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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(177)

「天武紀・持統紀」(92)


「大化改新」の真相(15)
「品部廃止の詔」をめぐって(4)


 ここまできて、『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』だけでの学習に限界を感じている。なにか他に手掛かりはないかと、久しぶりに手元にある古田さんの著作を調べみた。必要なときに必要な所しか読んでいなかった①『法隆寺の中の九州王朝』(朝日文庫)に、なんと「国県」を論じている章があった。「第五章 二つの『風土記』」だ。念のため図書館へ行き、私が所持していない著作も調べてみた。②『よみがえる九州王朝』(角川選書)の「第三章 九州王朝にも風土記があった」に出会った。上の2冊を教科書とすることにした。(①の方が後の出版である。①は②のダイジェスト版のようだ。主に①を用い、必要があれば②を援用する。)

私は風土記といえば713(和銅6)年5月2日の「風土記撰進の詔」に従って作成されたものだけだと思っていた。

五月甲子。制 畿内七道、諸国の・郷の名、好字を著(つ)けよ。其の内に生ずる所の銀・銅・彩色草木・禽獣・魚・虫等の物は、具(つぶさ)に色目(しきもく)を録せしむ。及び土地の沃藉(よくせき)・山川原野の名号の由(よ)る所、又古老の相伝・旧聞の異事は、史籍に載(の)せ、亦宜(よろ)しく言上すべし。

 この時(近畿王朝)の行政単位は「郡」であり、このとき撰進された風土記は全て「郡」単位で書かれている。この風土記を古田さんは「B型」と呼んでいる。

 しかし、『釈日本紀』(鎌倉末期に書かれた『日本書紀』の注釈書)や『万葉集注釈』(鎌倉中期の注釈書)にこれらと異なる風土記が現れている。こちらの風土記を古田さんは「A型」と呼んでいる。

〈例〉
A型(『釈日本紀』巻11)
筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の(あがた)。子饗(こふ)の原。石両顆(ふたつ)あり。一は片長(ながさ)一尺二寸、周(めぐ)りは一尺八寸、一は長一尺一寸、周一尺八寸なり。色白くして鞕(かた)く、円(まろ)きこと磨き成せるが如し。
B型(同上)
筑前の國の風土記に曰はく、怡土(いと)の(こほり)。兒饗野(こふの)郡の西にあり。此の野の西に白き石二顆(ふたつ)あり。一顆は長さ一尺(さか)二寸、大きさ一尺、重さ卌一斤(はかり)、一顆は長さ一尺一寸、大きさ一尺、重さ 卅九斤なり。

 B型の出典が「同右」となっている。古田さんは両方とも『釈日本紀』から転載しているようだが、私は岩波大系版『風土記』から転載した。当然のことながら、全くの同文であった。〈大系〉では次のような頭注が付されている。

「筑紫風土記の芋湄野の条に逸都県子饗原とあるのと同じ。」

 A型風土記と対比しているが「県」についてはだんまりを決め込んでいる。ちなみに、A型風土記は九州にのみ出現している。

 では「井の中」ではA型とB型と、どちらが先に作られたと考えているのだろうか。「A型が先でB型が後」が定説になっているようだ。これには古田さんも同意をしている。

 確かに、いったん「和銅六年の『風土記』撰進の詔」に従って「郡『風土記』」を作っていながら、また事新しく「県『風土記』」を作るなどということは、考えられない。しかも、九州だけという根拠はどこにもない。

 では、A型風土記はいつ頃撰進されたのだろうか。後に示すが、「井の中」では「風土記撰進の詔」に従ってB型が撰進される直前に気まぐれに(?)A型が作られていたと言う。ところで「履中紀」に次のような記事がある。

 403(履中4 干支年・癸卯)年8月8日
四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸国に国史を置く。言事を記して、四方の志を達す。

 この記事について、〈大系〉の補注は次のように解説している。

 書紀の「始之於諸国置国史。記言啓達四方志」の文は、杜預の春秋左氏伝序の「周礼有史官。掌邦国四方之事、達四方之志。諸侯亦各有国史」、史記正義、周本紀の「諸国皆有史。以記事」、漢書、芸文志の「左史記言、右史記事」の文などによったもの。「国史」は諸国に置かれた記録をあつかう官、すなわち書記官の意。

 ふつうこの記事は、五世紀において政治上に記録の法が利用されはじめたことを示すものとされるが、津田左右吉は、「国」という地方行政区画が画一的に定められた、大化改新以後に考えられたもので、書紀が履中紀にこの記事をあてはめたのは、応神朝に文字の伝来を記したことによるとする。

 なおこの記事をもって風土記の如きものを上進せしめたものと解する説が、平田篤胤の古史徴解題記、標註・通釈などにみえるが、史官の職掌を説明した「達四方志」という中国典籍によった文字に拘泥したもので、正しい解釈とはいえない。

 要するに「漢籍」を模倣した後世の「造作」であるというのが「定説」のようだ。しかし、この場合は平田篤胤などの解釈の方が正しい。ただし、403(履中4)年の出来事ではない。この点は後に検討する。

 ではこの記事をどう扱うべきか。実はこの記事は『古事記』にはない。このような重要な大事業を『古事記』ではカットした? 毎度おなじみのあのルールを適用すべき記事だ。「ない方が原型であり、ある方が添加物」。つまりこれは九州王朝の史書からの盗用記事だった。

 「井の中」では漢籍の模倣と切って捨てているが、古田さんのとらえ方はまったく違う。古田さんは〈大系〉の補注と同じ漢籍文を挙げてる。読下し文にしているので重複の煩をいとわずそれを転載する。

周礼、史官有り。邦国の四方の事を掌り、四方の志を達せしむ。諸侯亦、各国史有り(杜預『春秋左氏伝序』)
諸国皆、史有り。以て事を記す。(『史記正義』周本紀)
左史、言を記し、右史、事を記す。(『漢書』芸文志)


 古田さんは「履中紀」の「風土記撰進の詔」について、「右の一文は、中国の古典の文面に立った、見事な造文だ」と言う。そして上の漢籍文と比べて次のように続けている。(引用文中に例文として挙げられている原文は(A型風土記の一つ「閼宗岳(あそのたけ)」の一節。読下し文もそえておく。)

 この文(「風土記撰進の詔」)の作者が並み並みならぬ、中国古典の教養の持主であることが察せられよう。これを、あの和銅六年の元明天皇の『風土記』撰進の詔と比べてみよう。こちらは日本文を漢文風に並べてみたといった感じのものだ。天地雲泥のちがいといいたいくらいなのである。

 このちがいは、実はA型とB型のちがいと対応している。たとえば「閼宗岳」の文でも、原文は

清潭百尋 鋪白緑而為
彩浪五色 絚黄金 以分
天下霊奇 出玆華

(読下し文)
清潭百尋(せいたんひゃくじん)、白緑(びゃくろく)を鋪(し)きて質(そこ)と為す。彩浪五色、黄金を絚(は)えて以て間を分つ。天下の霊奇、玆(こ)の華に出づ。


といった、格調高い漢文だ。和文臭の濃厚なB型の文とは、全く文体を異にしている。こちらは『古事記』や『万葉集』などの世界と、より近いといえよう。

 いずれが上質かは、見る側の判断基準によろう。ともあれ、両者は文化の質を異にしている。

 私はここで「倭王武の上表文」や「法隆寺の釈迦三尊の光背銘」が見事な漢文で書かれているという古田さんの指摘を思い出した。それらよりずっと後代に編纂された『日本書紀』が倭習だらけなのだ。九州王朝が大和よりも格段に進んだ文化先進国であったことが分かる。

 A型風土記が見事な漢文であることは「井の中」の学者たちの認めるところでもある。例えば、坂本太郎氏の論文「九州地方風土記補考」の一節。(二つの風土記の分類記号が古田さんのとはことなる。すべて古田さんの記号で置き換えた。またどちらかをはっきり分かるように〈A型〉・〈B型〉という補足を付けた。)

ここに本書〈A型〉の撰修は明かにB型よりも早く、風土記撰修の時代として考へ得べき最も早き時代に係(か)くるも大なる誤謬はあるまいと信ずる。

 只(ただ)A型がB型に比し文章の全体に於いて支那風の文飾の多いことはこの考察に稍(やや)そぐはぬ感もしないではない。しかしそれは他の事情によつて解釈できるのであつて、むしろそこに二様の風土記の存在を説明すべき理由すら含まれてゐるのではないかと思ふ。

 まづA型に文飾の多きは撰者が文筆に長(た)けたる人であつた故であらう。多少時代が古くとも、有能な官吏を擁した大宰府にこれだけの漢文のできる人がゐなかつたとは考へられぬ。彼は恐らく外客に接する大宰府の地位を自覚したが故に、風土記撰進の詔に従つて直に筆を揮(ふる)ひこの風土記をものしたのではあるまいか。かくて筑紫風土記は奏進され、諸国のもの〈B型〉と並べられたが、その稍異例な体裁が眼立つた為に後の大宰府官人の何人かゞこれを基にして今一度〈B型〉風土記の撰修を企て、そこに諸国風土記の粋を取り、自己に理想の形式を盛つたのであらう。……かくてともあれ、この類の風土記も奏進せられ、九州地方の風土記は二種となつた。

 「A型が先でB型が後」と主張しているが、どちらの風土記も713年の「風土記撰進の詔」後の時期に収めようとしている。そして、A型の見事な漢文で書かれていることを認めながら、その風土記をわざわざ倭習だらけのB型に書き換えたと言っている。こんなおかしな論理をご本人は「おかしい」と感じないようだ。「井の中」の論証の多くは、論証でなく、恣意的な解釈に過ぎない。「井の中」の古代史は恣意的な解釈の積み重ねで成り立っていると言っても過言ではないだろう。。

 またさらに、上の説明ではA型が「郡」ではなく「県」を用いてる理由がまったく不明である。この問題について、坂本氏も漢籍の模倣と考えているのだろうか。
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【気付き】
「国,縣」の行政単位について,古田氏の下記2冊,

(1)『法隆寺の中の九州王朝』
1988(朝日文庫)
(2)『よみがえる九州王朝』
1983(角川選書)

を見られたのは,よろしいと思いますが,古田氏が正面切って,この問題を論じられたのは,(1)でなく,(2)なのです。

・したがって,本人が「旧稿を改めた」とか,「旧稿は廃棄する」とか断っていない限り,まず参照すべきは“初出”なのです。

・また取り上げた著作が,いつの発行なのか明示がありません。こういった事は,きちんと示す必要があります。

・なお,
(1)の『法隆寺の中の九州王朝』の初出は1986年の朝日新聞社刊です。したがって,“初出”に拠られるのがよろしいかと思います。文庫版を採用される場合は,その旨断る必要がありましょう。

・古田説を奉じていらっしゃる方々は,氏の著作は一通りお持ちで,氏の言説の大事な部分(初期のもの)はおおよそ理解していらっしゃるものと思って,記事を拝見しておりましたが,そうではないという意外な言葉に接し,驚いています。

・さらに気になったのは,他者の言説よりの引用の仕方です。
貴兄の場合,時にこの主張は誰のものなのか不明なことがあり,引用箇所には鉤括弧「」を付けるとかなさらないと,“自他”が大変まぎらわしいです。

・後,古田説を信奉なさる以上,貴兄の説が,古田氏の説を金科玉条と考えて,それに沿ったものになるのは仕方のないことだと思われます。

・しかしながら,既にお気付きの事と思いますが,氏の説は“証明”されたものでなく,言わば“仮説”に過ぎません。

・したがって,時に訂正や旧説撤回が見られます。しかし,そのことが,どこまで及ぶのか,古田氏自身においても“後始末”が十分ではないのです。

・あくまでも,研究において大事なことは,ご自分の頭で考えることです。あまりに盲信なさると,真実を見誤ってしまいます。

・以上,よくお考え下さい。
2011/05/28(土) 07:49 | URL | 隠居 #hvIICHmQ[ 編集]
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