2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(191)

「天武紀・持統紀」(106)


「大化改新」の真相(29)
冠位制の変遷(2)の続き〈その2〉


 このところいろいろな方からコメントをいただいています。ありがとうございます。それぞれ一家言ある方とお見受けしました。ご説はそれぞれ必要なところで言及しようと思います。
 今日(29日)頂いた「一愛読者」さんからのコメントから大事なことを思い出しました。そのことから始めます。


 以下では、私自身が混乱しそうなので、天智称制と天智即位後をはっきりと分けることにする。

 さて、「一愛読者」さんも「伊勢王=九州王朝の天子」説だ。その根拠の一つとして持統6年の伊勢行幸記事を取り上げている。ここの伊勢は糸島半島の伊勢であり、『34年前の九州王朝の天子の、水軍基地「伊勢」に向けての、蝦夷討伐を目的とした軍事行動記事の盗用』記事であるとの説を述べている。

 この説に対して、古田さんはその行幸は「中皇命」の三重県の英虞湾までの大旅行、白村江以前のことであり当然「政治的な目的を持った旅行」であったと言う。(『「持統紀」にもあった盗作記事(1)』で取り上げた。)

 「一愛読者」さんの詳しい論証が分からないので、692(持統6)年の伊勢行幸記事に関してはこれまで通り古田説を妥当とする。いずれにしてもこれも34年遡上の盗用記事であり、もともとは658(斉明4)年の記事ということになる。正木説・「一愛読者」説では「吾大王=伊勢王=中皇命」ということになる。「中皇命」という天子にふさわしい呼称をもった人物がことさら「伊勢王」という別称号を持っていたということになお不審が残る。

 私の説だと「天皇―皇太子―伊勢王」にそのままあてはめて「中皇命―薩夜麻―伊勢王」となる。

 さて、冠位制(4)の問題である。

(A)
664(天智称制3)年2月9日
三年の春二月の己卯朔丁亥に、天皇、大皇弟に命じて、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部・家部等の事を宣ふ。
 其の冠は二十六階有り。……大錦中……是を二十六階とす。前の花を改めて錦と曰ふ。……


(B)671(天智即位4)年正月6日
甲辰に、東宮太皇弟(ひつぎのみこ)奉宣(みことのり)して、〈或本云はく、大友皇子宣命す。〉冠位・法度の事を施行(のたまひおこな)ひたまふ。天下に大赦す。〈法度・冠位の名は、具に新しき律令に載せたり。〉

 私は(A)と(B)は共に天智即位4年にあった記事で、そのうちの(A)のみを、甲子革令を偽装するために、称制3年に移動したと考えていた。山崎説も同じと考えてよいだろう。しかしこの説が成り立たないことを冠位制の変遷を調べているときに気付いた。何よりもこの冠位制は九州王朝によるものである。また、天智称制元年から即位4年までの間に(A)だけで使われている冠位名「錦」が頻繁に現れている。冠位制定施行前にその冠位制の冠位名が使われているのはおかしい。(A)・(B)ともに即位4年にあったとする説は誤りだった。

 私は今は(A)・(B)はそれぞれ斉明7年~称制元年5月にあった記事をそれぞれ天智称制3年と天智即位4年に移動したものと考えるにいたった。これもちょっと大胆な仮説なので異論がたくさんあるだろうと思うが、このまま進めてみる。

 662(天智称制元)年5月条に次のような記事がある。

夏五月に、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等、船師一百七十艘を率て、豊璋等を百濟國に送りて……

 つまり称制3年の冠位改定で設けられた「大錦中」を授与されている者が天智称制元年にいるのだ。(A)・(B)のもともとの位置を斉明7年~天智称制元年5月とした理由である。ちなみに〈大系〉の頭注は例によって「大錦中」については後の「追記」として済ましている。

 この一例だけで断定するのにためらいはあるが、論を進めてみよう。この重出記事は干支日付があるから、それを用いてもとの位置を調べるべきだろう。しかしその際、一つ問題点がある。斉明7年が白鳳元年に当たるわけだが、薩夜麻の即位が前天子の逝去すぐに行われかつ改元されたのか、あるいは逝去後すぐに即位したけれど改元はその次の年だったのか、はたまた前天子の逝去年の次の年の正月に即位・改元がともに行われたのか、不明だ。つまり前天子の死亡期日が分からないのだから直ちに干支日付による比定はできない。しかし、斉明7年8月条にある次の記事が手掛かりになる。

八月に、前将軍大花下阿曇比邏夫連・小花下河邊百枝臣等、後将軍大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石等を遣して、百濟を救はしむ。仍りて兵杖・五穀を送りたまふ。〈或本に、此の末に續(つ)ぎて云はく、別に大山下狭井連檳榔・小山下秦造田來津を使して、百濟を守護(まも)らしむといふ。〉

 このときの阿曇比邏夫の冠位は「大花下」であった。天智称制元年段階で、新冠位制のもとで2階級昇級していたことになる。そうすると(B)の元位置は斉明7年8月~天智称制元年5月の間ということになる。これにより(B)の元位置が決められる。この期間の「正月」と言えば天智称制元年正月しかない。「甲辰」は14日である。次に(A)は当然(B)に先行するのだから斉明7年の2月ということになる。「丁亥」は22日である。次のようになる。

(A) 白鳳元(斉明7)年2月22日、新冠位制定
(B) 白鳳2(天智称制元)年正月14日、施行

 唐・新羅との一触即発の状況にあって倭国将官たちの結束・鼓舞をはかるための新冠位の制定・施行だったのだろう。

 さて(A)・(B)に登場する「大皇弟」は、私の立場からは、当然「伊勢王」ということになる。伊勢王は薩夜麻の弟であり、薩夜麻出陣のあとの留守を預かった。しかし、天智による謀殺かどうかは分からないが、白鳳8(天智即位元)年に逝去する。そして唐は、新羅と親交を深め始めたヤマト王権を牽制する必要から、白鳳11(天智即位10)年に薩夜麻を帰国させた。
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