2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(187)

「天武紀・持統紀」(102)


「大化改新」の真相(25)
冠位制の変遷(2)


 いま私が拠って立つ論拠、いわば「定理」のようなものを二点確認しておきたい。

 一つは天皇という称号を初めて用いた(名実ともに天皇になった)のは誰か、という問題。

 「井の中」では二説あるようだ。「天智」または「天武」。それぞれの自説に従って、それ以前の天皇には「天皇」という称号を用いず、「大王」という称号を用いている学者が多いようだ。「井の中」でもそのくらいの見識はある。戦前よりは一歩前進と言ってよいだろう。

 「多元史観」の中でも「天智」または「天武」が最初の天皇と考えている方が多いようだ。

 これらの説に対して、私は「大嘗祭」問題を考えたときから、初めての天皇は「持統」と考えるようになった。その論拠は「大嘗祭」であった。『日本書紀』での大嘗祭挙行記事は「持統紀」にしかない。

691(持統5)年11月1日
十一月の戊辰に、大嘗(おほにへ)す。祗伯中臣朝臣大嶋、天神壽詞を讀む。

 白村江の敗戦以後弱体化してきたとは言え、なお九州王朝が権力の中枢を占めていた。天子継承のシンボルである大嘗祭という祭祀の挙行をヤマト王権に許すはずがない。その大嘗祭挙行を持統のときに認めざるを得なくなったのであろう。『日本書紀』で見る限り、ヤマト王権の大王たちの中で始めて大嘗祭を執り行ったのは持統である。

 これに対して「井の中」では「天武紀」の次の記事から、大嘗祭を始めて挙行したのは天武であるとして疑わない。

673(天武2)年12月5日
「十二月の壬午の朔丙戌に、大嘗(おおにへ)に侍奉(つかへまつ)れる中臣(なかとみ)・忌部(いむべ)及び神官の人等、幷て播磨、丹波、二つの國の郡司、亦以下の人夫等に、悉(ことごとく)に祿(ろく)賜ふ。因りて郡司等に、各爵一級(ひとしな)賜ふ。

 しかしこれは大嘗祭に携わった人たちに褒美をあげたという記事であり、大嘗祭を行ったとは書かれていない。大嘗祭を始めて行ったのは天武であるという人たちの論拠は、「恩賞記事があるのだから大嘗祭が行われたことは間違いない」、という論法のようだ。しかし、大嘗祭のような権力にとって最重要な祭祀を行ったことを記録し忘れたなどということはあり得ない。どこからかポツンと盗用してきた記事だと考えざるを得ない。

 ところで、「大嘗祭とはなにか(2)」で次のような説を紹介した。


 「天武紀」には「大嘗す」という記事がないのに祭祀に関わった者たちへの褒美授与の記事があるのは何故か。古田さんは「確認はできませんけど、非常に魅力的な仮説」ということで香川さんという方の次のような仮説を紹介している。

 天武に殺された大友皇子は明治になってから弘文天皇という諡号を付け天皇として扱っている。『日本書紀』は反逆者・天武の大義名分を主張するための「正史」だから当然のことに、大友皇子の方が反逆者であり大友皇子を天皇として扱っていない。しかし大友皇子は実際には天皇として即位したではないか。もしそうだとすると、弘文天皇によって大嘗祭が行なわれていて、そのときの「褒美の記事」だけが「天武紀」に使われたのではないか。

 これを書き留めたときははっきりとした判断をしなかったが、今ではこの説はあり得ないとはっきりと言いたい。ではこの恩賞記事はどこからの盗用だろうか。後ほど詰めてみたい。

 二つ目は山崎仁礼男さんの「天智称制」造作説である。細かい点で異論があるが、称制時期のヤマト王権関係記事は「斉明紀」からの切り取りであり、他は九州王朝の史書からの盗用記事であるという大枠は正しいものと受け止めている。

 上の二つの前提が間違いであればこれからの議論はすべてご破算ということになるが、ともかく上の二つの定理をもとに論を進めてみよう。

 さて、「天智紀」には冠位制定記事(4)のほかに冠位施行記事がある。

671(天智10)年正月6日
東宮太皇弟(ひつぎのみこ)奉宣(みことのり)して、〈或本云はく、大友皇子宣命す。〉冠位・法度の事を施行(のたまひおこな)ひたまふ。天下に大赦す。〈法度・冠位の名は、具に新しき律令の載せたり。〉

 「天智称制の秘密(4)」で、664(天智3)年の冠位制定記事(4)と671(天智10)年の冠位施行記事との関連について、私は次のように書いている。


 7年のズレは山崎さんの称制造作説にピッタリとあっている。称制造作説をとれば10年の記事をもとに3年の記事を造作したということになる。しかし山崎さんはこの場合の7年のズレは「偶然だろう」としている。そのことをめぐって、山崎さんの論証の中に私としては納得できない点がある。私の中で全体の筋道がもう少し煮詰まるまで、山崎さんの論証には今は立ち入らないでおく。

 前回「この詔について論じ直したい」と言ったのはこの問題のことだった。『7年のズレは「偶然だろう」』とする山崎さんの論証はすっかり忘れているので、山崎仁礼男さんの論文『造作の「天智称制」』を再読しようと思い、図書館に『古代に真実を求めて・第1集』を予約した。なんと予約購読中の人がいた。これまで古田史学関係の本はいつも予約者はなく、すぐに借りられたのに……。いや、古田史学関係の本を読む人が増えてきたと、喜ぶべきだろう。ともあれ今、予約した本が手元に届くのを待機中です。

 余談を一つ。
 6月9日に放送されたNHK高校講座「世界史」の表題が「隋・唐帝国訪れた日本人」だった。講師は学習院大学教授(東洋古代史)の鶴間和幸氏。

 高校講座「日本史」では「日出づるところの天子」は聖徳太子、小野妹子は遣隋使という「定説」による放送に決まっているから見る気もしないが、「井の中」ではなく、「世界史」というおおきな土俵で研究している学者さんはこの「定説」をどう扱うのか、興味があった。

三つのポイントを提示して、講座は始められた。

1 海を渡る遣隋使・遣唐使
2 長安に眠る留学生
   ~墓誌の発見
3 円仁の見た唐帝国
   ~入唐求法巡礼行記

 隋・唐に渡ったのは朝貢使だけでなく、留学生や仏法修行僧もいましたよ、という組み立てのようだ。当然私が興味を持っていたのは「1」。ところが全くの肩すかし。「1」については全く触れなかった。

 もしかすると、これはよい兆候なのかも知れない。あやしい「定説」には触れないでおこうという消極的な否定ではないだろうか。…‥とこんな感想を持ちました。
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