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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(180)< BR>
「天武紀・持統紀」(95)


「大化改新」の真相(18)
「品部廃止の詔」をめぐって(6)


 筑後国風土記の「磐井の乱」記事が8世紀 に加筆されたものなら、前々回のA型風土記 の「撰進の詔」が出された年の推定は再考し なければならない。なぜなら、磐井の滅亡年 (531年)を論拠にした取捨選択だったのだ から。そうすると(A)523(継体17)年が候補 として残ることになる。私はこの年こそが第 一候補だと思う。筑紫の君・磐井の最も大き な業績は律令の制定だ。律令の制定と共に風 土記撰進も行われたとしても不思議はない。

 さて、「井の中」では、「国」という地方 行政区画が画一的に定められたのは大化改新 以後、という津田説が「定説」になっている ようだ。従ってとうぜん、それ以前の「県」 を無視することになる。しかし、神武東侵を 史実とする私(たち)の立場からは「神武 紀」以後の全ての「県」を対象にしなければ なるまい。古田さんは『日本書紀』の「景行 紀」以前の「県」を取り出して論を進めてい る。ここでは『「品部廃止の詔」をめぐって(3)』に掲載した〈大系〉補注の 調査結果を利用しよう。今度は各地名の読み 方も付記しておく。

〔県主名(県名も含む)〕
菟田下(うだしも)・菟田・曾富(そほ)・猛田 (たけだ)・磯城(しき)・葛野(かづの)(神武 紀)
磯城・春日(かすが)(綏靖紀)
磯城(安寧・懿徳・孝昭・孝元・孝安紀)
茅渟(ちぬ)(崇神紀)
〈以上は全て近畿で9ヶ所。古田さんの表は 葛野を欠いていた。〉
長峡(ながお)・直入(なおり)・子湯(こゆ)・ 諸(もろ)・熊(くま)・八代(やつしろ)・高来 (たかく)・八女(やめ)・水沼(みぬま)(景行 紀)
〈以上は九州で9ヶ所。〉

 この結果について古田さんは次のように分 析している。

(1)
 近畿については、「東鯷国」(銅鐸 国家)の行政単位に「県」があった。それを 侵入者たる近畿天皇家が継承したのである。

(2)
 九州については、先にのべたように、九州 王朝の行政単位の反映であった。

 近畿天皇家(神武たち兄弟)は、その県を行 政単位とする国としての倭国(九州)の一端か ら出発して、近畿に侵入したのであった。し たがって「東鯷国」の「県」制を継承 したのは、むしろ当然かもしれぬ。

(ただ漢字で「県」とあらわされたものの訓 みが、すべて「あがた」であったかどうかは 明らかではない。)

(その後古田さんは見解を変えて、東鯷国を南九州に比定しているようだ。ま た銅鐸国には狗奴国を比定している。以下本 文では東鯷国ではなく銅鐸国を用いる ことにする。)

 倭国も銅鐸国も早くから「県」という行政 単位を用いていたことになる。倭国(九州王 朝)の「県」が「景行紀」に集中して現れる のは「景行の九州大遠征」が、実は「前つ君 の九州一円平定譚」の盗用記事だからである 「景行紀」の遠征地図を再掲載しておこう。

景行紀

 さらに、「功紀」・「仲哀紀」の「筑後 征伐譚」も盗用記事であり、ここにも倭国の 「県」が現れている。

功紀
伊覩(いと)・山門(やまと)・松浦(まつら)< BR> 仲哀紀
儺(な)/伊覩(いと)崗(おか)

(景行紀・功紀・仲哀紀の盗用記事につい ては「九州王朝の形成」で詳し く紹介しています。参照してください。)

 以上により、九州王朝が「県」という行政 単位を用いていたことは確かな事実である。 勿論これは中国の制度にならったものである 〈大系は〉「国県」の頭注で「中国の熟字と しては落着かない」と書いていたが、「国 県」制は決して奇異な概念ではない。ここで 中国の行政制度の変遷をみてみよう。

 「九州王朝にも風土記があった」にふんだ んに史料を用いた詳しい論考がある。また、 「二つの風土記」ではそれの要点を簡潔にま とめたものがある。私にとってはほとんど未 知の事項なので、欲張って二つとも引用して おく。まず「二つの風土記」の記述で全体像 を。

 古墳時代の「倭国」が臣事していた、中国 の六朝、そこには「国県制」があった。

蜀郡太守、秦立つ。晋の武帝の太康中、改め て成都国と曰う。後、旧に復す。県五を領 す」(『宋書』州郡志、四)

 中国の制度史の要点をあげよう。
(a)
 周の封建制。天子のもとに「国」があった
(b)
 秦の郡県制。天下に「郡」をおき、その下 に「県」をおいた。
(c)
 漢の郡国制。天下に「郡」と「国」をおき それぞれの下に「県」があった。

 この制度は、「漢→魏→西晋→東晋→南朝 劉宋→(南斉)→(梁)→(陳)」と連続し た。その一つが右にあげた『宋書』の実例だ ったのである。

 したがって後漢の光武帝のときも、倭国の 帥升(すいしょう)のときも、卑弥呼・壱与の ときも、倭の五王のときも、筑紫の君、磐井 のときも、中国には「郡-県」と共に、問題 の「国―県」の制が国の中に存在した。倭国 の王たちは、皆それを知っていた。したがっ て自己の国(倭国)の中に「県」をおいたこ と、それは当然だった。

 その倭国において最初に成立した『風土 記』、それがA型の「県の『風土記』」であ ったこと、それはいわば、当然至極のことだ ったのである。

 つぎは「九州王朝にも風土記があった」か ら、史料を用いた詳しい論考を引用する。長 いです。

 先ず周(しゅう)の封建制。
 斉(せい)・趙(ちょう)・魯(ろ)・燕(え ん)・楚(そ)、といった国々が並立し、中心 に周王朝があった。あの蘇秦(そしん)、張儀 (ちようぎ)等の合従連衡(がつしようれんこ う)の術策も、このような各「国」の間に生 れたエピソードだったのである。

 次に秦(しん)の郡県制。
 「県」が誕生した。かつての「国」は 「郡」に代り、中央から派遣された官僚が支 配した。そしてその下部単位として「県」が おかれたのである。

 次が漢(かん)の郡国制。
 これは全国を「国」と「郡」の折衷型とし 「国」では漢の高祖の一族や功臣が「王」と なり、「郡」では、秦代のように中央からの 派遣官僚が統治した。そして右のいずれにお いても、下部単位は「県」だったのである。 たとえば、

山陽(さんよう)郡(故、梁。景帝中六年、別 れて山陽国為(た)り。武帝の建元(けんげん 五年、別れて郡為り。莽(もう)、鉅野(きょ や)と曰(い)う。兗(えん)州に属す)… …県二十三(『漢書』地理志上)

楚国(高帝置く。宣帝の地節(ちせつ)元年、 更に彭城(ほうじょう)郡為り。黄竜(こうり ょう)元年、故(もと)に復す。莽、和楽(わら く)と曰う、徐州に属す)……県七」(『漢 書』地理志下)


 われわれにおなじみの楽浪郡・帯方郡など も、その「郡」の一つだったのである。この 制度は魏、西晋へとうけつがれた。『三国 志』の各列伝の冒頭に、

李典(りてん)、字は曼成(まんせい)、山陽・ 鉅野の人なり」(『魏志』巻十八)

といった風の形で書かれているのは、山陽郡 鉦野県の出身であることをしめす。また『魏 志』の彭城王拠(きょ)伝に「国・郡・県」を めぐる興味深い詔がのせられている。

(黄初5五年、224、文帝)詔して曰(い)わく 『先王、 を建て、時に随(したが)って制す。漢祖、秦 の置く所のを増す。光武に至り、天下損耗(そんこ う)せしを以て、幷せて郡県を省く。今を以て之に 比すれば、益ゝ及ばず。其れ、諸王を改封し て、皆王 と為す』
拠、定陶(ていとう)県に改封せらる。太和 (たいわ)六年(232)諸王を改封し、皆を以てと為す。拠、復 (また)、彭城に封ぜらる。景初元年(273)、 拠、私(ひそか)に人を遣わして中尚方(ちゅ うしょうほう)に詣(いた)り、禁物を作るに 坐(ざ)し、県二千戸を削らる。」(『魏志』 巻二十)


 制度改変の錯綜した記事の間に「郡―県」 「国―県」制の存在が明瞭にうかがわれよう また『宋書』州郡志には、

益(えき)州刺史、漢の武帝、梁(りょう)州を 分けて立つ、治する所、別に梁州を見る。< FONT COLOR="#FF0000">郡二十九、一百二十八 を領す。
蜀(しょく)郡太守、秦立つ。晋の武帝の太康 (たいこう)中、改めて成都(せいと)と曰う。後、旧 に復す。 五を領す。(『宋書』州郡志四)

とあり、州のもとに「郡・国・県」の存在す る状況がうかがえる。さらに『隋書』地理志 では、

天監(てんかん)十年(511、梁武帝)、州二十 三・三百五十・千 二十二有り。(中略)
高祖、終を受け、朝政を惟新(いしん)す。開 皇(かいこう)三年(583)、遂に諸を廃す。……州を析置(たくち)す。煬帝(ようだい)、位を嗣ぐ。……既にして諸州を併省し、尋(つ)いで州を改めてと為す……大凡(おおよそ)一百九十、一千二百五十五。(『隋書』地理志上)


とあるように、変改の中にも、“州もしくは 郡のもとに県”という制度は代々うけつがれ ていたようである。

 さて以上のように、中国の「県」制は連綿 と連続していた。その長年代の間、臣属・国 交をつづけてきた倭国側はこの影響をうけな いままにきたのであろうか。いいかえれば、 この制度だけは敢(あ)えて“とり入れず”に 拒否してきたのであろうか。

 先ず『三国志』の倭人伝について考えてみ よう。

古(いにしえ)より以来、其の使、中国に詣る や、皆自ら大夫と称す。

 倭国は周代の「卿(けい)・大夫(たいふ)・ 士(し)」の制度をうけ入れ、その名によって 貢献していた。「大夫」とは、当然周代の 「国」のもとにおける制度である。さすれば “「大夫」を名乗った”ということは、“周 の天子のもとにおける「国」”の位置に、み ずからの倭国をおいていた、ということの表 現であろう(ここで「古」という言葉 は「周以前」を意味する。『邪馬一国への道 標』参照)。

 次いで志賀(しかの)島の金印。この「漢委 奴王印」 の「国」とは、当然漢の「郡国制」下の 「国」を意味する概念である。少なくとも、 中国本土内において、その「国」の下には 「県」の存したこと、前述のごとくである。

 ふたたび『三国志』。卑弥呼が親魏倭王の 称号をえたと共に、その配下の難升米(なん しょうまい)・掖邪狗(えきやこ)等は率善中 郎将(そつぜんちゅうろうじょう)、牛利(ぎ ゅうり)は率善校尉(そつぜんこうい)という 中国称号を与えられた。すなわち倭国では女 王も、その主要な配下も中国式制度の中の称 号によっていたのである。

 そして注目すべきこと、それは卑弥呼の使 者たちが帯方郡へ往来するとき、帯方郡治 (ち)にいたる前に、“幾多の帯方郡内の 「県」を通過していたこと”、それは疑う余 地がないという点だ。少なくとも「郡―県」 の制度は三世紀以降の倭人(の支配層)にとっ て周知のところであった。そして洛陽に至っ た難升米たちは当然、その途中「国―県」の 制の中を行き、この制を知悉したのである。

 次に『宋書』。倭王武は中国の天子に対し て「臣」を称し、「藩」を称し、例の将軍号 などの中国式称号を倭王以下、愛用していた 「自称」さえした。ここに及んでも、なおか つ中国式の「県」制度に対しては無関心だっ たのだろうか。

 以上の状況を総括すれば、三世紀以降にお いて倭国がいつ中国式「国―県」制を模倣し 襲用したとしても、不思議はない。もちろん 必ずしも中国式発音で「県」と呼んだという 意味ではないけれども、中国の天子の配下の 倭王として「国―県」制を襲用していた可能 性はきわめて高い。そのようにいいうるであ ろう。

 そして反面、記・紀のしめすように、“九 州において「県」の出現が多く、かつ早い” このような史料上の痕跡に出会うのである。

 以上のような考察に立ってふりかえれば、 “邪馬一国―九州王朝の故地において、中国 風の「国―県」制(に相当する行政単位)が施 行されていた”という、この命題は、実は何 の他奇も存しないところなのであった。なぜ ならこの日本列島を代表する一中心国が“行 政制度をもたぬ”ことはありえず、またその 行政制度に対して“中国の行政制度が影響し ていない”そのような状況の方が逆に考えが たいところだからである。

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