2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(179)

「天武紀・持統紀」(94)


「大化改新」の真相(17)
「品部廃止の詔」をめぐって(5)の追記


(19日に一度アップロードしたのですが、不備な点があったので取り下げで書き直しました。不備の記事を読んでいた方、ごめんなさい。)

 前回の私の戸惑いに対して、向井藤司さんがコメントを寄せてくださいました。ありがとうございます。コメントの内容は三点あります。

――――――――――

第一点
 今回の混乱の1つは、履中紀の国史設置時期と釈日本紀に逸文がみえる筑後国風土記の成立時期を混同して議論をしているのではないかと思います。

 国史の設置時期は癸卯年8月8日、筑後国風土記の成立時期は「磐井の乱」以後、あるいは郭務悰の占領軍の後(8世紀初頭)ということではないか。

 問題は釈日本紀に逸文がみえる「縣」で書かれた筑後国風土記の成立時期が「磐井の乱」の数十年後、あるいは郭務悰の占領軍の後(8世紀初頭)のどちらかということになる。

 古田さんの「唐占領軍の暴状」説ならば、8世紀初頭にはまだ筑後国は風土記編纂能力を有していたということになる。大長が712年まで続いていたことから考えると可能性のある話ではあると思います。

 講演録『「磐井の乱」はなかった』の中の一文
『「玆」で、現在というのは8世紀前半以後『風土記』が作られて以後です。』
に困っていたのだった。困っていた点を少し詳しく分析してみる。

古老(ふるおきな)の傳へて云へらく、上妻の縣に多く篤(あつ)き疾(やまひ)あるは、蓋(けだ)しくは玆(これ)に由るか。

 問題の文は筑後風土記の上の文についての解釈の中で発語されている。


 「玆」というのは磐井の墓の石人や石馬が破壊された「暴状」を指している。

 「現在」とは古老が上のように証言している時期のことである。(あるいは証言の内容が示す事態の時期)

 「8世紀前半以後」というのは713(和銅6)年の「風土記撰進の詔」を念頭においた発語である。

 『風土記』とは「筑後国風土記」を指している。あるいは上の詔に従って作られた全ての風土記を指しているとしても「筑後国風土記」を含む。

 前回、私がこだわったのは筑後国風土記の成立時期とそれがA型のはずだという二点だった。和銅6年の詔に従って作られたとしたらそれはB型でなければならない。

 ③が和銅6年の詔とは無関係の発語だとして、単純に「筑後国風土記は8世紀前半以後に作られた」と読むこともできる。向井さんのご指摘のように、「筑後国風土記の成立は8世紀前半以後」ということは大いにある得ることだと思う。しかしその場合は、その論証が必要だ。

 私にはこのようにしか読めないので戸惑ったわけだった。しかし、あの一文全体を私の理解で翻訳(?)してみるとますますおかしくなる。
「古老が証言をした時期(あるいは証言内容)は8世紀前半以後、筑後国風土記が作られた以後のことである。」
 風土記に古老の証言が記録されているのだから、「風土記が作られた…以前である」としなければおかしくないか。

 『「磐井の乱」はなかった』は講演録だから、くだんの文は舌足らずの不用意な発語と考えるほかないだろうか。この一文だけ取り出してあまり厳密に読むのが間違いなのかも知れない。「木を見て森を見ず」ということになりかねない。この文を捨てて仕切り直そう。

 古田さんはA型風土記9例を全文掲載している。「筑後国風土記」の磐井関連記事は(6)番目にある。またそれらを三種類に分類して、その分類の根拠を示している。
第一はA型風土記純粋な形をとどめているもの。
第二は後代(大和王朝側)の手が加わっているもの。
第三は断片で「県」の表記はないが、「筑紫風土記」の存在を示しているもの。

 (6)は第二の一つであり、古田さんは次のように述べている。

 問題は(6)だ。すでに『失われた九州王朝』第四章Ⅰでのべたように、この文面全体は、筑紫の君磐井に対して同情的である。「磐井を斬る」といった、記紀風の描写法ではなく、「独り自ら……南山峻嶺の曲(くま)に終る」とのべている。あたかも有徳の君子の崩御を悼むふうだ。

 また継体側(物部大連麁鹿火(あらかい)の軍の行動に対しては「石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕(おと)しき」といい、その暴虐を鳴らすような筆致である。

 ところが、その中に突如「雄大迹の天皇の世に当り……皇風に偃(したが)はず」という一文が挿入されている。唐突だ。「皇風」の用語は、明らかに近畿天皇家側の手によるものだ。

 全体の文調に反した、一種露骨なこの一文。ここにもっとも典型的な改作の手の痕跡がしめされている。これが「第二式」だ。

 またこの(6)の「雄大迹の天皇の世に当り」の一句に注目したい。これは近畿天皇家側の方式による絶対年代のしめし方である。当然、改作の手による表現である。

 「磐井の乱」記事の「雄大迹の天皇の世に当り……皇風に偃(したが)はず」という一文は後代に挿入されたものであると言う。そしてこれが「改作の手の痕跡」であるという。これはよく納得できる。

 では「磐井の乱」の文全体も挿入されたものなのか。上の引用文では記事全体が挿入されているとは、私には読めない。「あたかも有徳の君子の崩御を悼むふう」に同情的に書かれているのは九州王朝の人物の手になるからだろう。そうすると、一部改変されているが、文全体が後代に挿入されたのではないとしか考えられなくなってくる。でもそうすると「磐井の乱」は「唐占領軍の暴状」隠しのために書かれたという古田説と整合しない。その古田説が成り立つためには「磐井の乱」記事全体が作文挿入されたものでなければならない。

 講演録『「磐井の乱」はなかった』ではその点もあいまいである。筑後風土記の「磐井の乱」記事は「唐占領軍の暴状」記事であることをキチンと論じた論文はないものかと探した。『古田武彦と「百問百答」』にあった。(a)「P10~P16」と(b)「P26~P28」と二ヶ所にあった。私が悩んでいる部分だけ抄出する。

(a)
(①「磐井の墓」記事・②「磐井の乱」記事・③最後の「古老の伝えて…」記事と分けて論じている。)

 「県、風土記」そのものは、いわゆる「郡、風土記」に対して〝古型″ですが、その〝古型″をしめす①に対し、次々と「改削」「加文」がプラスされた〝混合型″。これがこの史料の性格です。

 以上の史料批判に到達したとき、わたしには「磐井(或は、継体)の乱」をリアルな史実と見る立場から、キッパリと手を切らざるをえなくなったのです。


 決定的だったのは、右の③です。岩波の日本古典文学大系本では、次のように注釈しています。
 「篤疾」
 不具の類。戸令に両目盲・二支廃(両脚発育不完全、歩行不能)・癲狂などを篤疾としている。

 「玆(これ)に由るか」
 磐井君の崇りという意。

 風土記の成立は、8世紀中葉です。いわゆる「磐井の乱」は6世紀前半。その当時の「破壊行為」の〝たたり″で、二百年以上もあとに、現地に「不具の人たち」が生れる。-そんなことがありうるでしょうか。」

(b)

 わたしはこの「石人・石馬の破壊」は、6六世紀はじめの「磐井関連」」ではなく、7世紀後半、筑紫へ「進駐」してきた戦勝国(唐)とそれに協力した近畿天皇家の手による破壊。-そう考えています。

 だからこそ、その際〝抵抗″し、〝手や足を傷つけられた″人々が、「不具者」として、八世紀前半まで、〝生き残って″いたのです。

 筑後国風土記の、ここの文には「文型の誤差」がありありとしめされています。
「雄大迹(をほど)の天皇のみ世に当りで、筑後君磐井、豪強(つよ)く暴虐(あら)くして、皇風に偃(したが)はず。云々」
の一節です。

 これは、「後代挿入」の文調です。本来は冒頭部のしめす「県(「郡」ではなく)風土記」。それをあとで(8世紀)〝作り変えて″いるのです。

 私の疑問に直接答えてくれる文はない。やはり「風土記の成立は、8世紀中葉です」としている。ただほかの二つの赤字部分から推し量り、次のように理解した。

 「古型」のA型風土記があって、それを次々と「改削」「加文」していった。古田さんが言う「風土記の成立」とは近畿王朝による「改削」「加文」のことを指している。そして「古型」は①だけであり、②と③丸ごとの「加文」である。

 このように理解したが、そうすると後に加文された②が磐井に同情的に書かれているのは何故か、という問題が残る。これに対しては、今のことろ、加文担当者が九州王朝出身の吏官だったのではないか、と考えている。

 以上でひとまず打ち切ることにしよう。

――――――――――

 向井さんに再考を促していただきました。ありがとうございました。次にコメントの第二点に触れておきます。

第二点
 ところで、「大化改新」の真相(8)~(9)に展開された復元年表はとても怪我の功名とはなっていないと考えています。

 といいますのは、正木さんが論じておられるように大化の改新の詔は藤原宮の東門でなされていると考えるのが自然であって、貴殿の復元年表では藤原宮の東門はまだ完成していない時期の詔となってしまうこと。さらに、年表復元のプロセス(書紀作者の盗作・改ざんプロセスの設定)に問題があることからです。

 「大化の改新の詔は藤原宮の東門でなされている」という正木説が書かれている論文をまだ目にしておりません。教えていただけるとありがたいです。また、「年表復元のプロセス(書紀作者の盗作・改ざんプロセスの設定)」の意味がよく分かりません。もう少し詳しく教えていただけるとありがたいです。真摯に見直したいと思います。

第三点
 本件とは全く関係がないのですが、「狗奴国の位置」について古田さんの最新の研究成果についてご存知でしたら教えて下さい。 東京古田会から発行されている『古田武彦と「百問百答」』の「8(1)」(pp.116-118)に『「狗奴国の位置」に関する記事は、三国志の魏志倭人伝には、ない。』と書かれていますが、私は魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」の記事から狗奴國は女王国の南にあると(里程記事はないが)書かれていると思っていました。確かに後漢書には「自女王國東度海千餘里至拘奴國」とあります。魏志と後漢書の「狗奴國」記事についてトータルとしてどう理解すればよいのでしょうか。

 私としては「9(1)」(p129)の質問者のように范瞱が魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」と「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」を混同していると考える方がすっきりと分かるのですが。

 難しそうな問題ですね。私には手に負えない問題のようです。向井さんのコメントを読んで、書きかけていた記事を中断しています(次回アップする予定です)。その中に次の一文があります。

「その後古田さんは見解を変えて、東鯷国を南九州に比定しているようだ。また銅鐸国には狗奴国を比定している。以下本文では東鯷国ではなく銅鐸国を用いることにする。」

 この古田説と関係するのですね。さいわい『古田武彦と「百問百答」』は手元にありますので、読んでみます。銅鐸国に狗奴国を比定した古田さんの論証が詳しく読めるとよいのですが…。

 このようにリアルタイムに意見が交換できるといいですね。これからもよろしくお願いします。
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ご連絡
こんにちは
早速取り上げて頂いてありがとうございました。

お問合せの正木さんの論証は「古田史学会報87号」に掲載されています。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou87/kaihou87.html


『年表復元のプロセス(書紀作者の盗作・改ざんプロセスの設定)』という言葉は独りよがりの用語で大変失礼しました。(投稿するのに熟慮する時間がなかったのでついつい情念で書いてしまいました。)

正木さんは、書紀作者の盗作・改ざんプロセスとして九州年号記事を大和年号記事に付け替えている(例えば大化の改新では、「九州年号大化二年(六九六)」の記事を「書紀大化二年」に付け替えた)という仮説を設定して、それをリバースエンジニアリングして復元年表を作成し、その内容の妥当性を検証するというスタイルです。
一方、貴殿の場合は、暦の干支から追って行って暦日の合う年次に記事を移動させて(今回の怪我の事例では、朔日および暦日の合う年次に記事を移動させて)、復元年表を作成されました。朔日および暦日の合う年次は暦の性格からいって何年かに1回は巡ってきます。まして暦日だけの合致を求めるならば数ヶ月に1回は合致します。したがって朔日・暦日が合致する年次に記事を移動するという方法は恣意的な記事移動に近いと思います。

最後に、拘奴国の件もよろしくお願いします。

以上
2011/05/20(金) 21:14 | URL | 向井 藤司 #-[ 編集]
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