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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(189)

「天武紀・持統紀」(104)


「大化改新」の真相(27)
「薄葬令」について


 冠位制の変遷を調べていて大事なことに気付いた。『「大化改新」の真相』を始めた時、「大化改新」関係の全ての詔を無造作に持統9・10年(九州年号の大化1・2年」)に移動してみた。(『「大化改新」の真相(1)』を参照してください。)しかしそういう移動ができない詔があった。「薄葬令」である。そこでは身分毎に墓の大きさなどをきめ細かく規定している。必要な部分だけ転載する。

大化2年3月22日
……夫れ王より以上の墓は、其の内の長さ 九尺、濶(ひろ)さ五尺。其の外の域は、方九尋(ひろ)、高さ五尋。役一千人、七日に訖しめよ。其の葬らむ時の帷帳(かたびらかきしろ)の等(ごとき)には、白布を用ゐよ。轜車(きくるま)有れ。上臣の墓は、其の内の長さ濶さ及び高さは、皆上に准(なら)へ。其の外の域は、方七尋、高さ三尋。役五百人、五日に訖しめよ。其の葬らむ時の帷帳の等には、白布を用ゐよ。擔(にな)ひて行け。〈蓋し此は肩を以て輿を擔ひて送るか。〉下臣の墓は、其の内の長さ濶さと高さとは、皆上に准へ。其の外の域は、方五尋、高さ二尋半。役二百五十人、三日に訖しめよ。其の葬らむ時の帷帳の等には、白布を用ゐること、亦上に准へ。大仁・小仁の墓は、其の内の長さ九尺、高さ濶さ各四尺。封(つちつ)かずして平ならしめよ。役一百人、一日に訖しめよ。大禮より以下、小智より以上の墓は、皆大仁に准へ。役五十人、一日に訖しめよ。凡そ王より以下、小智より以上の墓は、小き石を用ゐよ。其の帷帳の等には、白布を用ゐよ。庶民亡(し)なむ時には、地に収め埋めよ。其の帷帳の等には、麁布(あらきぬの)を用ゐるべし。一日も停(とど)むること莫れ。凡そ王より以下、庶民に至るまでに、殯(もがりや)營(つく)ること得ざれ。凡そ畿内より、諸の國等に及るまでに、一所に定めて、収め埋めしめ、汚域(けがらは)しく處處に散(ちら)し埋むること得じ。……

 ここで使われている冠位は官位制(1)で制定されたものである。持統紀に移動することはできない。また、ここで規定されている墓の大きさを見ると、とてもヤマト王権による詔とはみなせない。「王より以上」と「上臣」の墓大きさは、1尋=約1.8mなので、方約16.2m高さ約9mである。孝徳以後の陵域を『扶桑略記』の山稜記事から抜粋すると次のようである。

孝徳 高二丈。方五町。
斉明 高三丈。方五町。(朝倉陵)
天智 高二丈。方十四町。
天武 高五丈。方五町。
文武 高三丈。方一町。
元明 高三丈。方三町。
(1丈=約3m 1町=約109m)

 とても薄葬とは言えない。ヤマト王権の大王以外の王族や臣の陵墓については、調べる資料が手元にないのでネットで調べてみた。「古墳マップ」というサイトがすごい。県毎にまとめられていて、推定築造時期や大きさなどを調べることができる。奈良県の7世紀以後の方墳を取り出してみた。

カナヅカ古墳 1辺約35mの方墳。7世紀中頃と推定。
艸墓古墳 1辺約25m、高さ約7mの方墳。7世紀中頃か。
菖蒲池古墳 20m程度の円墳か方墳と思われる。7世紀中頃と推定。
西宮古墳 1辺約35mの方墳。7世紀中頃と推定。
平野塚穴山古墳 1辺約20m、高さ約4mの方墳。7世紀後半と推定。

 やはり「薄葬令」とはまったく関係なく作られている。これに対して九州王朝の場合はどうだろうか。福岡県を調べてみた。驚いたことに方墳が少ししかない。しかも全て7世紀以前のもの。そこで円墳を調べてみた。7世紀以後のものは次の3例しかなかった。

早田古墳群 7世紀に築造された径7~9mの円墳2基がある。
戸山原古墳1号 墳径約15m、高さ約5mの円墳。7世紀前半と推定。
古月横穴丘陵の斜面に築かれた約40基の横穴墓群。6世紀後半~7世紀と推定。

 上の2例は「薄葬令」に見合っている。最後の墓群はたぶん庶民の墓で、「一所に定めて、収め埋めしめ」た例の一つであろう。

 では、九州王朝ではなぜ「薄葬令」が必要だったのだろうか。「難波遷都の時代背景」で詳しく検討したように、7世紀中頃の東アジアの緊迫した情勢下で九州王朝は軍備の増強や防御施設(山城や水城など)の建設で厖大な資金と労働力を必要としていた。大きな陵墓など作る余裕はなかった。「薄葬令」は当然の措置であった。

 ともあれ、「薄葬令」を持統時代に移動することはできない。「大化改新」関連の詔の移動時期は一つ一つ慎重に考える必要があるようだ。
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 コメント
この記事へのコメント
薄葬令については「持統の晩年」と見るべきかと。故中村幸雄氏は「同令は、発令者が元気な時期には制定されず、晩年に制定されたのではないか。同令の発令者は、範を垂れて自らも「薄葬」した筈」とした上、次のように結論付けています。
以下(中村幸雄論集 新「大化改新」論争の提唱─『日本書紀』の年代造作について)HP新古代学の扉に登載
「孝徳以後の 天皇で「薄葬」であることが明白であるのは、天皇では初めて「火葬」され、別に自らの墓を造らず、夫であった天武陵に「合葬」された持統が最初である。」
私もこの説に同感です。
2011/06/23(木) 18:44 | URL | ブログに期待する一市民 #-[ 編集]
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