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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(178)

「天武紀・持統紀」(93)


「大化改新」の真相(16)
「品部廃止の詔」をめぐって(5)


 A型風土記はいつ頃撰進されたのだろうか。「井の中」では「漢籍を模倣した後世の造作」として見捨てられている「履中紀」の「風土記撰進の詔」に戻ろう。再度掲載する。

 403(履中4 干支年・癸卯)年8月8日
四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸国に国史を置く。言事を記して、四方の志を達す。

 これが九州王朝の史書からの盗用記事であることはすでに述べた。では『日本書紀』編纂者はなぜこの記事をこのように唐突に盗用したのだろうか。

 A型風土記は、『釈日本紀』などに引用されているのだから、とうぜんその原本(あるいはその一部)は残っていた。『日本書紀』編纂者はB型風土記に先行してA型風土記が撰進されていたことを知っていたのだ。これを無視している現在の学者たちとは異なり、彼らはこれを無視することはできなかった。A型風土記もヤマト王権による撰進と偽装する必要があった。

 「履中紀」は短い。その内容も「磐余の池を作って遊んだ」とか「淡路島で狩りをした」とか「妃が亡くなって新しい妃を娶った」とかいうような記事ばかりである。「風土記撰進の詔」は「履中紀」の中では、ポツンと置かれたようで、本当に唐突で異質な記事なのだ。履中前後には仁徳とか雄略とか、華々しい事績を持つ大王がいる。「仁徳紀」あるいは「雄略紀」に挿入した方が格好が付くだろうに、なぜそれを「履中紀」に置いたのだろうか。

 「応神朝に文字の伝来を記したこと」と連動した造作だという津田左右吉説が当たっていると思われる。ただし、私(たち)の立場ではここでの造作は、編纂者の作文という意味ではなく、九州王朝の史書からの盗用という意味である。この場合もやはり、なぜ「仁徳紀」でなく「履中紀」なのかという問は変わらない。

 答は一つしかない。原史料の干支に従って選んだのだ。A型風土記は見事な漢文で書かれているという。そしてさらに、文字伝来説話と連動した盗用なのだから履中以前ではあり得ない。履中以後の干支年・癸卯を探してみよう。また、『続日本紀』の「風土記撰進の詔」(713年)以前だから候補年は次の四つになる。

(A)523(継体17)年
(B)583(敏達12)年
(C)643(皇極2)年
(D)703(大宝3)年

 (D)は近畿王朝の時代だから該当しない。

 (A)については、古田さんは
「A型『風土記』は磐井の滅亡(531年)の記事をふくんでいる。したがって当然、そ れよりあとだ。だから(A)は失格である」
と言っている。

 付け焼き刃のにわか知識で行っている私の盲点が指摘された思いだ。私は「壬申の乱(21)」で「筑後国風土記」の磐井関連記事の前半を引用している。改めて読むと「県」を用いて書かれている。なんとこれはA型風土記だった。〈大系〉版『風土記』には「筑紫風土記」がないので、〈大系〉版に収録されている風土記はすべてB型と思い込んでいたのだった。

 戻ろう。残りの候補(B)・(C)について、古田さんは次のように述べている。

 わたしには583年の方が、より妥当だと思われる。なぜなら、上の磐井君の記事において、継体軍の暴状が克明に記録された上、「石人・石盾、各六十枚、交陣成行」といった原形状が明晰にしるされている。さらに、「上妻県、多く篤疾有りき」という古老の言葉を伝えている。したがって、磐井の滅亡(531年)から52年あとの583年の方が、112年あとの643年より、よりふさわしい、と思われる。

 以上、583年が、A型『風土記』の成立時点として、よりふさわしいようである。もちろん、これは一つの試論にすぎず、あまりにも多くの仮定をふくんでいるものであるけれども。

 古田さんは慎重に「一つの試論にすぎず」と書いているが、私はここで思いもよらないとっても悩ましい問題に気付いてしまった。古田さんが(C)より(B)の方が「よりふさわしいようである」としている論拠の「継体軍の暴状」記事である。この記事は「筑後国風土記」の磐井関連記事の後半部分(いわゆる「磐井の乱」)である。私はこれを「占領軍は何をしに来たのか(3)」で読んでいる。なぜそのようなテーマのところで磐井が関係するのかというと、「占領軍は何をしに来たのか(3)」で、風土記が描く①「継体軍の暴状」は実は②「唐占領軍の暴状」であったと古田さんの新しい論を取り上げたのだった。

 ①の方が正しければ「(B)の方がふさわしい」という判断は成り立つのだが、もしも②が正しいとすると、「筑後国風土記」が書かれた時代は7世紀後半以降となってしまい、(B)も(C)もだめで、(D)が浮上してくる。

 もしも②が正しい場合もう一つの解釈が可能だ。「磐井の乱」記事は後代(7世紀後半)に書き加えられたと解釈すれば、「(B)の方がふさわしい」はそのままでよいことになる。しかしこの論法は私(たち)が否定してきた「井の中」の恣意的な解釈と同じで、これを採用することはできない。困った。

 改めて「占領軍は何をしに来たのか(3)」を読み直してみた。結論を先に言うと、どうやら古田さんの②説の方を否定しなくてはならないようだ。

 ②説の論証のかなめは磐井関連記事の最後の文「古老(ふるおきな)の傳へて云へらく、上妻の縣に多く篤(あつ)き疾(やまひ)あるは、蓋(けだ)しくは玆(これ)に由るか」の「玆」の解釈である。これについて古田さんは
『「玆」で、現在というのは8世紀前半以後『風土記』が作られて以後です。』
と述べている。つまり「筑後国風土記」をB型と判断しているのだ。この文を初めて読んだときは、もちろん私は二種類の風土記があることなど知らなかったので、②説にびっくりしながらもその論証を納得してしまった。しかし、「筑後国風土記」がA型であることを知ってしまった今は②説を否定せざるを得ない。こういう結論になってしまった。

 ②説は2004年に行われた講演『「磐井の乱」はなかった』の講演録である。『よみがえる九州王朝』出版より20年ほど後の講演である。すでに二種類の風土記を論じ終わっていた古田さんが、A型とB型を一緒くたに扱うとはどうしたことだろう。

 今回は予定外の思いがけない問題が加わってしまった。厳密な論理と慎重な判断で論究を重ねておいでの古田さんがこのような単純なミスをするとは考え難いのだが…。私の読みに何か間違いがあるのだろうか。私はとんでもないうっかりミスしばしばしでかします。どなたかお気づきのことがありましたら、お教えください。
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この記事へのコメント
感想とご質問
こんにちは。 いつも(不定期に)楽しく拝読しています。
むつかしい局面にきているので大したコメントはできません。とりあえず感想だけです。

今回の混乱の1つは、履中紀の国史設置時期と釈日本紀に逸文がみえる筑後国風土記の成立時期を混同して議論をしているのではないかと思います。
国史の設置時期は癸卯年8月8日、筑後国風土記の成立時期は「磐井の乱」以後、あるいは郭務悰の占領軍の後(8世紀初頭)ということではないか。

問題は釈日本紀に逸文がみえる「縣」で書かれた筑後国風土記の成立時期が「磐井の乱」の数十年後、あるいは郭務悰の占領軍の後(8世紀初頭)のどちらかということになる。

古田さんの「唐占領軍の暴状」説ならば、8世紀初頭にはまだ筑後国は風土記編纂能力を有していたということになる。大長が712年まで続いていたことから考えると可能性のある話ではあると思います。


ところで、「大化改新」の真相(8)~(9)に展開された復元年表はとても怪我の功名とはなっていないと考えています。 といいますのは、正木さんが論じておられるように大化の改新の詔は藤原宮の東門でなされていると考えるのが自然であって、貴殿の復元年表では藤原宮の東門はまだ完成していない時期の詔となってしまうこと。さらに、年表復元のプロセス(書紀作者の盗作・改ざんプロセスの設定)に問題があることからです。


本件とは全く関係がないのですが、「狗奴国の位置」について古田さんの最新の研究成果についてご存知でしたら教えて下さい。
東京古田会から発行されている『古田武彦と「百問百答」』の
「8(1)」(pp.116-118)に『「狗奴国の位置」に関する記事は、三国志の魏志倭人伝には、ない。』
と書かれていますが、
私は魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」の記事から狗奴國は女王国の南にあると(里程記事はないが)書かれていると思っていました。
確かに後漢書には「自女王國東度海千餘里至拘奴國」とあります。

魏志と後漢書の「狗奴國」記事についてトータルとしてどう理解すればよいのでしょうか。  私としては「9(1)」(p129)の質問者のように范瞱が魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」と「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」を混同していると考える方がすっきりと分かるのですが。


以上、よろしくお願いします。
2011/05/19(木) 06:12 | URL | 向井 藤司 #-[ 編集]
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