2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(184)

「天武紀・持統紀」(99)


「大化改新」の真相(22)
「品部廃止の詔」をめぐって(9)


 第三段はこれまでの位階・官位の返上と新規の叙任を布告している。その布告文の前にあるへんてこりんな文を私は第三段に入れたが、それは前段の品部公有化の不満を見越した上での言い訳のようにも取れる。まずその部分だけを読んでみよう。

其の王(きみ)の名を假借(か)りて伴造とし、其の祖(おや)の名に襲據(よ)りて臣・連とす。斯等、深く情(こころ)に悟らず、忽(にはか)に若是(かく)宜(の)る所を聞きて、當(まさ)に思ふらまく、『祖の名、借れる名滅(き)えぬ』とおもふらむ。是に由りて、預(あらかじ)め宣べて、朕(わ)が懐(おも)ふ所を聽き知らしめむ。
王者(きみ)の児(みこ)、相續(つ)ぎて御寓(あめのしたしら)せば、信(まこと)に時の帝(きみ)と祖皇(みおや)の名と、世(よよ)に忘らるべからざることを知る。而るを王(きみ)の名を以て、軽(かろかろ)しく川野(かはの)に掛けて、名を百姓(おほみたから)に呼ぶ、誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者(きみ)の號(みな)は、將に日月(ひつき)に隨ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は、天地と共に長く往くべし。如是(かく)思ふが故に宣(の)たまふ。


 「定説」は、この文に使われている王・王者・帝という語を全て「きみ」と読んでいる。宇治谷氏はここでもすべて天皇と解釈している。

 この論理的にもおかしな文を無理に解釈する必要はないとも思われるが、一応読み取ってみよう。

 初めの「其の王」は国々の「王」であろう。『祖の名、借れる名滅(き)えぬ』という懸念は品部に付けた名のこととも取れる。しかし、「是に由りて」と続けられているが、私の理解力では「是に由りて」の前後の文がまったくつながらない。第一、私には「王」と「帝」を同じとはどうしても思えない。「帝」と「王」は同列に扱える言葉ではない。

【帝】
ミカド。天子、帝王。又にもいふ。

 しかも、あの「御寓」という言葉も副えられている。これは九州王朝の天皇である。この段階では九州王朝の天皇をまったく廃するということは公言されていなかったものと思われる。九州(西海道)は九州王朝の天皇の治下とするような合意があったのではないだろうか。

 次の「而るを…誠に可畏(かしこ)し」という文中の「王」は、今度は諸国の王ではなく、九州王朝の天皇を指しているとしか、私には読めない。また、この文が言っていることは逆立ちした論理としか言いようがない。〈大系〉の頭注は「集解に、安寧天皇の名磯城津彦の磯城が大和の磯城郡・磯城野などの地名にある如しという。」と、原文を真っ正直に受けた『書紀集解』の注釈を紹介している。ヤマト王権一元主義に呪縛されていると、このような非常識な言説が受け入れられてしまう。先に地名があったのに決まっているではないか。

 さて第四段の本文。

祖子より始めて、奉仕(つかへまつ)る卿大夫(まへつきみたち)・臣・連・伴造・氏氏(うぢうぢ)の人等、〈或本に云はく、名名(なな)の王民(おほみたから)といふ。〉咸(ことごとくに)に聽聞(うけたまは)るべし。今汝等(いましたち)を以て、使仕(つか)ふべき狀(かたち)は、舊(もとの)の職(つかさ)を改去(す)てて、新(あらた)に百官(もものつかさ)を設け、位階(くらゐのしな)を著(あらは)して、官位(つかさくらゐ)を以て敍けたまはむ。

 「如是(かく)思ふが故に…」と前段を引き継いでいるのだから、「祖子より始めて」の「祖子」は「王者の祖子」つまり皇子(九州王朝)を指している。皇子たちもこの布告の対象者に入っていた。

 以上のように読んでみたが、本当におかしな文章である。あれこれ訳の分からないことを言い立てて、「聽聞(うけたまは)」っている人たちを煙に巻いているような文章だ。

 要するにこの第三段で言っていることは次の三点に尽きる。

① 旧の官位・位階は廃止する。
② 新たな官位・位階を設ける。
③それに従って改めて叙位・叙官をする。

 ①は勿論九州王朝が与えたものである。②・③を実行した記事はどこかにあるのだろうか。「孝徳紀」の中で探すとすれば、②については大化3年是年条に冠位(13階)制定記事がある。おかしなことに冠位制定記事は2年後の大化5年2月条にもある。こちらは19階である。後者は「冠十九階を制(つく)る」とあり、「改定」とは書いてない。しかし「定説」は大化3年の冠位を「更に改めたもの」と解釈している。③に当たる記事は「孝徳紀」にはない。この問題(②③に当たる記事探し)は冠位制の変遷を踏まえて考える必要がありそうだ。後に検討してみよう。

 ここで気付いたことががある。近畿王朝は各国の王たちの国の支配権を奪って、中央から派遣する国司に変えた。そのためだろう、『続日本紀』にはたくさんの無位の王が登場する。ちょっとだけ調べてみた。無位の王たちへの叙位は704(慶雲元)年から718(養老2)年の間だけでもざっと34名にのぼる。

 九州王朝治下でも無位の王や臣下はいたであろう。『日本書紀』でも「無位」という用語が使われているのかどうか、調べてみた。なんと、「持統紀」にだけ出てくる。3件あった。

 「音韻学者・森博達氏の証言」で紹介したように、森氏による分類では「持統紀」(巻30)はα群にもβ群にも入れられず、他の巻とは異質ななものとされている。これもその一つの例になるだろう。後に使うかも知れないので「持統紀の「無位」を含む記事を転載しておく。

(1) 昇進のための選考基準のようだ。持統はこの年の1月1日に即位している。

690(持統4)年4月14日
庚申(かのえさるのひ)に、詔して曰はく、「百官の人及び畿内の人の、位有る者は六年を限れ。位無(な)き者は七年を限れ。其の上(つかへまつ)れる日(ひかず)を以て、九等(ここのつのしな)に選び定めよ。四等(よつのしな)より以上は、考仕令(こうじりょう)の依(まま)に、其の善最(よさいさをしさ)・功能(いたはりしわざ)、氏姓の大小を以て、量りで冠位授けむ。(以下略)

(2) 新京(藤原京)での宅地配分の規定。この年の10月27日に藤原京の地鎮祭が行われている。

691(持統5)年12月8日
乙巳(きのとのみのひ)に詔して曰はく、「右大臣に賜ふ宅地四町。直廣貳(ぢきくわうに)より以上には二町。大參(だいさむ)より以下には一町。勤(ごん)より以下、無位に至るまでは、其の戸口(へひと)に隨(したが)はむ。其の上戸(かみつべ)には一町。中戸(なかつへ)には半町。下戸(しもつへ)には四分之一。王等も此(これ)に准(なぞら)へよ」とのたまふ。

(3) 無位の者を郡司に任用するときの位階を規定している。「② 新たな官位・位階を設ける」の一つと考えられるだろうか。(後に取り上げることになるかも知れない。)

694(持統8)年3月11日
甲午(きのえのうまのひ)に、詔して日はく、「凡そ位無からむ人を以て、郡司(こほりのみやつこ)に任(ま)くるには、進廣貳(しんくわうに)を以て大領(こほりのみやつこ)に授け、進大參(しんだいさん)を以て小領(すけのみやつこ)に授けよ」とのたまふ。
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