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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(175)

「天武紀・持統紀」(90)


「大化改新」の真相(13)
「品部廃止の詔」をめぐって(2)


 前回、『「品部廃止の詔」は他の詔勅とはガラッと違う文体で、おかしな文章という印象がある』と述べたが、そのおかしな事柄を具体的に検討してみよう。

〈1〉今之御寓天皇

 天皇という用語に準ずる単語がたくさん出てくる。天皇以外を拾い出すと次のようである。
人主(きみ)
王(きみ)…三回
王者(きみ)…二回
帝(きみ)

 宇治谷氏の現代語訳では「人主」はそのまま使っているが、「王」と「王者」は全て「天皇」に書き換えている。また「帝」は「君」と書き換えている。よっぽど困ったと見える。結果、読下し文も分かりにくいが、現代語訳文も実におかしな文章である。私の読解力では読めば読むほど意味が分からなくなってしまう。

 私が初めに躓いた箇所は「今の御寓天皇(あめのしたしらすすめらみこと)より始めて」というくだりである。まず「御寓」という言葉自体に「?」が付く。この言葉は三回使われている。「あめのしたしらす」と訓じる言葉で私になじみなのは「治天下」と「御宇」である。「御寓」なんて表記があるのを知らなかった。他の記事でも使われている例があるのか、調べてみた。「孝徳紀」ではもう一回、650(白雉元)2月15日条で使われている。あの伊勢王が登場する白雉改元記事である。

 「孝徳紀」以外では「敏達紀」にあった。583(敏達12)年是歳条である。この記事中に「檜隈宮御寓天皇之世」とある。過去の天皇を指している。ちなみにこの条は「任那復興」の記事で、日羅(百済人)という倭国への協力者を同じく百済人の随行者・徳爾等が暗殺をした事件の顛末が述べられている。この記事の一部を「鎌足と鏡王女(13)」で取り上げて、この記事が九州王朝や百済の史料からの盗用であることを論証した(つもり)。

 以上から、「御寓」という言葉も九州王朝特有の用語ではないかと思った。

 次に不審なことはこの詔では詔を発している当人が「今の御寓天皇」と言っていることである。詔の中で自分のことを「あめのしたしらすすめらみこと」などと言う例が他にあるだろうか。調べてみた。

「治天下天皇」の場合
 「持統紀」689(持統3)年5月22日条に二例ある。「在昔難波宮治天下天皇崩時」と「近江宮治天下天皇崩時」で、いずれも過去の天皇のことである。

「御宇天皇」の場合
 次の七例である。「舒明紀」の場合は出生記事の中での「後の~天皇ですよ」という分注である。あとは過去の天皇をさしている。
「纒向玉城宮御宇天皇之世」(仁徳紀)
「自磯城嶋宮御宇天皇之世」(推古紀)
「近江大津宮御宇天皇」「浄御原宮御宇天皇」(舒明紀)
「磯城嶋宮御宇天皇十三年中」「訳語田宮御宇天皇之世」「小墾田宮御宇天皇之世」(孝徳紀)

 詔の中で自分のことを「あめのしたしらすすめらみこと」と言っている例は「品部廃止の詔」以外にはない。おかしい。

 「今之御寓天皇」とは九州王朝の天皇なのではないだろうか。「昔在天皇」と対になっているのだ。このように考えると、「今の御寓天皇より始めて、臣・連等に及るまでに、所有る品部は、悉に皆罷めて、國家の民とすべし」というくだりはすっきりとよく理解できる。「皇太子の上奏」という名目で九州王朝の資産(子代・屯倉・部曲・田莊)を献上させたのに続いて、今度は「品部」を没収したのだ。

 また、「品部廃止の詔」に現れる「王」・「王者」などはすべて九州王朝の天子を指すものとして読んでよいのではないか。そのように読んでも文章がうまくつながらない部分が残るが、大筋の意味はうまく通ると思う。

〈2〉卿大夫臣連伴造

 さて、次に私が引っ掛かっているのは「卿大夫臣連伴造」という連称である。「東国国司賞罰の詔」では「卿大夫及臣連国造伴造」と国造も入っている。私は「伴造」は九州王朝の用語ではないかと考えているので、このような連称句も九州王朝史書の常套句ではないかと思った。これらと同じような連称があるかどうか調べた。初出は「顕宗紀」で、486(顕宗2)年(干支では丙寅年)3月3日条である。

三月上巳に後苑(みその)に幸(いでま)して、曲水(めぐりみず)の宴(とよのあかり)きこしめす。是の時に、喜(ねむごろ)に公卿大夫・臣・連・國造・伴造を集(つど)へて、宴したまふ。群臣(まへつきみたち)頻(ひきりに)に稱万歳(よろこびまう)す。

 なんと「曲水の宴」記事だった。「曲水の宴」記事はこの他に元年と3年にもある。元年記事の頭注を読んでみよう。

「三月三日の曲水の宴の初見。この後二年条・三年条と引続いて見えるが、その後は見えず、続紀、文武五年三月丙子条以後再び国史に散見する。このころ曲水宴が行われたか不明。書紀編者の挿入したものか。」

 もっともな疑念である。しかしこの問題も「井の中」ではお手上げだろう。「古田史学」ではすでに解決済みだ。古田さんの講演抄録「二つ確証について ―九州王朝の貨幣と正倉院文書―」より引用する。

 顕宗紀にはこの銀銭記事をはさんで、三月上巳の「曲水の宴」の記事が三年続いて現われる。曲水宴は天子が行う遊びとして中国南朝に伝統があった。顕宗紀の干支を二巡引き下げると605~7年となる。隋書の「日出処天子」の時代である。南朝・陳が滅亡(589)すると倭国は「天子」を名のる。

 日本列島で曲水宴を行った例があるか?。久留米の筑後国府跡から曲水宴遺構が発掘されている。最近の年輪測定を加味すると、従来の考古編年より百年繰り上がるのが常識らしい。この遺構の年代上限は七世紀初めか。だから銀銭と曲水宴の記事は九州王朝での事実として矛盾しない。

 一連の「曲水の宴」記事は九州王朝の史書からの盗用記事である。「公卿大夫・臣・連・國造・伴造」というような連称も九州王朝史書の常套句だったのではないか。
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