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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(186)

「天武紀・持統紀」(101)


「大化改新」の真相(24)
冠位制の変遷(1)


 『日本書紀』には冠位制を定める(あるいは改定する)詔が5件ある。次のようである。

(1)
603(推古11)年12月5日
 十二月の戊辰の朔壬申に、始めて冠位を行ふ。(以下略)……

 色は「徳・仁・禮・信・義・智」で、それぞれに「大・小」の2階がある。「大徳」のように上に付く。全部で6色12階。次のようになる。

大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智

 「始めて冠位を行ふ」と言っているが、言うまでもなくこの冠位制定記事は九州王朝の史書からの盗用である。しかし、『隋書』俀国伝が記す冠位は「徳・仁・義・禮・智・信」という「五常」の徳目順である。多利思北狐(タリシホコ)が遣隋使を送ったのは600(文帝開皇22)年だから俀国伝が記す冠位は600年以前に制定されたことになる。従って「冠位制(1)は九州王朝にとっては「始めて」ではない。色の順序の違いが『日本書紀』編纂者による造作(『隋書』隠し)でないとすれば、何らかの事情、例えば徳に対する思想的解釈(禮・信を重んじていることから仏教的解釈の付加か)の変化があって、九州王朝の手によって改定されたものと考えられる。

 翌年正月1日に、さっそく「始めて冠位を諸臣に」授与している。

(2)
647(大化3)年是年条
是の年、七色の一十三階の冠を制(つく)る。……  色は「織・繡・紫・錦・青・黒・建武初位立身」で「建武」以外は「大・小」の2階があり、全部で7色13階。

大織・小織・大繡・小繡・大紫・小紫・大錦・小錦・大青・小青・大黒・小黒・建武初位立身

 「色」が「五常」の徳目から冠の素材や色彩に変わっている。なんとも即物的な改変である。みてくれ(服装)の威厳を重んじたということだろうか。冠位を授与する記事はない。

(3)
649(大化5)年2月条
冠十九階を制(つく)る。……

 (2)の「色」を三つ、「錦→花」「青→山」「黒→乙」と変えて、初位は「立身」としている。つまり色は「織・繡・紫・花・山・乙・立身」となる。「立身」以外は「大・小」の2階に分かれる。「大・小」は上に付く。その上さらに「花・山・乙」は「上・中・下」3階に分かれる。「上・中・下」は「大花上」のように下に付く。7色19階で次のようである。

大織・小織・大繡・小繡・大紫・小紫・大花上・大花下・小花上・小花下・大山上・大山下・小山上・小山下・大乙上・大乙下・小乙上・小乙下・立身

 「乙」のように取り立てていい意味があるとは思われない字が「色」に選ばれた理由が私にはさっぱり分からない。また2年たらずで改変する理由もさっぱり分からない。授与記事はない。

 ともあれ、このときの冠位が「天智紀」の冠位制に引き継がれている。「天智紀」の冠位制については過去に2度取り上げている。今回はこの詔の全文を掲載しよう。

(4)
664(天智3)年2月9日
 春二月の己卯の朔丁亥に、天皇、大皇弟(ひつぎのみこ)に命じて、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上(うぢのかみ)・民部(かきべ)・家部(やかべ)等の事を宣ふ。
 其の冠は二十六階有り。大織(しき)・小職・大縫(ぶう)・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上、大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建(こん)・小建、是を二十六階とす。前の花を改めて錦と曰ふ。錦より乙に至るまでに十階を加(ま)す。又前の初位一階を加し換へて、大建・小建、二階にす。此を以て異(け)なりとす。餘(あまり)は並(ならび)に前の依(まま)なり。
 其の大氏(おおきうぢ)の氏上(このかみ)には大刀(たち)を賜ふ。小氏の氏上には小刀(かたな)を賜ふ。其の伴造等の氏上には干楯(たて)・弓矢を賜ふ。亦其の民部・家部を定む。


 「繡→縫」「立身→建」とかわり、「花」は(2)の「錦」に戻されている。つまり色は「織・縫・紫・錦・山・乙・建」となり、大・小の2階に分かれる。その上さらに「錦・山・乙」は「上・中・下」3階に分かれる。7色26階。

 この詔を「白村江の戦(4)」で始めて取り上げた。このとき(5年ほど前)は「『日本書紀』に記述をそのまま受取った。そして古田さんの見解に賛同して次のように書いた。

『もしもヤマト王権が「白村江の戦」の総帥だとしたら、敗戦直後のこのはしゃぎようは異状だ。これを古田さんは「世にも不思議な物語」と言っている。(日本古代新史)』

 冠位制(1)(2)(3)はどれも九州王朝によるものだ。九州王朝が倭国の中心権力としてまだ健在だった時期なのだから当然の結論である。それに対して、かつて私は(4)はヤマト王権による制定と考えていたわけだ。

 2回目は「天智称制の秘密(4)」で取り上げた。そこでは上の見解を取り下げている。いま改めて読んでみると、全体の論旨にあいまいな点があった。この詔について論じ直したい。(次回に続く。)
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 コメント
この記事へのコメント
「即物的な改変」と述べられていますが、「色」は仏教上の「法・のり」の意味があり、また647年は九州年号が「常色」と改元されています。「常」も「法」の意味があり、位階を「冠色」で決める法を制定した年にふさわしい改元で、九州年号の意味と一致するのであれば、七色十三階の制度は九州王朝の制度であると考えるべきでしょう。これは仏教に深く帰依し「法王」を自負した多利思北孤の系列の天子にふさわしい改元といえます。
私は「色」には深い宗教的・哲学的な意味があったと考えています。
2011/06/17(金) 23:58 | URL | 一愛読者 #-[ 編集]
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