりな書き換えまでして移動する意味はないだろうと思う。

 ところで古田さんも「薄葬令」を論じていた。論旨はほぼ私の見解と同じであった。薄葬に合致しない陵墓の例を私は少ししかだせなかったが、古田さんはかなりの例を取りだしている。天皇陵は孝徳陵と天武・持統陵だけだが、天皇陵以外では次の8例を取りだしている。

①菖蒲池古墳
 橿原市菖蒲町、方墳、全長6m以上、幅2.5m(7世紀中頃)
②カナヅカ古墳
 明日香村大字平田、方墳、一辺約35m、高6~8m(7世紀中頃)
③牽牛子塚古墳
 明日香村大字越、八角形墳、対辺長18.5m、高約4m(7七世紀後半)
④東明神古墳
 高取町大字佐田、八角形墳、対角長約30m、高2m以上(7世紀後半)
⑤キトラ古墳
 明日香村大字阿部山、二段築成の円墳、径13.8m、高3.3m(7世紀末~8世紀初め)
⑥マルコ山古墳
 明日香村大字真弓、二段築成の円墳、径約15m、高約5.3m
⑦高松塚古墳
 円墳、径20m、高約3.5m(7世紀末~8世紀初め)
(以上、明日香村教育委貞会編集『飛鳥の古墳-飛鳥の読みの世界』)
⑧カズマ山古墳
 明日香村大字真弓、長方形墳、東西約24m、南北18m以上、高4.2m以上(7世紀後半)(現地説明会資料、伊東義彰氏による)

 いずれも「薄葬令」の規定よりも「大」である。持統の天武陵への合葬が薄葬の範だとしても、薄葬をしたのが「薄葬令」発令者一人であり、あとは誰も従わなかったということになる。詔勅とはそのような軽々しいものではないだろうと思う。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
ぜひ 石渡信一郎説も検討してください。お願いします。
2011/07/13(水) 00:06 | URL | むらかみからむ #-[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1643-0fcfedd9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック