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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(176)

「天武紀・持統紀」(91)


「大化改新」の真相(14)
「品部廃止の詔」をめぐって(3)


〈3〉國縣

 このおかしな詔勅をなんとかつじつまが合うように解釈しようと、〈大系〉は36個もの頭注を付けている。「國縣(くにこほり)」(この詔には2回使われている)には次のような注が付いている。

「中国の熟字としては落着かない。国と県(あがた)か。」

 何を言いたいのか、よく分からない注釈だ。一応一生懸命読み取ってみる。
『「国県」という熟字であるひとつの行政制度を表しているとは考えがたい。「国]と[県」という二つの異なる行政制度を併記しているのではないか。』
と言っているようだ。実は「孝徳紀」の大化元年9月19日の詔にも「国県」が使われている。こちらの方が先出なのに、どういうわけかこちらには何の注釈もない。(改めて読んでみると、この詔も「持統紀」に移すべきものかも知れない。)

「国県」が他でも使われているかどうか調べてみた。他に2件あった。135(成務5)年9月条と472(雄略16)年7月条である。

135(成務5)年9月
諸國に令(のりごと)して、國郡(くにこほり)に造長(みやつこをさ)を立て、縣邑(あがたむら)に稲置(いなき)を置(た)つ。並に盾矛を賜ひて表(しるし)とす。則ち山河を隔(さか)ひて國縣(くにあがた)を分(わか)ち、阡(たたさのみち)陌(よこさのみち)に隨ひて、邑里(むら)を定む。因りて東西を日縦(ひのたたし)とし、南北を日横(ひのよこし)とす。山の陽(みなみ)を影面(かげとも)と曰ふ。山の陰(きた)を背面(そとも)と曰ふ。是を以て、百姓(おほみたから)安く居(す)みき。天下(あめのした)事無し。

472(雄略16)年7月条
詔(みことのり)して、桑に宜き國縣(くにあがた)にして桑を殖ゑしむ。

 この2例は「くにこほり」ではなく「くにあがた」と訓じている。初出(成務紀)には次のような頭注が付されている。

「記には「定賜大国小国之国造、亦定賜国国之堺、及大県小県之県主也」とあり、稲置のことはみえず、県主の設置としている。国郡・県邑とあるのは中国風の潤飾。国造・県主(稲置)の設置を成務朝にかけたのは、景行朝における蕃夷平定のあとをうけて、地方行政機構が整備したことを示そうとしたのであろう。→補注7一四六。」

 「成務」に「稲置」がなく、「成務」に「県主」がないので「県主=稲置」と解釈している。「国」と「県」の関係についての判断はさけているようだ。「→補注7一四六」に従ってその長ーい補注を読んだら、「→〔下〕補注25-八」とある。これは「東国国司発遣の詔」に出てくる「県稲置」についての補注だった。重複している部分もあり、全体相当に混乱しているが、せっかくデータ化したので、紹介しておこう。(「井の中」の議論に興味がない方は飛ばしてください。)

 まず「〔下〕補注25-八」(適時段落を付けました。)

 県には
(1)天皇の直領地とする説と
(2)国県別ともいうべき二段階の地方区画における下級のそれである
という説がある。

 (1)は、たとえば大和の六県が事実、天皇の直領地とみられることから支持される。

 また(2)は成務記に、
(a)「定賜大国小国之国造、亦定賜国国之堺及大県小県之県也」、
成務五年九月条に
(b)「令諸国以国郡立造長県邑置稲置」 といっていることと、隋書、倭国伝に
(c)「有軍尼(クニ、国造か)一百二十、猶中国牧宰、八十戸置伊尼翼(翼は冀の誤りで、イナキか)如今里長也、十伊尼翼属一軍尼」
とあることから推測される。勿論記紀の成立からみて、成務朝の記事は事実であるまいが、隋書に記録された七世紀前半には、全国的にでなくとも国県制が成立していたとみるのである。但し隋書の記載は誇張で事実を伝えたものではないとみる人も多い。

 次に県の長官を何とよんだかにも二つの場合がある。一つは、県主である。県主はじっさいには氏の名になっているものが多く、しかも、(1)の直領地の六県の名と対応する県主の氏はかなり多い。これに対してこゝにみえる県稲置は難解である。これについて通釈は、おそらく県の長はすべて県主であるという考え方から、県の次に主の一字を補って、県主、稲置とよんでいる。しかし、主の字のある古写本は存しない。

 これに対して中田薫は、県にはもともと(1)天皇の直領地と、(2)下級地方区画としての県と二通りあり、前者の長は県主であり、後者の長は稲置であるとした。なぜなら右掲の(b)では「県邑置稲置」という。又(c)は軍尼(クニ、国造か)―稲置の二段階の組織を示すが下級組織の長は稲置になっているからである。この中田説は今日のところもっとも安定した見方である。

 なおここの県稲直の県に古訓ではアガタではなくて、コホリとなっている、そこで中田は同じ県も(1)の場合はアガタ、(2)の場合はコホリと訓むべしとした。ただし、書紀の古訓によって論ずることは危険である。

 「古訓によって論ずることは危険である」とまともな指摘しているが、補注者はいまのところ中田説を支持している。

 次に「補注7一四六」の続き。
 井上光貞は国造制は大和朝廷の成立以前に、部族的・呪術宗教的な政治集団であった小国や諸小国の連合が発達したものではなく、大和朝廷の国家権力によって、小国や諸小国の連合を再組織して作りあげた地方行政制度であったが、遅くも七世紀の初頭には国-県の二段階からなる行政組織が成立していたとし、ただ大化以前の国家権力は強大でなかったので、ある地域には国県別が浸透し、他の地域では小国や諸小国の連合が県の組織を欠いたまま国になるといったように地域的に不均等が見られたとした。井上はさらに、その国の長官は国造であり、県の長官が県主であり、稲置はその姓であるとしたが、後には稲置を県主の姓であるとみた点は改めて、中田説が妥当であるとした。

 井上の旧説に対して、上田正昭は、隋書の記載は隋の百家一里制を念頭において書いた空想豊かな文であるとして中田・井上が七世紀初頭にその存在を認めようとする国県制を否定するとともに、また県の地域的分布は畿内を中心として中国・九州地方に多く、大和朝廷の東国経営以前の様相を示していることから、県の存在は三世紀後半より五世紀にかけての大和朝廷の国家権力の拡大過程を反映しており、五世紀から六世紀にかけて新しく国造制による支配体制が成立すると、県は実質的な意味を失ったとする。

 稲置は、闘鶏稲置(仁徳・允恭紀)のように、姓(かばね)として用いられている他に、稲置代首・因支首などのように、氏名ともなっていることから考えると、古く地方社会において、豪族に与えられた官名が、あるいは姓となり、また氏名となっているのに通じ、古代における地方官の名称であった。ただ、いかなる地方官であったかについては、皇室領の経営支配を担当する地方官の名称ではなかったかという説と、上記の中由・井上の如く国造の国の下級機関としてたてられた県の官職とする説とがある。

 記紀に見える国造・県主名をあげれば次のとおりである。

〔国造名〕
出雲・武蔵・茨城(神代紀)
菟狭・倭・葛城(神武紀)
筑紫・越(孝元紀)
讃岐・美濃・火・日向(景行紀)
播磨(仁徳紀)
讃岐(履中紀)
闘鶏(允恭紀)
大倭・吉備(雄略紀)
筑紫(継体紀)
伊甚・武蔵(安閑紀)
筑紫・倭(欽明紀)
火葦北・紀(敏達紀)
穴戸(白雉元年紀)

出雲・旡邪志・上菟上・下菟上・伊自牟・遠江・凡川内・茨木・山代・馬来田.道尻岐閉・周芳(神代記)
倭・伊余・科野・道奥石城・常道仲・長狭(神武記)
近淡海(孝昭記)
木(孝元記)
甲斐・本巣・多遅摩(開化記)
木(崇神記)
出雲(垂仁記)
日向・三野・尾張・相武・近淡海安(景行記)

〔県主名(県名も含む)〕
菟田下・菟田・曾富・猛田・磯城・葛野(神武紀)
磯城・春日(綏靖紀)
磯城(安寧・懿徳・孝昭・孝元・孝安紀)
十市(孝安・孝霊紀)
茅渟(崇神紀)
長峡・直入・子湯・諸・熊・八代・高来・八女・水沼(景行紀)
岡・伊覩・儺(仲哀紀)
度逢・山門・松浦・沙麼(神功紀)
諸・川島・上道・三野・波区藝・苑・織部(応神紀)
粟隈・猪名(仁徳紀)
嶺・茅渟(雄略紀)
三野(清寧紀)
壱岐・対馬下(顕宗紀)
三島(安閑紀)
茅渟(崇峻紀)
葛城(推古紀)
片県(斉明紀)
高市・磯城・三野(天武紀)

津島・高市・佐那(神代記)
師木(安寧・懿徳記)
十市(孝霊記)
旦波(開化記)
未羅(仲哀記)
諸(応神・仁徳記)
志幾(雄略記)。

 ようするに定説はないということらしい。読んでいるうちに私の頭も相当混乱してしまった。要点のみまとめてみる。

 三つの説がある。

① 井上説
 「国県」は「国-県」の二段階からなる地方行政制度であり、遅くも七世紀の初頭には成立していた。そして、「国」の長官が「国造」であり、「県」の長官が「県主」であった。

② 上田説
 、「県」は3世紀後半より5世紀にかけて、大和朝廷の国家権力の拡大の過程で成立した。そして、5世紀から6世紀にかけて新しく国造制が成立すると、「県」は実質的な意味を失った。つまり、「国県」は「国」と「県」であり、別時代の行政制度である。

③ 中田説
 「国県(くにのあがた)」は朝廷直轄地で、「稲置」はその長である。また「国県(くにのこほり)」は地方行政制度であり。「県主(こほりぬし)」がその長官である。

 微に入り細を穿ちしながら議論をしているが、肝心の大道を見失っている観がある。「井の中」の議論の常である。言うまでもなく原因はヤマト王権一元主義にある。それは次のような点に現れている。

 「井の中」では『日本書紀』や『古事記』のどこまでが「造作」で、どこからが「信憑性がある」と考えているのだろうか。いいかえると、三説とも「国県」を大化(孝徳)期以前の成立としているが、上限はどの時代を想定しているのだろうか。上田説の「3世紀後半より5世紀にかけて」という判断は「記紀」の記述から得た判断ではなく、たぶん古墳造成期ということからの判断だろう。これが「井の中」で共有している土俵なのかも知れない。

 では「紀記」の記事はどの辺あたりから史料として採用しているのだろうか。『岩波講座・日本歴史2』所収の八木充論文「国造制の構造」を読んでみたら、「国造制の成立・拡大」の論拠に「雄略紀・継体紀・安閑紀」を取り上げている。上田説の「5世紀から6世紀にかけて」という判断もここから出ていると思われる。また、「国造制の地域的な多様性を理解するためのてがかり」として、「記紀」・「風土記」「続紀」などを使って「国・国造表」を作って論を進めているが、上限はやっぱりうやむやである。

 上の八木氏の「国・国造表」も上の補注の「県・県主」一覧も、「紀記」の「造作」として認めていないはずの神武や欠史八代も仲間に入れている。けれども下限を考えるてがかりとしては無視している。記事全体は「造作」であるけれども、そこに使われている「国造」や「県主」は後代に実際に存在したものを編纂者が利用したのだ、と考えているのだろう。こういう資料の扱い方は恣意的過ぎると言わなければならない。(この項つづく。)
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